藍より出でて③

 効き過ぎた冷房の風が髪をくすぐる。いかめしい姿勢で窓際の席に座った薫子かおるこは軽く身震いし、少しでも熱を得ようと半袖から出た腕を組み合わせた。

 車内に取り付けられた大きなデジタル時計を見れば、白っぽく光る数字が現在時刻を示している。四時四十分。本来ならばまだ学校にいて、あの生ぬるい体育館に押し込められているはずの時間だ。


 顧問の中庭には用事で部活に出られないと昨日のうちに伝えておいた。六時間の授業を終えて教室の掃除を済ませた薫子は花ノ谷高校前に到着した市営バスに乗り、こうして人工的な風に冷やされている。

 思えば、平日に部活を休むなど初めての経験だ。自分で言うのもなんだが、薫子は生まれてこのかた優等生と呼ばれてきた類の人間だった。

 無遅刻無欠席、成績はいくぶん平均を上回り同級生とのトラブルを起こしたこともない。理由を偽って部活を休む、たったそれだけのことがちょっとした冒険のように思えてしまうほど新鮮で、薫子はしきりに横を向いては知り尽くしたはずの街並みを眺めていた。

 小中と見てきた市内の路地に目新しいものはない。田宮商業高校を過ぎ、田宮東中が見えてきたところで停車ボタンを押す。次の停留所、市民体育館が薫子の目的地だった。


 真っ白な壁に模様のように埋め込まれた小窓、格子状の細い柱、真っ平らな黄色い屋根――小学生時代に数年通った体育館の外観はどこも変わっていない。自動ドアを抜けスリッパに履き替えた薫子は、受付の男性にぺこりと頭を下げる。


「卓球教室に用があるんですが、場所は以前と同じですか?」

「ああ、昔の生徒さんかな? ずっと変わってないよ、そっちのサブで練習してる」


 親切そうな年配の男性に頭を下げ、薫子はぺたぺたと気の抜けた音を立てて通路を歩く。メインアリーナからは楽しげな笑い声が聞こえて、そういえばここはバレーボールに使われていたような、と古い記憶が蘇る。

 この空間を迂回して行くと廊下の脇に白塗りの両開きの扉が見えてくる。まるで裏口のようだが、これが歴としたサブアリーナの入口だ。

 この教室に若山すずがまた顔を出している――かつてのチームメイトからそんな話を聞いたのはしばらく前のことだった。それが事実だったとして、若山が今日ここにいるとは限らない。さらに言えば田宮二高の時間割も、若山が何時に練習を始めるのかもわからないわけだが、準備の悪さを悔やんでも仕方がなかった。

 いざとなったら大人に話を聞いて出直せばいい、と開き直って、薫子はサブアリーナに足を踏み入れた。


 ボールが床に跳ねる重みのある音。味方への激しい指示が聞こえる。バスケ部が駆け回るコートに入らないよう小走りに卓球台へと向かった制服姿の薫子は、スポーツウェアばかりの空間には明らかに不似合いだった。探し人のほうから声をかけられたのもきっとそのせいだろう。


「……石田さん?」

「はい。お久しぶりです、若山先輩」


 胸のあたりに田宮第二の校章がプリントされた体操着の袖をまくった若山は懐かしそうに薫子の全身に視線を滑らせ、変わらないね、と微笑した。


 話があるんです、と切り出すと、若山は快く時間を取ってくれた。練習相手の若い女性はここの教師役を務めているのだろうが、薫子には見覚えのない人物だった。


「さっきの人は葛原くずはらさんって言うの。石田さんは今日初めて会ったかもしれないけど、田宮東の先輩なんだ。わたしの二つ上で、当時県北で一番強かった人。今も卓球を続けてて、今は夏休みだからこっちに戻って来てるの」

「あの人もここ出身なんですか?」

「うん。去年から、葛原さんが帰省してる間は練習に付き合ってもらってる。場所だけ借りて、小学生が教わってる横でひっそりね」


 今も小中学生が中心の教室に若山が通う理由が気になっていたのだが、臨時コーチのような形で大学生と練習していたらしい。花ノ谷が岩傘日向を呼んだように――旭の姉が卒業生だったかは知らないが――力のある卒業生を頼るのはままあることなのかもしれない。

 しかし薫子には、若山が強くなった理由がそれだけとはどうしても思えなかった。


「見てました、シード選考会。凄かったです」

「ありがとう。井浦さんより上の順位が取れるなんて、自分でもびっくり」


 コンクリートに直射日光が降り注いでいる。平たく伸びた屋根の下、玄関前に設けられた木のベンチに並んで座った若山はぬるい風を浴びておどけた。

 直接対決こそなかったものの井浦をかわし、正藍寺しょうらんじの選手の中に割り込んでの七位。今回の順位は本人にとっても驚きだったようだが、若山の試合を信じられない思いで見ていたのは薫子も同じだ。


 数日前に美景みかげが教えてくれた中学時代のあだ名。安定した実力があっても本当に強い選手にだけは勝てないことを揶揄する、リトマス紙という呼び名。失礼極まりない話なのだが、それを聞いた薫子は自然とこの先輩のことを思い出していた。

 若山鈴は優れた選手だった。基礎がしっかりした田宮東らしい堅実さ、台から少し距離を取って相手の攻撃についていく粘り強さ。しかしその戦型は、平原や浜崎といった攻撃の選手には押し込まれて防戦一方に、井浦や小野寺のような異質型に振り回されては好きにやられる危険性も秘めていた。

