綺麗な薔薇には棘がある⑤

 これはたぶん、ドイツ語だろうか。カーステレオに入れっぱなしのCDがあったのか、曲の途中から再生された舌足らずな女声ボーカルを中庭がすぐさま停止させる。井浦いうらとしては音楽がかかったままでも一向に構わないのだが。


 大会初日を終え、部員たちも帰路に就く。

 井浦とすみれは大会のたび顧問の車で学校まで送ってもらうのが恒例で、二人はすっかり慣れた調子で焦げ茶のシートにもたれていた。生徒を乗せているからか元来の性格なのか、中庭の運転はいつも過剰なほどに慎重だ。

 ゆっくりとした減速、十分すぎる車間距離。煙草の匂いひとつしない車内に時折井浦の乾いた咳だけが響く。


「井浦さんキャンディとかいります? 普通のだから効果ないかもですけど」


 隣からすっと差し出された袋には個包装のキャンディが詰まっていた。お言葉に甘えることにして、井浦は大袋から黄色の包みをつまみ上げる。


「ありがとう。スミちゃんの鞄は小さいのに何でも出てくるんだねえ」

「はい。菫すぐ疲れちゃうんで、手軽な糖分がないとだめっぽいんですよね」


 学生の集団というのは一歩学校を出れば(あるいは学校の中でも)必ず菓子を持ち寄るものである。小学校の遠足でも中学の部活でも、高校でも話は同じだ。

 花ノ谷かのやの面子の中で菫がその役を担うというのは少々意外だったが、菫の場合はなにより本人がカロリーを必要としているようだった。透き通った飴玉を口に入れた井浦は、作り物のレモン味に舌を刺されながら今日の本題を切り出した。


「今日はごめんね。鞠佳まりかに聞いたけど、あの後スミちゃんがどうにかしてくれたんだって?」

「別になんにもしてないですよ。平原さんはいつも通りしれっといなくなっちゃったので、二人ともそんな派手には揉めないよ、交戦状態にまでは発展しないから大丈夫だよ、ってみんなに説明したら石田ちゃんが爆笑でした」

「ルコちゃんって笑うんだね? あたし見たことないや」

「それは井浦さんが怖がられてるだけで、石田ちゃんは結構笑い上戸です」

「なんか今日のスミちゃんはご機嫌斜めだな~! 怒ってる?」


 気のせいですよお、ととぼける後輩は後始末を押しつけられた不服を隠そうともしない。長い髪にゆっくりと指を通していた菫は、街明かりから目を離さずに口を開いた。


「怒ってるわけじゃないです。大会当日にいきなり喧嘩してそのままどっか行っちゃってそれっきり午後の試合が始まるまで戻って来なかったのはどうかと思いますけど、井浦さんの言ってることも正論なんだと思います。林ちゃんも言ってましたもん、団体戦の平原さんはわがままだって」


 やはり怒っているようにしか聞こえないわけだが、井浦はあえて積極的に後輩に構いに行く。後部座席で無理矢理肩を組まれた菫は見るからに嫌そうな顔をしているが、井浦はこの程度の反応で怯むほど繊細な人間ではなかった。


「やっぱり? スミちゃんからも何か言ってよ、それならセイちゃんも聞いてくれるかもしれないし。セイちゃんもかわいい後輩には甘いからさあ」

「それはどこの世界の話ですかね、菫まったく存じ上げてないです」


 にべもない否定に運転席の中庭がくすりと笑う。車内の空気が心なしか和らいだところで目ざとく井浦の腕を肩から外した菫だが、その表情は依然として不機嫌さを振りまいている。

 ぱちんと顔の前で両手を合わせた井浦は、本格的に頼み込むポーズを作った。


「そこをなんとかさあ。まあちょっとふざけましたけど、スミちゃんから頼んでくれたら助かるな~っていうのはほんと。あたしが言っても無駄だしね」

「誰が言ったっておんなじだと思いますけど。っていうか、そもそも菫、井浦さんたちの言うことにはあんまり賛成できないです。一人の部員に押しつけすぎじゃないですか? だって、平原さんのところで確実に勝ちを計算してる時点でどんだけ頼ってるんだって話で……それがエースだって言っちゃえばそれまでですけど。八倶坂は、平原さんには頼らないってみんなが思った結果として優勝できたんだと思うんですよ。井浦さんにこれ言うのちょっと、なんか、気まずいですけど」

「あはは、あたしは鞠佳じゃないから大丈夫! いい話だね~。でもあたし、セイちゃんにおんぶにだっこでもいいから勝ちたいんだよね」


 我ながらプライドの欠片もない言葉だが、これが井浦の真意だった。鞠佳が聞けばむっとするのだろうし、薫子かおるこは意外にもくすりと笑うのかもしれない。

 軽口を叩くでもなく数度瞬きした菫は、シートベルトに阻まれつつもどうにか座席から身を起こした。


「あの……一個だけ、聞いてもいいですか」

「なあに?」


 高校のジャージは細身な後輩には大きいようでほとんど肩がずり落ちている。鬱陶しげに袖をたくし上げた菫は、自分もキャンディをひとつ口に放り込んだ。


「菫、井浦さんのことめちゃくちゃ負けず嫌いな人だと思ってます。最近の井浦さんはそういう感じじゃなかったですけど、今日なんてその典型みたいなこと言ってましたし――だからよくわかんないんです。井浦さん、なんでわざと負けたりしたんですか?」


 信号が赤になる。ゆっくりと減速する車の中で、井浦は飴玉にがり、と歯を立てた。


「部活見学の時、花ノ谷は全県に行けないレベルだって言ってましたよね。その時は何とも思いませんでしたけど、平原さんがいるって聞いて変だなと思ったんです。だって、二人がいて勝てないわけないですもん。高校のルールならますます有利なのに、それで勝てないっていうのは三年がよっぽど好き勝手してるか顧問が卓球に興味ないか、もしくはその両方です。だから岩傘いわがさちゃんの話を聞いた時は一旦納得しました――でも、菫の知ってる井浦さんは、そこで先輩に大人しく出番を譲るような人じゃありません。それで、今日はずーっと考えてました。なんで井浦さんがわざとレギュラーから外れたりしたのか」

「……あは、ばれた?」

「ばれますよ。だって、井浦さんは勝つためならなんでもするでしょ。本気で勝ちたいなら派手に揉めてでも、最悪なんとかして先輩を辞めさせてでも試合に出るでしょ? 井浦さんが変わってないのは今日のことでよくわかりました、だったら団体戦に出てないのは先輩に言われたからじゃない。なら自分の意思だって考えるしかないじゃないですか」


 前言撤回だ。進藤菫は気の利く後輩だが、余分に頭が回りすぎる。今後は不用意な発言に気をつけるべしと遅まきながら自戒して、井浦は後輩の推論に耳を傾ける。


「菫ね、不思議だったんです。三年の人たち、いくら試合に出たいって言っても井浦さんを押しのけるメリットはないんじゃないかなって。県大会には行きたいみたいだったし、それならおとなしく強い人を出しとけばよかったわけじゃないですか。なのにどうして自分たち中心のチームにしたのかと思って――それで気付いたんです。三年生が井浦さんを出さなかったんじゃなくて、そもそも井浦さんを団体戦に出せなかったんだって」

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