6

やはり野に置け蓮華草①

「はい、おめでとう。みんなも次頑張れよ」


 赤ペンに彩られた答案を差し出した教師が明るく口にする。だからなんでそれを言うかなあ、と呆れるすみれの眼前には教壇、背後には――教室の雰囲気についてはあまり考えたくない。薄い紙切れを受け取った菫は、右上に書かれた数字をぐしゃりと握り潰した。

 きれいに消された黒板にはクラス平均点と最高点とが書かれている。答案返却に先んじて最高点を明かすのがこの教師のパターンで、菫は毎度のようにその煽りを受けてきた。

 黙っておけばいいものを、おめでとうなどと一言添えてくるおかげで誰がその点数を取ったのか全員が理解できてしまう。はっきり言って迷惑なのだが、ここで余計な皮肉を飛ばして悪目立ちするのもよろしくない。鋭い視線を浴びながら、菫は無言で席に戻る。


 テスト期間は好きだ。終了時間まで待たされるのは面倒だがいつもより早く帰れる。逆に何より憂鬱なのはそのテストが返却される時だった。毎度のように睨まれて、聞こえよがしな皮肉が飛ぶ。

 いいよねあの子はいっつも、自慢ばっかり――。当人からすればいや菫自慢はしてなくない? 本人の意思に関わらず教師にプライバシー開示されてるだけじゃない? という認識なのだが、ここでのまっとうな反論はさらなる断絶を生むだけだ。


 本人の望む望まざるに関わらず、何かに秀でるということは誰かに疎まれるということだ。進藤菫は地獄のように長い学校生活の中で何度もそう実感してきた。

 世の中にはその「何か」のおかげで自分より嫌な思いをしている人が山ほどいるのはわかっているが、だからといってそう簡単に割り切れるものではない。答案を引き出しに押し込み、だらしなく頬杖をついた菫は窓の外に顔を向ける。

 細長く並ぶ部室棟の灰色の向こうに第二体育館の出入口が見えた。打ちたいな、と思う。自分の中に長く置いておくには厄介な気持ちを取りつくろう手段として、菫には卓球がちょうどよかった。


 癖のない構え、比較的早いスイングスピード。菫は自分のフォームが好きだ。最初は見様見真似で、何度となく繰り返してゼロから作り上げたものだから。

 体に落とし込んだ動きは今となっては自然なものだが、努力や反復と引き換えに手に入れた成果なのだ。菫にはそれが嬉しい。努力に反復なんて自分には縁遠い言葉だと思っていたから。

 体重はやや右後ろ。ひねった上半身を回転させるとともに左足を踏み込み、ラケットの角度を保って振り切る――体をコントロールするのは感情を律するのに似ている。慣れ親しんだ動きはきっと自分を落ち着けてくれるはずだ。


 四時間目が始まったばかりの教室は眠たげな目で昼休みを待つ者と熱心に答案と黒板を見比べる者に二分されている。今すぐにでも部室に向かいたかったが、放課後はまだ遠い。

 今日は早めに帰りの支度を済ませようと決めたところで、菫は重大なことに気がついた。そういえば自分は、もう二週間も部活に出ていないのだった。


 浮き足立った気持ちが一瞬で冷えていく。テスト期間を挟んだことで部活の存在をすっかり忘れていたのか、菫には卓球部をさぼっているという意識すらなかった。

 注意だって受けていない。クラスメートの美景みかげが何も言わないのは菫が部活に顔を出さなくなった原因がわかっているからだろう。菫自身にも、割合派手に揉めたなという自覚はあった。


 ――負けたからっていちいち相手のせいにするのやめたら?


 ああなると自分は何を言い出すかわからない。菫は至って冷静なまま、もっとも効果的に相手を傷つける一言を選び取った。

 自分の口から飛び出した言葉を把握するのにしばらく時間を要して、耳にした音が次第に文章として像を結ぶ頃、真向かいに立った鞠佳まりかがわずかに目を見開き、ぐっと口元を引き結ぶのが見えた。最悪だ。コマ送りのように移り変わる相手の表情をつぶさに観察していた菫は、またやってしまった、と無感動に目を閉じた。

 何かが気に障っても黙っている、暴言を吐かれたらおとなしく話題が変わるのを待つ、相手の言い分が理不尽でもできる限り言い返さない。

 この三つを守って生きていけばある程度自分の身を守れる。菫が平生自分に課しているルールは至極単純だが、時折起こる暴発を止めることだけはできなかった。


 部活ってみんながみんな勝ちたくてやってるわけじゃないんだよ――瀬尾せおちゃんと違って。あのとき自分が言いたかったのは、そういうことではなかったか。

 菫は誰かに勝つために卓球をしようとは露ほども思わない。人の上に立つというのは、あなたは人より優秀ですよというレッテルを貼られるのは、実のところこの世界で生きていくのを投げ出したくなるほど面倒なのだ。

 高校に来てからというもの、菫は部活に関して快い印象を持てていない。花ノ谷かのやの卓球部にたゆたっているのはなんともまどろっこしい水面下でのプライドの行き交いだった。菫はこうした複雑さを、子供じみた言い分の押し付け合いを好まない。


 鞠佳が勝ちたいと思うのは結構だ。勝手にやってくれればいいし、足を引っ張るつもりもない。ただ、こちらにまで自分のポリシーを押しつけてもらいたくはなかった。

 一昔前のスポ根漫画のように、勝利を渇望しない者はただちに去れと言われたら菫はすごすごと立ち去るだろう。これがプロの選手ならまだしも、部活の意義すべてが勝ち負けにあると言われてもただの高校生には承服しかねる。その理屈で存在意義を証明できるのは全国大会で健闘するような強豪校だけではないか。

 菫は単に楽しいから卓球が好きなのだ。楽しくないなら部に所属し続ける意義がない。

 要するに、菫のありかたは鞠佳の思想と明らかに対立している。できれば向き合いたくない事実だった。菫は教室の時計を見、乾いた毛先に指を絡め、あまりにも遅々とした時間の進みに呆れる。吐き出した失望がかすかに空気を震わせて霧散した。


 菫は学校が嫌いだ。勉強も付き合いもおしなべて鬱陶しいことこのうえない。おもむろに足を組み替えれば、ごわついたスカートのひだが膝を擦った。

 このなんとも名状しがたい、肌にじとりとまとわりつく不快感こそが菫の思う学校のすべてだ。着実に蓄積されたストレスが日々どこかしらを蝕んで、そうしてまた誰かと口論になる。


 長きにわたる自己嫌悪も結論に向かう頃、ようやっとチャイムが鳴った。教師が部屋を後にするのも待たず購買目当ての生徒がばらばらと廊下を渡っていく。

 昼休みを迎えにわかに活気づいた教室には机を動かす音が響き、廊下沿いに並んだ教室が徐々に賑わい始めた。机の脇に吊り下げたランチバッグを取ろうと体を屈めたところで、菫の視界に学校指定の靴が入り込んだ。

 それは見慣れた赤ではなく、オレンジがかった黄色のラインが斜めに入った二年生用のデザインで――なんだか嫌な予感がする。


「休みは終わったはずだけど、いつになったら部活に出るの。このまま辞めるなら辞めるでいいけど、どっちにしても早く決めて」


 肩のあたりで外に跳ねた短い髪。労苦のように長い授業を耐え抜いた菫を待っていたのはあまり喜ばしくない先輩の訪問だった。

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