桃李もの言わざれど⑤
前の席から渡されたプリントを一枚めくって後ろへと渡す。期末のテスト範囲がまとめられたプリントを一瞥した
六月も終わりに近付き、そろそろ半袖の夏服も馴染んできた頃、窓際の席に座る鞠佳は夏らしくなった日差しがじりじりと肌を焼くのを感じている。
「明日からはテスト期間に入るので、家でも学校でもちゃんと復習しておくようにね。陸上部、部活が休みだからって自主練はやめて早く帰ること」
担任に釘を刺された生徒がげんなりとした顔で頷く。ホームルームを終えてクラスメートたちが散っていく教室で、鞠佳はゆっくりと帰りの支度を進めた。
花ノ谷ではテスト前の一週間が部活動停止期間になっている。テスト本番も含めれば十日以上の休みになるわけで、この空白はそれなりに長い。全国大会を控えた平原は個別に校外で練習をするのだろうが、大多数の部員は学習に励むことになる。鞠佳は小さく嘆息した。
大体の家がそうであるように、鞠佳の両親もまた中間テストの結果に不満を示していた。よほど成績が落ちるようなら部活を辞めろとも言われている。期末テストの出来によってはまたその話を持ち出されそうで、今から最悪の事態を思い描いてしまう。
重たいリュックを背負った鞠佳は、
前もって内鍵を外しておいた非常口を開ければ、他の一年生はすでに床に教科書を広げている。テスト勉強を兼ねて話し合うために選んだ場とはいえなかなかおかしみのある光景だ。
鞄から問題集を出していると、
「菫ちゃんも誘ったんだけど、やっぱり来ませんでしたね」
「気なんか遣わなくていいわ。あいつこんなことで落ち込むような性格してないもの」
「ほんとにいいの……?」
シャーペンを手にした旭が疑わしげに鞠佳を見る。口論の相手が言うのもなんだが、鞠佳には菫なら放っておいても戻って来るだろうという確信があった。まともに話すようになったのは高校からだが、あの試合ぶりを見れば本人の性格も少しはわかるというものだ。
「わたしもそう思う。大会前には来るんじゃない」
プリントに定規で赤線を引いた薫子がぼそりと呟く。ほら見たことかと胸を張ると、
「わたし、教室で菫さんを見かけるたび、声をかけようか迷ってたんです。でも、お二人がそうおっしゃるなら部活の話はやめておきますね」
「それがいいわ。たぶん余計なこと言ったら切れるわよ」
何気なくそう口にして鞠佳が数学のノートをぱらぱらとやっていると、視界の端で美景がもの言いたげな顔をする。
「鞠佳さんたちは、ちゃんとお互いのことをわかってらっしゃいますよね。わたしは他校の方と知り合う機会もなかったので、いいなと思って見てるんです、ずっと」
「そんな大層なもんじゃないわ、ただの元対戦相手よ」
ねえ? と同意を求めると、薫子は落ち着かない様子で襟にかかる髪を払った。
「まあ、前のライバルとチームメイトになるのも難しいところはあるけど」
「ほんとよね。やりづらいったらありゃしないわ」
鞠佳たちが信頼で結ばれた気の置けない間柄であればどれほどよかったことか。本当にかつての対戦相手を新たな仲間と割り切れていたのならば、鞠佳と菫があんな風に衝突するわけがない。
鞠佳はどうにも気持ちを切り替えられず、自分の居場所は花ノ谷ではないのだと躍起になっていた。今は散り散りになった、もといたチームへの執着。もっともそれは、菫の中にも少なからず眠っている思いなのかもしれないけれど。
「あの――わたし、聞きたいんです。みなさんが、県北でどんな風に戦っていたか」
美景がフローリングに膝を立てる。しばし感傷に浸っていた鞠佳は、チームメイトの急な申し出を鼻で笑った。
「
「でも、やっぱり教えていただきたいです。井浦さんも平原さんもそこにいらしたのに、わたしだけいつまでも当時の話を知らないままでいるのは、ちょっと……」
最後は消え入るような声になる。こわごわとこちらの出方をうかがう美景を見ていると、まるで自分たちがいじめの主犯になったような気分にさせられた。
