やはり野に置け蓮華草④

「じゃ、鍵よろしくね~」


 ひらひらと手を振った部長が一足先に部屋を出る。平原が真っ先に帰るのは予想できたが、井浦もせっかちなタイプだったらしい。取り残された一年生は黙々と身支度を進めることに集中していた。


「あたし今日親が迎えに来るから、悪いけど先に帰るわね。お疲れ様」


 手櫛で髪を整えた鞠佳まりかが袖のスナップをぱちんと止める。荷物を背負った鞠佳は、足元に転がった平原のタオルを景気よく踏みつけて更衣室から去って行った。

 近くにいた美景みかげがそそくさとオレンジのタオルを元に戻すのを見て、あさひが胸の前で両手を合わせる。


「鞠佳ちゃんはいつもあんな感じだけど、やっぱり平原先輩には特に厳しいですよね」

「まあねー、瀬尾せおちゃんは平原さん嫌いだからね」

「でも、それは……」


 反論を試みた美景がすぐに言い淀む。美景が言おうとした続きを察して、菫はふふんと笑った。黙ってしまった美景も伏目がちになった薫子かおるこも、きっと同じことを考えているのだろう。ごろんと回転したすみれは、緑色の床に片膝を立てて座る。


「それは瀬尾ちゃんだけじゃない、って言いたいんでしょ? わかってるってば。でも瀬尾ちゃんはまたちょっと違うじゃん。平原さんのこと特別嫌う理由もあるわけで」

「理由、ですか」


 思わせぶりな惹句に旭が反応する。薫子はとうに知っていることだろうが、菫は二人の聴衆のために中学時代の話を持ち出そうとしていた。


「こないだ総体で見たでしょ、浜崎海玲みれいさん。園部の元エース。正藍寺しょうらんじに編入したんだから林ちゃんは直接見てるかもだけど」


 長年県北一位の座を守っていた園部のチームカラーは独特だった。レギュラーの半数以上が異質ラバーを使うチームなどそうそうお目にかかれない。エースの浜崎もその一人で、フォアに貼った表ソフトを中心にハイペースに攻め続ける異質速攻だ。


「本当に強かったけど県北ではいっつも二位だった。毎回決勝で平原さんと当たって、ストレートで平原さんが勝ってた」


 ねっ石田ちゃん、と相槌を求めれば、ペットボトルで頬を冷やしていた薫子が頷く。県北の部員にとって、まったく代わり映えもしない決勝のカードは見慣れたものだった。


「個人戦の決勝になるといっつもすごい声で叫んでる子がいて、相手の応援席見たら瀬尾ちゃんなの。園部の応援がえげつないのに八倶坂やくさかは誰も声出す気ないから会場がすっごいアウェーで……だけど、瀬尾ちゃんは毎回本気で叫んでたんだよね」


 鞠佳は極端な性格の持ち主だが、基本的は自分の感情にまっすぐで、好きな人を大事にするタイプの人間だ。菫にはそう見えた。薫子やえみりに聞いてみても似たような印象を口にするに違いないが、中学時代から鞠佳を知る面々が決まってそのようなイメージを持つのはあの応援ぶりの影響が大きい。

 会場すべてが平原の勝利を予感している空間で、何度前評判通りに勝敗が決しようとも鞠佳の応援が萎れていくことはなかった。手を叩き身を乗り出して、声を枯らす勢いでエースを鼓舞する。

 試合が終わる頃には何も言わず拍手をして、目に涙さえ浮かべて平原の勝利を讃える――平原の応援などしたこともなかった八倶坂の部員には、その光景が自分たちとはおよそかけ離れた世界のものとして焼き付いていた。


「瀬尾ちゃんが平原さんに当たり強いのって、それもあるかもって思うのね。いやまあ、たぶん瀬尾ちゃんはそういうの抜きにしても平原さんみたいな人好きじゃなさそうだけど。あの人中学でも相当嫌われてたし、高校でもそうみたいだし」


 美景が気まずげに眉根を寄せた。菫としては責めるような響きを乗せたつもりはないのだが、何の気なしに言った台詞は美景の罪悪感を喚起してしまったらしい。沈黙が場を埋めかけたところで、さらりと薫子が口火を切った。


「でも進藤さんはそうじゃないでしょ、昔から」


 小首を傾げた菫は内心で顔をしかめる。妙な構図だった。ダブルスの件で迷惑を掛けられた薫子が平原に好感を持つわけもないが、それでも薫子は嫌いな相手に必要以上に興味を持たない性格だと思っていた。一体何を聞き出したいのだろう。


「逆に聞くけど、進藤さんは平原先輩のどこが好きなの」

「や、別に好きではない。性格はそこそこ最悪だと思ってるけど、みんなほどあからさまに嫌いじゃないってだけ」


 へえ、と小声で呟く薫子は素直に驚いているようだった。


「意外です。わたしもお二人は仲がいいんだと思ってました」

「いや~? 相対的にそう見えるんだと思いますけど」


 美景にまでそう言われ、菫の口元に苦笑いが張り付く。中学でもこんな話をしたのを今更思い出したのだ。菫ちゃんってあたしたちが先輩の悪口言ってても全然乗らないよね――えみりの言葉にも、菫はやはり無言で苦笑していた。

 別段答えを偽ってはいない。平原のことは嫌いでも好きでもなかった。それならなぜ平原に寄った態度を取るのか? 簡単なことだった。周りには奇妙に思われるのかもしれないが、菫にすればごく普通の話だ。

 さして親しくもない他人に何かにつけ知ったような口を利かれるのは誰だって堪える。菫はおそらく、人よりも少しだけそういうことに過敏に生きてきた。

 その面倒さを身にしみて知っているからこそ、あれこれとどうでもいいことで批判されがちな平原を擁護したくなる時もあるのだった。まあ、一人くらいバランスを取る後輩も必要だろう。


 人付き合いというものはまったくもって面倒だが、これから花ノ谷で過ごす数年間を特に何事もなく乗り切れればそれでいい。そんなことを考えながら、菫は灰色のプリーツスカートの裾を引っ張った。

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