第39話

「……は? 何が……?」


 顔だけでなく全身隈なく青褪めさせているらしいウェイトレスの病的なまでに白く冷めた手で柄も刃も真っ黒なナイフが引き抜かれる中、ハンスは尻餅を搗きながら両手で傷口を抑えた。


 その刃は黒衣達が持っていたナイフと同じ代物のようだが、根元近くまで刺された所為で、刃渡り四インチ程度の得物で付けられた筈の傷口からは、押さえ付けてもなお驚くほどの血液が零れている。


「――な…………さい………………御免なさい…………御免なさい……御免なさい、御免なさいッ……仕方無かったんです、赦して下さい……こうしないと、この村が……あの人が……」


 ハンスの手が離れた事でウェイトレスの口からは譫言のような謝罪が溢れ、青白く変色している手から血の赤で黒い塗装が塗り潰されたナイフが転がり落ちた。


 既に害意も燃え尽きたらしく、彼女は震えを抑え付けるように自らを掻き抱きながら、祈るように、或いは叱られる子供のように強く両眼を瞑っている。


 対するハンスは、その言葉を耳にした事で突然の刃傷沙汰の背景を悟った。


(――あぁ、そぉか……コイツも連中に弱みでも握られてたってワケね。そりゃそぉだよなぁ……連中にしてみたら、折角人目に付かねぇ時間帯を選んでの作戦だってのに、それを見ちまうようなヤツが居たら普通は迷わず殺すだろぉが。それをせずにワザワザ縛って、しかも無傷で放置なんて、そりゃ利用する気満々だよなぁ。御丁寧に得物まで握らせてるワケだし……)


 何処か気の抜けた顔をしたハンスの視線の先には、未だ縛られたままなウェイトレスの足首と彼が縄切りに使っていた綺麗なナイフ、そして、血で汚れたウェイトレスのナイフがあった。


「………………………………………………………………………………ふ、フフ、」


 ふと、ぼんやりと照らされた床へ頭を垂らすハンスの口から乾いた笑いが零れた。

それに宿る不穏な響きによって、赦しを乞うていたウェイトレスは恐る恐る顔を上げさせられる。


 彼女は自身の凶行に怒り狂った王国騎士が、激高の余りタガが外れてしまったのだと思っていた。


 だから、



「――――え……?」



 髪とお揃いの色をした瞳を正面に向けた時、ウェイトレスの脳内を占めていた恐怖が抜け落ちて空白ができた。


 彼女の視線の先には、まるで泣きじゃくる迷子の幼子に向けるような、見る者の不安や恐怖を取り払うような優しい笑みがあったのだ。


 しかし、見方によっては彼と彼女の初見時や再会直後の表情以上に凄絶に見えるだろう。


 何せハンスは今、決して軽くはない傷を負い、相当な痛みに耐えているのか玉のような汗が噴き出しているのだから。


 しかも、彼のすぐ目の前にはその傷を与えた張本人が無防備に座り込んでいるとくれば、この状況が異常な事は誰でも理解できるだろう。


 なのに、その人懐っこさすら覚えさせられる表情からは、極まり過ぎた憤怒や取り繕った仮面の下から漏れ出すような憎悪などは見えず、正しく彼の胸中に満ちる慈悲と赦しを伝えていた。


「ハハハ……この村と『あの人』ね……その『あの人』ってのは、この村の人間か?」


「――――そう、です……此処で働くウェイターで……私のこ、婚約者、です」


 ハンスと同じく床に座り込んでいるウェイトレスは、空っぽになった頭に流れて来た質問へ、先程のような嘘や誤魔化しを混ぜる余裕も無いまま正直な答えを返す。


 元々脅迫内容を口止めされていたわけでもないとは言え、忌避していた相手にこれほど素直に話してしまった事についてウェイトレス自身が一番驚いていた。


「そぉか……なら、大丈夫だ。安心しな」


 何の根拠も明示されないままに告げられた言葉だったのに、彼女はそこに宿る強固な意志と確信とさえ呼べるほどの自信とを感じ、今までとは違った感覚によって言葉に詰まる。


 だが、彼女には告げられていたがあった。


「……で、ですが、彼らは騎士様の御命を獲り逃した時は、聖騎士様達が村に火を放つと……」


 そう、本来人々を守る筈の聖騎士達こそが、この村を脅かそうとしているという事を。

 聖騎士達と黒衣の者達が共謀して、ハンスを狩ろうとしているという事を。


 その耳を疑うような話に、王国守護の要である王国騎士の一員にして、国民達からは『闘技場の英雄ドゥエル・ズィーガー』と呼ばれて親しまれているハンス・ヴィントシュトースは、


「ン、分かってるさそれぐらい……と言うより、予想してたって感じだが……まぁ、それを含めたって大丈夫だ。この村に――いや、この国にのさばる連中は俺が全部何とかしてやっから」


 その異名に相応しい不遜且つ鷹揚な態度で嘯いた。


 んな事より手当てするからそこの灯りくれるか? などと指差しと共に宣うハンスに、唖然としながらもデスクの上に置かれていた燭台をおずおずと差し出す兎系ウェイトレス。


 彼女が逡巡している間に背中のバッグを下ろして中を漁り始めていたハンスは、恭しく差し出された手持ち用の燭台を受け取ると、ベルト越しにチュニックを捲り上げて患部を晒しながら処置を開始した。


 そうは言っても、いつ敵が襲って来るか分からない状況でまともな治療などできるわけも無いので、傷口を圧迫止血するだけの簡単な応急処置だったが。


 予備のチュニックを一枚取り出すと、ハンスはその両袖を千切って患部に押し当てた。


 見る見る内に血を吸って紅に染まる袖で傷口を抑え、残る片手と歯で袖無しの貫頭衣と化したチュニックを上下に少しずつ余裕を残しながら何度も裂いて即席の包帯を作り、手慣れた手付きで袖布ごと傷口を覆っていく。


 その手慣れ過ぎている所作につい呆けていたウェイトレスだが、『なぁ』と突然呼びかけられて我に返った。


「取り敢えず、アンタはココで静かに隠れてろよ? 連中どぉにかすんのにその辺彷徨かれでもしたら、コッチが迷惑だからなぁ」


 カラカラと笑いながら巫山戯ているかのように軽い口調で告げる少年騎士の、今までの剣呑さが嘘のように思える年相応な表情に毒気を抜かれ、若干脱力してしまったウェイトレスは言われるがままにただ頷くだけだった。

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