やはり野に置け蓮華草⑤

 暑い。すこぶる暑い。まだ試合が始まってもいないのに、すみれはタオルで額を拭う。

地区大会レベルの会場に冷房が入っているわけもない。夏の大会はほとんど蒸し風呂に近く、多くの生徒が涼を求めて廊下に集まっていた。

 八月九日、シード選考会一日目。この日の気温は三十一度だが、室温がそれより高いことは想像に難くない。


「ほらみんな、今からふらふらしてないでちゃんと聞いてね?」


 井浦の元気が羨ましい。壁にもたれた菫は、大人しく先輩の説明に耳を傾ける。

 シード選考会は二日にわたる大会で、まずは前もって決められたグループで一次リーグを行う。六人ずつ十組に分かれたグループにはAからJまでのアルファベットが振られ、各校の選手がなるべく重複しないよう分配されていた。


「まず総当たりで試合をして、各組の一位から六位までを決めます。で、その順位をもとに二次リーグの組み合わせが決まるのね。AからJまでの一位と二位、三位と四位、五位と六位――要するに、上位中位下位。二次からは全員を三つのリーグに分けちゃうわけ」


 手元の組み合わせ表を見ると、二次リーグの表には名前の代わりにA組一位を意味するのであろうA1やB2といった細かい文字が刷られていた。二次では順位に応じて形成された三つのリーグで再度グループ別の総当たり戦を行うらしい。

 そして二日目、満を持して順位決定リーグが始まる。


「上位リーグの二十人が全体の一位から二十位になるわけだから、中位リーグで一番になったところで全体では二十一番目にしかなれないわけです。シードは八人だから、一次リーグで三位以下になった時点でもうアウトってこと」

「それじゃ二次リーグから消化試合になるかもしれないじゃない」

「シード争いだけを見ればそうかもね。でも、自分と近い実力の選手とたくさん試合をこなせる機会って、あたしは結構ありがたいと思うけどな」


 井浦が慣れた調子で鞠佳まりかを諭す。たしかにこの大会は試合を消化するほど実力の拮抗した選手が同じ組に割り振られる仕組みになっていて、それはつまり勝てば勝つほど強い選手と試合ができるということだった。

 しかもリーグ戦だ、一度負けても次の試合ができる。知らず唇が笑みの形に持ち上がった。そのためには一次リーグで勝たなくては。

 意気込んだ菫は自分が入ったグループを確認し、見覚えのある名前に目を留めた。

 グループI、下西しもにし七江ななえ、進藤菫、巻幡まきはたゆい。じっと表を見つめる菫の横で、鞠佳が眉間に皺を寄せる。


「……うわ、あんた巻幡と同じ組? すごいわね」

「そうみたい。ちょっと、いや、かなり楽しみかも。七江ちゃんもいるし!」


 県で一番の選手との試合なんて、こんな機会が次にいつあるかわからない。中学では運よく最後に静井しずいと当たったが、巻幡とはこれが初めての顔合わせだ。なにせ総体で平原を破った選手である。一体どれだけ強いのだろう?

 喜びを隠しきれていない菫に、チームメイトたちは揃ってよそよそしさに溢れた視線を向けていた。


「頭おかしいんじゃないの、八倶坂やくさかの連中ってみんな戦闘民族か何かなわけ?」

「えー、めちゃくちゃラッキーじゃん。勝ってないのに最初っから一番強い人と試合できるんだよ?」

「巻幡さんと当たって喜ぶ人は少ないと思う」


 薫子かおるこにも真顔で否定されてしまった。仕方なく美景に助けを求めると、今度はなぜか真摯な面持ちで手を握られる。


「あの、本当に気をつけてくださいね。巻幡さんはとても怖い人なので」


 戦地にでも送り出されるような具合だった。生返事をした菫には美景たちの考えがどうもよくわからない。強い人と当たって気の毒だのメンタルをやられないよう気をつけろだの、はっきり言って余計な世話だ。

 そんなことを言われても、こっちはラケットの持ち方もわからない頃から平原ひらはらせいの暴力的なまでの強さを目の当たりにしているというのに。


「まあ、得した気はするけど。普通のトーナメントなら巻幡と当たる前に負けると思うし」

「だよね? 菫もそう言ったんだけど誰も納得してくれなくてさあ」


 やはりというか何というか、菫の言わんとするところを汲んでくれたのは七江だけだった。久方ぶりの対戦を終えた菫と七江は、次の試合までのわずかな間、青いフェンスのそばでぼそぼそと言葉を交わしていた。

 一次リーグは試合順が決まっており、ここまで二試合が消化されている。第一試合で二年生を下した菫は、その勢いのまま七江に3-1で勝利した。続く第三試合ではとうとう巻幡との対戦となる。滅多にないチャンスを楽しみにしているのは元チームメイトの七江も同じようだった。


「どのくらい凄いんだろう、巻幡唯って。平原に勝ってるんでしょ?」

「ね。菫も全然想像つかない」


 二人ははす向かいに立つ巻幡をじっと見つめる。運動部らしく短く切った髪。ぱたぱたと手で顔を扇ぐ巻幡の背はすらりと高く、室内競技の卓球部にしては日に焼けていた。水色とインディゴを基調とした正藍寺しょうらんじのユニフォームよりは暖色系がふさわしそうな雰囲気で、決して迫力のある見た目ではない。


「あんまり怖そうに見えないんだよね。明朗快活! ってかんじ」

「わかる。平原は見るからに強そうだけど、あの人が正藍寺のエースっていうのは見ただけじゃちょっと」


 菫はジャージの袖で頬を擦る。夏休みに入ってすぐ届いたジャージはグレーとピンクのツートンカラーで、背中にでかでかと入った学校名のロゴともども非常に目立つ。花ノ谷という名前にちなんでかユニフォームも赤系統の色を選ぶのが伝統なのだそうで、今年は薄ピンクの上にローズピンクを羽織らされる始末だった。

 この可憐な色合いは井浦には抜群に似合っていたが、それこそ巻幡のような人がこれを着てもよく似合いそうだ。見るからに陽気で、自信に満ちていて――そんなことを考えているうち、長引いていた試合が終わる。エナメルを肩にかけた七江が先に立ち上がった。


「じゃ、またね。菫もとりあえず頑張って」

「うん。七江ちゃんも負けないでね」


 審判役の生徒が準備を始めている。ジャージを脱いだ菫はひとつ息を吐き、巻幡の待つコートへと歩を進めた。

 よろしくお願いします、と、見た目通りの張りのある声。どんなサーブが来るのかと身構えた菫は、オーソドックスな下回転のボールに少しばかりほっとする。コート中央を狙った短いサーブを粒高で返球して――足が止まった。


 三球目攻撃を狙うでもなく、鋭いボールを打つでもなく。巻幡唯はぽんと菫のレシーブを持ち上げる。どう見ても甘い、攻撃型なら迷わず振るであろう高さのボールに、しかし菫は反応できない。

 バック側のサイドを切る緩いボール。レシーブをバックで処理した後に回り込むには厳しいコース。粒高で受けたボールをぱあんとストレートに打ちこまれ、菫は小さく舌打ちする。これはおそらく、疲れる試合になりそうだった。

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