桃李もの言わざれど④

「だからマリちゃんもさ、ちょっとずつ変えていってもいいんじゃない」


 短く切った爪ががり、と腕の皮膚を削った。諭すような声がうるさい。今の鞠佳まりかにとって一番不快な音を紡ぐために井浦がまた口を開くのを、鞠佳はいっそ絶望的な気持ちで遮る。


「わかったわよ」


 それは卑屈と冷淡を煮詰めたような、自分でも初めて聞いた声色だった。さすがに面食らってこちらを向いた井浦の目は本気の驚きをたたえていて、鞠佳は乾いた唇を噛む。

 ほら見ろ、やっぱりこいつは何もわかっていないのだ。あたしがどれだけこいつに、得体の知れない勝利への執念を抱えたこの先輩に自分を重ねているか、平凡な自分のプレースタイルにどれだけのコンプレックスを抱えていたか――かつて渡された部長の座をどれだけ重たいものと思ったか。余計なことばかりあれこれ考えては流暢にまくしたてるくせに、大事なことはこれっぽっちもわかっていない。


「あんたは、」


 自然とせり上がってきた言葉がうわずって震える。ここまでの試合で叫び続けた喉がひりひりと痛んだ。あんたはあいつの味方なの、なんて、そんな台詞を最後まで口にするのはあまりにみじめで、幼すぎて、鞠佳はそこで言葉を切るとたたんだタオルに顔を埋める。気持ちが悪い。半端なところでせき止められた激情が体を駆け巡っては耳の奥にうわんと轟くようだった。


「あたしは、何?」

「……なんでもない。忘れて」


 続きを促す井浦に弱々しく吐き捨てて、鞠佳は膝に手を置いた。こんなあからさまな態度を取れば察しのいい井浦はきちんと自分を放っておいてくれる。

 だから自分は弱いのだ。いつだってこうして、幼く未熟な自分を甘やかしてくれる先輩たちに頼り切ってきたから。高校に来てからもいつまでも井浦に頼るつもりでいたのだから。そんなことだから八倶坂やくさかに、進藤すみれに負けたのだ。

 技術だけを見ればそれほどではない。しかしどこまでも勝ちに貪欲で、実戦でこそ恐ろしさを増す。八倶坂というのはそういうチームだった。思い切ったプレーはできず、徐々に引き離されて気持ちばかり焦って、負けたくないと吠えるだけの自分があいつらに勝てたわけがないではないか。


 すぐに練習に戻る気にはなれず、鞠佳はしばらく壁際に座り込んでいた。台から離れて休んでいる選手は大勢いるので咎められることもない。ユニフォーム姿でぼうっと目の前の試合を眺めていた鞠佳は、再び自分のもとに向かってくる人影に気が付いた。試合の誘いならば断ろうとその場を動くと、慌てて声をかけられる。


「あ、ねえ! あなた、園部にいた瀬尾せおさんですよね? あたし八倶坂だったんですけど、覚えてます?」


 青紫のジャージを羽織った女子生徒は、大きな歩幅で鞠佳に詰め寄った。去年より伸びた髪を結っているおかげで遠目ではわからなかったが、この距離で見ればちっとも変わらない――青木夕希ゆうきだ。

 試合したこともあるんですけど、とまで付け加えてくる青木は本気で自分が忘れられていると思っているらしい。そんなわけがない。この学年で八倶坂の団体メンバーを知らない部員がいるわけがないのに、当の本人は気楽なものだ。


「……青木さん、でしょ。覚えてますよ」

「あ、ならよかった。ちょっと聞きたいんだけど、進藤菫って今日来てます? ひさびさに試合したかったんだけど、なんか菫だけ見当たらないから」


 不意をつかれた。まさか青木が世間話をしに来たとは思っていなかったが、菫の名前を出される準備もしていなかったのだ。どうにか動揺を押し込め、鞠佳は淡々と聞かれたことに答える。


「休みです。最近部活に来てませんから」

「そうなんですか。楽しみにしてたんだけどなぁ……。じゃ、大会で当たったらよろしくって言っといてください。それじゃ」


 そう言って背を向けた青木の足取りは知り合いと談笑する井浦のほうへと向かっていて、鞠佳は思わず笑いを噛み殺した。青木が声をかけにきたのは菫のことを聞くためでしかなく、間違っても自分を試合に誘うつもりなどなかったのだろう。

 いつもこうだ――八倶坂の連中は、清々しいほど単純だ。菫といい青木といい、もっと言えば平原だって、興味のないものには目もくれない。


 にこやかに誘いを了承し、青木を連れて空いた台に向かう井浦を目で追いながら、鞠佳はペットボトルの飲み口を噛む。

 凍らせたスポーツドリンクは嫌味なほどに水っぽく、溶けかけた氷がしゃり、と音を立てた。

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