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藍より出でて①
「なんであんなに強いのかしら、正藍寺って」
夏休みが明けたが、休暇を挟んだ校舎にはまだどこか浮ついた雰囲気が漂っている。そんな空気に混じって放たれた
卓球部の練習で窓を開けるわけにはいかない。体育館の二階にある更衣室はうんざりするような暑さで、いつもならここで軽口を叩くはずの
「今更どうしたの?」
「ここまであからさまに差があると嫌になるわよ。地区の十位までに
シード選考会の結果、女子シングルスの上位八人はほとんど正藍寺のレギュラー陣で埋め尽くされることとなった。ずば抜けた成績を残した正藍寺に続いて三位と九位を獲得した花ノ谷、若山が七位と健闘した田宮二高が団体戦のシードを獲得している。北沢姉妹の善戦で美園が第四シードに滑り込んだほかは、おおよそ例年通りの組み合わせだ。
平原は
「平原先輩が強いのは知っていたつもりですけど、井浦先輩も本当にすごいですね。どうしても自分と比べちゃいます」
「美景だって十分すごいわよ。あんた
鞠佳の言うこともある意味では正しい。一年でもっとも高い順位だった美景がチームメイトの前で不服を漏らすのは褒められた振る舞いではないのだろうが、それでも素直に謝る気にはなれず、美景はぎこちない愛想笑いを浮かべる。
リトマス紙。正藍寺時代、美景は公然とそう呼ばれていた。控え部員の中ではトップに近い力を持ちながらレギュラー組にはあっさりと負け続け、自分より劣る選手には安定して勝てても大番狂わせを起こすことはない。
レギュラーと控えのくっきりとした境にいる美景の姿を揶揄して、口さがない部員の誰かが不名誉な称号を与えたのだ。さながら林美景はレギュラーと控えを判別するリトマス試験紙だ、と。
誰が言い出したのかは知らない。初めてその呼び名を聞いた時、美景はくすりと笑った。よくできた例えだと思ったのだ。すぐに意味を理解できた自分が哀れになって、美景はまた一人笑った。
出来のいい蔑称はすぐに浸透し、新入生の間では美景に勝てればレギュラーになれる望みがあるとも言われていたらしい。要は、丁度いいハードルに設定されていたのだ。けれど美景は、正藍寺を出た今も立派に試験紙の役目を果たしてしまっている。
格上に勝てない――それが美景の何よりのコンプレックスだった。こんな順位は何のなぐさめにもならない。美景が競っているのは花ノ谷のチームメイトではなく、自分より強い他校の選手たちなのだ。
「あはは、やっぱり外のほうが涼しいじゃん! 体育館、今何度あるんだろうね?」
よほど暑さに弱いのだろう、菫のテンションが自棄を起こしたように高い。夏は長めに休憩を取るよう決められており、菫のように外廊下まで涼みに出る部員もいる。比較的夏に強い美景が今日に限って菫についてきたのにはそれ相応の理由があった。
水飲み場のコンクリートにぺたりと寄りかかった菫の正面に立ち、美景は勢い込んで話し出した。
「あの、菫さん――菫さんは、自分より強い相手と試合をする時、どういうことを考えて、実践しているんでしょうか」
美景は正直に白状した。自分が正藍寺の面々にひとつも粘れずに負けることも、いいところなしの負け方に我ながらうんざりしていたことも、中学時代に静井との試合を見たことも――格上相手でも自分の色を出していく菫のプレーを素直に羨ましく思ったことも。
「わたし、絶対にあんな風にできない。だから、菫さんに教えてほしいんです」
「菫に教えれることなんかある? 菫、中学まで初心者だよ。林ちゃんのほうがずっと上手いし、当然強いし……まあ、そういうこと言ってるんじゃないんだろうけど」
足元にラケットを置いた菫はごしごしと目を擦り、胡乱げな目で美景を見た。
