第38話
「――――」
息を潜めながら咄嗟に左腰へ両手を伸ばすハンス。
自身の五感へ絶対の自信を持っていた彼にとってこの聞き洩らしは意外と衝撃的だったが、それで足を止めてしまうほどこういう状況
両手でそれぞれ一つずつ柄を握ったハンスは、抜剣はせずに正面のカウンターへ向かって音も無く走り出した。
より正確には、カウンターの奥に覗く扉の元へと。
(……鼠、にしては鳴き声が聞こえねぇし、俺を殺す為にワザワザ二度も襲ってきた烏共が、厩舎に向かわずココに残るワケねぇ……となると、夜勤で残ってたウェイター辺りか……?)
消去法で物音の主を絞りながらカウンターに辿り着いたハンスは、駆ける勢いのままカウンターを飛び越えると、右手に握っていた一振りを抜き出しながら扉越しに内部を探り始める。
すると、彼の聴覚に先程から鳴りっぱなしの物音に加え、猿轡でもされているかのような荒く籠った息遣いまでもが届き、内部に何者かが存在する事実を如実に伝えていた。
(音が止まねぇって事は烏共じゃぁねぇな。これじゃぁ見付けてくれって叫んでるようなもんだし。んでもって、鳴き声どころか獣臭も感じられねぇからには動物でもなさそぉだ……こぉなるとやっぱウェイターぐらいしかあり得ねぇが……ン……?)
何となく漂う疑念を脇に押し遣りながら左手にナイフを取り出したハンスは、分厚い靴底を叩きつけるように扉を蹴り開けると、その流れのままに投擲の構えを取る。
乱暴に開けられた所為で金具が壊れて半ばぶら下がっている状態の扉の奥には、この宿の事務作業用らしいデスクと、紙束とそれ以外とがグチャグチャに所狭しと積まれた書類棚が並んでいた。
また、彼の予想通り、この宿には夜勤のウェイターが配置されているらしく、此処の燭台には火が灯ったままである。
「――――ッッッ!!!!!! ンッ、ンンン――――――――ッ!!!!!」
肝心の物音と呻き声はそのデスクの陰から漂っていた。
声の主は突然の派手な破砕音に驚いたようで、意味の無い単音の羅列にしか聞こえない声からはハッキリと恐怖の震えが垣間見えている。
この反応だけでもほぼ確実に黒衣の者達でないと言えるだろうが、それでもハンスは武器を握ったまま足音を殺して歩を進め、デスクの声がする面から陰になる辺りで足を止めた。
「……エルレンブルク王国騎士団第五部隊のハンス・ヴィントシュトースだ。敵対する意思が無いのなら五秒以内に身動きを止めて口を閉じろ」
平坦な声音に宿る冷たく剣呑な響きに、物音の主は一度だけガタリと派手な音を上げてから、それきり声一つ、物音一つ上げなくなった。
尤も、怯えから来る震えまでは止められなかったようで、微かに床と靴か何かが当たる硬質な音が聞こえてきてはいたが。
ある意味で予想通りの反応に誰ともなく頷いたハンスは、潜んでいたデスクから飛び出しながら右の黒剣と左のナイフとを正面に向けて構える。
敵意の有無を確認しておきながら尚も警戒を続けるハンスの視線の先には、左右に結び垂らされた長い亜麻色の髪を持つ女性が後ろ手に縛られながら転がされていた。
その布で口を塞がれた女性の顔に何となく既視感を覚えて首を傾げたハンスだが、彼が向ける警戒心という敵意は大人しく指示に従った彼女にとって恐怖の象徴だった。
「――――ッッッ!!!!!! ンッ、ンン―――――――――――――――――――!!!!!!」
ハンスの右手にある黒く艶やかな刃を前に大きく目を見開いた女性は、恐怖に駆られるまま叫び声を上げたが声は猿轡に阻まれてまともな言語になっていない。
対するハンスはその声と怯え切った顔を見て、その女性が何処の誰なのか漸く思い出した。
「……アンタ、さっきのウェイトレスじゃねぇか? つくづく運の無い――って、うるせぇよッ。連中が戻ってきたらどぉすんだッ」
語尾を鋭く尖らせながら声量は抑えるという器用な喋りを披露するハンスは、両手の刃物をそれぞれ鞘とベルトに収めながら女性の元へと駆け寄った。
しかし、幾ら凶器を収めたとは言っても、恐怖の対象が間近に迫って来たら誰だってパニックに陥るだろう。
それがうら若き乙女で、近寄ったのが初見時に散々脅かしてきた傷顔だったら猶更だ。
「ンッ――――――!!!!!! ンンッ――――――――――――!!!!!! ンンンッ――――――――――――――――――!!!!!!」
手足を縛られて身動きができない状態ながら釣り上げられた魚のように逃げようとする女性に、思いっきりメンド臭そうな顔のハンスは溜め息を吐きながら屈み込むと、襟首を捕まえてその頬に平手打ちを見舞った。
「静かにしろッ。こんなトコに連中が来たらアンタまで危なくなるだろぉがッ」
潜めた怒声と共に焼き焦がすような激しい視線を向けるハンスだが、兎系ウェイトレスの方は突然の痛みで少しは正気を取り戻したらしく、涙目ながらなんとか口を閉じた。