 いい試合にはなっても相手を脅かせはしない。田宮東のエースだった若山もまた、格上の同級生に勝てずにいる選手だったのだ。


「林美景とも当たりましたよね」

「うん、すごく強い選手だった。正藍寺から来たんだって?」


 薫子は無言で頷く。選考会の二次リーグで、若山と美景はともにAリーグ第三組にいた。正藍寺の青木光希みつきが全勝でトップを守り、若山が二位、美景が三位。

 二位通過で順位決定リーグに臨んだ若山は、五位から八位までを決める第二組でも正藍寺の選手から一勝をもぎとってみせた。

 格段によくなったフットワーク、以前よりはるかに効果的だったサーブ。特に中陣からのドライブは浜崎海玲みれいを思わせる威力で――以前の堅実さに力強さが加わった若山の卓球はもはや格上に押されるばかりではなく、事実見事な結果を出している。

 どうしたらたった一年でこれほどまでに変われるのだろう。どんな努力を重ねれば今より強くなれるのだろう。いくら考えてもらちが明かず、薫子はとうとう部活を休んでバスに飛び乗った。


「……わたしは、何年か先輩のプレーを見ていたつもりです。だから本当に驚きました。若山先輩は、どうやって強くなったんですか」

「やっぱり、聞きたいことっていうのはそれ?」


 足元で砂利の擦れる音がした。地面からローファーの底を浮かせた若山は不躾な問いに気を悪くする風もなく、ぷらぷらと足を上下させながら大きく伸びをする。そのままじっと空を見上げた若山は、やがてぽつりと呟いた。


「わたし、背が伸びたんだよね。中学を卒業してから、たぶん五センチくらい。それで、今もまだ少し伸びてるみたい」


 一体何を言い出すのだろう。薫子は、続く言葉を聞き逃すまいと体を横に向けた。


「男子って、女子よりドライブが曲がるじゃない? スピードを出すだけじゃなく、回転量を増やすにも力は必要なんだと思うの。背が小さい子がラケットの角度を作って決めるのと、背の高い子が上から振り切るのとじゃ威力が違う」

「……それは、そうでしょうけど」


 薫子がもどかしげに口を挟む。他の競技の例に漏れず、フォアとバックの両ハンドを振っていくことが主流となった卓球も体格に恵まれた選手が有利なのは変わらない。

 威力のあるボールは何よりの武器ではあるが、ここまで来て体格がすべてだなどと言われても素直に賛同しかねる。そんな薫子の思いを汲んでか、若山は腕を下ろして小さく笑う。


「夢がないよねこんな話。でも本当なの。あれだけ頑張った中学の時は全然勝てなかったのに、勉強に時間を取られて練習量が減った今の方が結果が出てるの。卓球は背の低い人にも利点があるスポーツだって言われるけど、やっぱり下げられた時のパワーは違うと思うし……わたし、昔は守るために中陣でプレーしてたけど、今はそこから攻めていけるようになった。それは、後ろから打ち切る力がついたから」


 訥々と語る若山は、すでに自身の現状を割り切っているように見えた。若山の中学時代の練習量は薫子も知っている。取り組む姿勢の真剣さも。

 いくら努力しても出なかった結果が、競技にすべてを懸けるのをやめた途端目に見える形になったとしたら――自分ならどんな気持ちになるだろうと想像して、薫子は自らの手でもう片方の腕を押さえつけた。


「たぶんわたしが特別上手くなったわけじゃないの。ただ中学の時より力がついただけ。背が伸びたり筋肉がついたりして、前よりボールに力が伝わるようになっただけ。だから、どうして勝てるようになったのかは教えてあげられない。体格が変わったからだと思う、とは言えるけど……これじゃ、石田さんには何の参考にもならないよね」

「いえ、それは……。失礼なことを聞いてすみません、練習の邪魔もしてしまって」


 薫子が頭を下げると、全然いいよ、と若山が首を振る。一対一で話す機会こそあまりなかったが、若山は昔から誰にでも親切な先輩だった。

 いきなり押しかけた後輩にここまで素直に思いを打ち明けてくれる人が優しくないわけがない。自分が若山の寛容さを利用したようで、薫子は得体の知れない罪悪感に襲われた。


「今日はありがとうございました。話が聞けてよかったです」

「あ、ちょっと待って」


 帰ろうとしたところを引き留められ、リュックを背負った薫子が足を止める。ベンチから立ち上がった若山は、思いがけず熱のこもった目で薫子を見た。


「わたしからひとつ言えるのは、石田さんがこれからもっと強くなれる可能性は十分あるってこと。石田さんの卓球は、回転量が上がれば全部変わると思うから」

「……はい。ありがとうございます」


 薫子はもう一度頭を下げ、体育館に戻る若山を見送った。次のバスが来るまでは時間がある。またベンチに腰掛けた薫子は、めくれて裏地が見えたセーラー襟を手で直した。

 自分は何をしていたのだろう――熱気混じりの風を頬に受け、薫子は静かに思う。

 嫌な思い出ばかりの中学時代に、もっとあの先輩と話しておけばよかった、なんて。今更後悔する都合のよさに苦笑を浮かべた薫子は、後ろ髪を黒いバレッタですくい上げた。

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