「褒めてくれるのはありがたいけど、あれはほんとに偶然だって。強い相手のほうが燃えるみたいな、そういうのってあるじゃん? 自分でもあの試合が中学で一番いい内容だったと思うもん。だけど、また静井さんと当たったところで同じようにできるかはわかんない。ま、内容がどうとか言っても結局ぼろぼろに負けたわけで」
皮肉っぽい笑みを浮かべた菫は壁にもたれた姿勢で足を組み替える。手元のペットボトルがちゃぷんと波立った。
「単純に相手のほうが強いんだから調子がいい程度じゃ絶対無理。格上にはこっちの調子なんか関係ないし……あれだけなんでも返されたら、誰でもやんなっちゃうしね」
美景は深く頷いた。何度も対戦して、そのたびに絶望的な相性だと思い知らされた美景だからこそよくわかる。完璧な角度で打ち込んだスマッシュがノータイムで返されるあの恐怖は、強打を打つことがスタイルの根幹をなす速攻にしか通じない。
「えっげつないコースだよねえ、あれ。ブロックじゃなくてカウンターだもん。当てただけじゃなくて打ち返してくる」
相手の強打をものともしないカウンターは静井がもっとも得意とするプレーだった。面をかぶせ打球の勢いを殺して返球するブロックとは違い、思い切り振って返す分威力もある。相手にすれば、決まったと思ったボールを平気で打ち返されるショックは大きい。
こうして対戦相手はじきに攻めあぐね、積極性を削がれ始める――かつての美景がそうだったように。そこまで来ればもう勝負はついている。相手が攻撃するのにためらいを見せる頃、今度は静井自ら仕掛けてくるのだ。
全国レベルの選手ならともかく、常に先手を取って仕掛けることが前提となっている速攻は長いラリーに強くない。相手の攻撃をしのぎラリーを制するような戦い方には慣れていない、とも言える。
とにかく自分が打って決める。それが前陣速攻の基本であって、速攻の選手は守備に回る機会が少ない。たとえばカウンターを食らうダメージにしても、ドライブ型の選手と速攻とではまったく話が違ってくる。
「でも、一度でもゲームを取ったじゃないですか。それだけでもすごいです」
「えー、何言ったって負けは負けだよ」
「全然違いますよ。静井さん、ゲームを落とすこと自体珍しかったんですから」
正藍寺に入学して最初の部内リーグ戦。美景は今も、一度目の静井との対戦をありありと思い返せる。容赦のないカウンター、体に食い込むように曲がってくるカーブドライブ。一度も思い通りの形を作らせてもらえず、相手のミスでだけ点が入って――じきに美景は、自分がこれまでどうやって点を取ってきたかを忘れた。
得意のパターンも積み上げた自信も、相手が一歩も動けないコースに強打を打ち込む爽快感も、なにもかも。
速攻が自信を失ったらおしまいだ。どんな点差でも、たとえ相手のマッチポイントであっても自分から仕掛けるのが速攻で、それは強靱な意志がなくてはできないことだった。美景はそれを後から知った。
何もできずにストレートで静井に負けたあの日から、美景は前陣速攻というスタイルを貫けなくなっていた。
平原に言わせれば、美景の努力は努力と呼べないものだったかもしれない。実力も覚悟も足りず、完膚なきまでに負けておいて相手の強さを羨むだけで、追いかける気概すら持てずにいた。
美景が正藍寺で積み重ねていたのは努力ではなく、レギュラー組に必死で追いすがろうと練習に打ち込む自分を演じる空しさだけだ。完全に自分を見失ってもプライドだけはどうにもできず、焦燥感を抱えたまま応援席に座る。何かが違う、と思いながら。
こんなだらしのない毎日をもう終わらせてしまいたい。進路選択を控え、卓球部を離れようかとすら考えていた美景の前に現れたのが菫だった。
静井を相手にしても最後の一点まで自分を曲げることはなく、試合を直に見ていた正藍寺の部員たちに焦燥を与えるほどのプレーをしてのけた。中学最後の大会で見た菫は、かつての自分が持っていたものをすべて持ち合わせているように見えたのだ。
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