それでも怖いものは怖いらしく、未だカタカタと震えていたが。
「…………ハァ、ったく……ほら、解いてやるから、騒がずジッとしてろよ?」
何処か『貧困に喘ぐ弟妹の為に身売りして迎えた初夜』のような風情の女性に、流石のハンスも罪悪感を喚起させられたらしく、先程までの荒々しい振る舞いを自粛させつつ倒れた身体を抱え起こしていた。
まあ、頭の片隅で『このまま放っといた方が面倒も無くて良いかもなぁ……』などと騎士道精神に反する思考が湧いていたりいなかったり……
と、囁き掛けてくる悪魔を振り払ったハンスは、座らせた受付嬢の背後に回って結び目に挑み掛かった。
両手を固く縛る縄を見て、普通に解こうすると無駄に時間を掛けると判断したハンスは、これ以上怯えさせないよう女性の視界から隠すように改めてナイフを取り出し、黒くくすんだ刃を縄に押し当てて鋸のように擦切っていく。
「なぁ、アンタを縛ったヤツって、暑苦しい黒いコート着た連中だったか?」
縄に半ばまで刃が食い込んだ時、ハンスは今丁度思い出したかのようにどうでも良さ気な口調で問いを投げた。
一応、女性の口が塞がったままである事は忘れていなかったらしく、是非の二択で応えられる内容になっており、彼女もそれに首肯で答えた。
「……そぉか。そりゃぁ災難だったな……それと、今夜は他にこの宿の人間は居るのか?」
ハンスの二度目の問いに、ウェイトレスはまたも首を縦に振った。
「……ハァ……まぁ、客が居るんだから当たり前か……んじゃ、次はあんま大声出さずに答えてくれよ?」
少年騎士が告げた瞬間、未練がましく抵抗していた縄が千切れて華奢な手が自由になった。
戒めが解かれて自由になった手首には痛々しい締め跡が残っていたが、ハンスはそれを放って折りたたまれた両脚へと向き直りながら口を開く。
「アンタを縛った黒いのは何か言ってたか? もし、何か聞いてんだったら洗いざらい全部教えてくれるか?」
問うハンスの声音は段々と柔らかくなっていたが、やはり初見と再会の印象がすこぶる悪かったらしく、ウェイトレスの反応は酷く怖々としている。
だが、受付で返答が遅れた時の恐ろしい傷顔を思い出したのか、震える手で口元の布を取り払った彼女は、此方もまた震えが伝わる声で返した。
「――い、いえ……わ、私はな、何も聞いて、ません…………」
「……そぉか」
半泣き状態で詰まりまくる言葉と、折角の手間の見返りが無かった事に溜め息を吐いたハンスは、それでもこれ以上怯えられないように先程の声音を維持しようとする。
……するのだが、明らかに減った言葉数と『腹ん中の不快感を和らげる為』とばかりに吐いた溜め息の所為で台無しになっていた。
その所為で、ウェイトレスはまたもや恐慌状態に陥ってしまう。
「ヒッ――あ、ご、ごご、御免なさいッ。御免なさい!! 御免なさいッ!!」
怯えのままに震えが強まった彼女の絹を裂くような謝罪の連呼はどんどん大きくなっていき、慌てたハンスはナイフを手放して空いた手で口を塞いだ。
「バカッ、だから大声出すなって言ってんだろッ」
潜めた声で叱責するハンスは、それが更に事態を悪化させている事に気付かないままウェイトレスの正面に回り込んだ。
「いいかッ、今はアンタを縛ったよぉな連中がココを彷徨いてんだぞッ。それがココに戻って来たらどぉなかるかぐらい分かんだろぉがッ」
「――ッ、ゥッ……――――ゥ…………ァ……―――――――――――――――」
真っ直ぐ瞳を見詰めて真摯に訴え掛けている――つもりでいるハンスは、塞がれた口から嗚咽を溢し続けて震えるウェイトレスに内心激しく狼狽えていた。
(な・ん・で・だぁッ!? さっきから散々気ぃ使ってやってんのにッ、一体烏共は何したってんだッ!! ――っつぅか、もぉ放っといていいんじゃねぇのかコレ? どぉせ、解放した所で彷徨かれでもしたら邪魔にしかならねぇし……そもそも、外の烏共もあと少しで戻って来るだろぉから、これ以上構ってらんねぇし……まぁ、他にも居るって連中は後に回すとして――
自分の所為でも彼女自身の性質が要因でもなく『黒衣の者達が何かしたのだろう』という、良くも悪くも的外れな理由に基づく絶叫と共に人でなしと揶揄されそうな、騎士道に真っ向から挑みかかるような、そんな考えを展開している時だった。
「――――あ……?」
不意に、ハンスの腹部で静かに凍り付くような、猛々しく灼け付くような感覚が生じた。
その感覚に引き摺られて視線を下ろした彼が見たのは、相変わらず目元を赤く濡らすウェイトレスが少年騎士の腹へ倒れ込むようにして押し込んでいる黒いナイフの柄だった。
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