学区が違った以上仕方のないことだが、中央地区から来た美景が疎外感を覚えるのも無理はない。
しかし、中学での話が出るたび美景が肩身の狭い思いをしていたとは思いもしなかった。少しばかり申し訳ない気持ちになった鞠佳はこほんと咳をする。
「わかったわよ、言えばいいんでしょ。菫はいないからあたしたちの知ってる話だけになるけど」
それでもいいの、と念を押すと美景が顔に喜色を浮かべた。面倒そうに唇を引き結んだ薫子の批難げな目を無視して、鞠佳はぱたんとノートを閉じる。面白くもない、本当になにひとついいところのなかった一年前を振り返るために。
「一個上の学年が本当にすごかったのよ。
浜崎海玲、井浦萌、小野寺
園部は伝統的に異質を使う選手が多い学校ではあるが、異質型がレギュラーの大半を占めるチームはなかなかない。下の学年を見ればここに北沢紗良が加わるわけで、鞠佳や由良のような両面裏ソフトの選手はむしろ少数派だったのだ。
園部の強みはこの三人の誰かが負けてもダブルスで勝ちを計算できるところにあった。序盤の三試合で勝負がつく時も多いが、井浦か浜崎の片方が勝ってくれればダブルスで王手をかけられる。
そうして後半に控える小野寺が相手のプレッシャーをも利用して勝ちに行く。相手にすれば、負けが許されない状態でのカットマンとの試合は精神的にも堪えるだろう。
井浦たちの代が中心だった園部で、鞠佳の存在はほとんどただの数合わせにすぎなかった。だからこそ、次期部長の話をされた時にはなぜ自分がと心底驚いたものだ。
「
平原の強さならそこで嫌になるほど見せられた。こともなげに打つ打球の鋭さ、ボールタッチの正確さ、際限のない技術の高さ。知らず口が重くなった鞠佳の顔色を旭が窺う。
「団体戦はエースの選手を早めに出すんだよね? 昔お姉ちゃんに聞いたんだけど」
「はい、合ってますよ。強い選手は一番か二番のシングルスで出てくることが多いですし、ある程度はオーダーを推測できると思います。それでも、毎回エース同士がピンポイントで当たるのはすごいですね……」
「八倶坂は、顧問がこっちのオーダーを読んでたから。田宮との試合でも平原さんは若山さんとしか当たらなかった。平原さんを避けようとして四番に置いても無駄」
問題集の余白に計算式を書き込みながら、薫子が素っ気なく口を挟む。それを聞いた美景は、蛍光ペンを手にしきりに感服している様子だった。
「わたし、平原先輩がどうして正藍寺に入らなかったのかずっと疑問だったんです。でも、八倶坂中にはそんな先生がいらしたんですね」
「みたいね。ほとんど初心者の部員を教えたのもその顧問なんでしょうし……まあ、平原が八倶坂に入った理由なんかあたしたちは知らないけど」
じろりと正面に目をやるが、化学の問題集に集中している薫子にこれ以上話す気はないようだった。再び説明役を押しつけられ、鞠佳はむっとして横座りした足に拳を押しつける。
先輩たちが引退してからの一年間を語るためにはそれ相応の覚悟を要した。
「あたしたちが二年の時――三年にとっては最後の総体で、八倶坂が初めて田宮に勝ったの。それからはずっと八倶坂の一強状態。平原がいなくなってからも強くて、先輩が抜けた他校とはレベルが違った。春季も総体も八倶坂の優勝だったわ」
団体戦で県大会に出場するのは二校に限られる。長らく園部と田宮東が埋めていた出場枠は八倶坂の躍進によって書き換えられた。鞠佳たちの引退後は再び園部が優勝を飾ったと聞くが、それもまた惨めな話だ。団体戦の結果を見れば、自分たちの代だけが不出来だったと言われているに等しい。
「海玲さんたちが抜けてからはもうボロボロ。あたしたちの学年が弱かったのはもちろんだけど、最初っから自分たちには優勝できないって決めつけて……あたしの言うことなんて誰も聞いてなかったわ」
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