第26話

「ではッ、後の作業は此方の者が担当致しますので私は此処で失礼致しますッ」


「案内有難ぉ御座います。御手数御掛けしました」


「恐縮ですッ、失礼しますッ」


 ハゲウェイターのピンと伸びた背筋や若干顎を上げて視線を直接相手に向けないようにする話し方は、不自然を通り越してもう殆ど上官に対する兵士のそれだったが、この場にそれを指摘できるほど胆の座った者もいなければ、少年騎士の側にも態々それを指摘する気など無い。


 パレードで行進する兵隊のような調子で反転して足早に去り行く中年に向けていた視線を切ったハンスは、受付に立つ長い亜麻色の髪が特徴的なウェイトレスへと向き直った。


「それでは、チェックイン御願いします」


 左右に長く垂れ下がる兎耳にも似た髪形や怯え切って強張る顔色から野兎に似た雰囲気を持つウェイトレスの瞳を真っ直ぐ見据えたハンスは、地獄で罪人を業火にくべる極卒みたいな形相に愛想笑いのように見えなくもない――わけが無いものを浮かべる。


 旅人だった当時から顔の傷や珍しい色の目髪の所為で怖がられたり奇異の眼で見られたりする事が多かったハンスは、敵対的ではない初対面の人間相手極力笑顔を向ける習慣が身に付いていた。


 その頃の彼は年齢に相応しい『若いと言うより幼い』印象の容姿だった為、その作り笑いも『精悍な顔をした少年が一人旅で無駄に気負っているだけの隔て顔』として一定の理解を得ていたのだ……

 『その頃』は。


 だが、今のハンスでは――幾つもの戦場で死線を乗り越え、王宮で繰り広げられてきた王国と教団の権謀術数を目の当たりにしてきた御年十六の少年騎士では、更に付け加えれば、先導と交渉の仕事が一息ついて再びセフィーとの遣り取りを引き摺りだした絶不調状態な現在の彼では、当時のように幼子特有の可笑しさで微笑みを誘う顔などになるわけもなく……


 カウンター越しにそれを目撃した童顔ウェイトレスの脳裏では、怪我を負って血塗れになった鹿を見つけた空腹の怪物を彷彿とさせる笑みとして認識されるほどだった。


 まだ相手は一言口にしただけなのに、もう何もかも棄てて逃げ出したくなっている兎系ウェイトレスは、なんとか助けを求めようと眼球だけを動かしてさり気なく視線を巡らせたが、既に他の四人は筆を走らせていた帳簿を閉じて背後のドアへと消えていた。


 その挙動不審な姿を視界に収めながらも、返事も無く今の今まで待たされ続けたハンスの中では、奇妙な間に対する疑問よりも無駄に待たされた事への苛立ちの方が勝っていたが。


「……チェックイン御願いします」


 同じ文言に含まれた感情を察知して喉を干上がらせた兎系ウェイトレスは、背筋を走る怖気に従い、ニスでも塗られたかのように気持ち悪く貼り付く口をなんとかこじ開ける。


「ハ、ハイッ! 御待たせしちぇ申し訳ありませんッ! 御宿泊されりゅ人数や宿泊日数の方は支配人より既に承っておりますので、後は此方にサインを頂くだけで結構でしゅッ!」


 必死さと恐怖で狂った呂律と共にハンスの元へと差し出された帳簿には明らかな震えが見られたが、少年騎士の側にそれを気に掛けてやる気など無いらしく、淡々とそれを受け取って脇に置かれた筆立てから羽ペンを手にした。


 ガチョウの羽根を加工したそれを筆立ての傍に設置されたインク壺に浸したハンスは、縁を叩いて余分なインクを落としてから、ウェイトレスに指し示された空欄に筆を走らせる。


 彼が主から授けられた氏ガラス細工でも扱うかのような手付きで丁寧に書き上げ、聖騎士長と聖騎士団御一行分の記帳を『カエルム教聖騎士団』と適当に書き終えるまで、百人程度なら易々収容できる大広間には羽ペンと羊皮紙のカリカリといった擦過音だけが奏でられ、他の音は呼吸音や衣擦れなどの人の気配と呼べるものでさえ聞こえなかった。


 とは言え、高が数行の空欄を埋めるだけの作業に大した時間など要する筈もなく、彼が筆を執ってから一分もしない内にウェイトレスの元へと鋭い眼差しが戻る。


「書き終わりました。確認して下さい」


「ハイッ、承りましたッ!」


 少年騎士の意識が逸れた事でほんの少しだけ緩んでいた所に言葉を受けたウェイトレスは、子供のようにコクコクと頷きながら差し出された帳簿を迅速且つ丁寧に受け取った。


 傍目から見ても顔色の悪いウェイトレスは、受け取った帳簿に目を落として視線を合わせないようにし、正面に立つ怪人の連れである『カエルム教聖騎士団』の到着までの時間を稼ごうと画策する。


 しかし、数十秒ぽっちで書き終わった文字列を眺めているだけで大した時間稼ぎになどなるわけない事は明白で、ハンスは正面で固まってしまったウェイトレスを促すように口を開く。


「……何やら顔色が優れないよぉですが、何処か問題でもありましたか? それとも、御気分が優れないとかで?」


「い、いえッ、そのようにゃ事は御座いませんッ! 確認の方は済みましたので、御部屋へ御案内致しますッ! 係りの者を呼んでまいりましゅので、少々御待ちく――


「いえ、待って下さい。そろそろ連れが参りますから、それまで待って貰えますか?」


 恐ろしい悪鬼――ではなく若き王国騎士への対応を他の人間に押し付けようと捲し立てたウェイトレスの言葉は、その悪鬼の要求でもって遮られた。


 自らの言葉に被せられたそれに不快感など抱く余裕も無いまま、ウェイトレスは止まりそうになる思考を押して固まり掛けた舌を動かす。


「――ハイッ、承知致しましたッ! では、彼方に休憩用のソファーが御座いますので、其方で御休みに――


「いや結構。長旅で疲れているであろぉ連れを差し置いて一人だけ腰を下ろすと言うのは、些か宜しくないですからね。此方で待たせて貰っても構いませんか?」


 逃げ道を塞ぐかのような申し出の所為で元々限界間際なウェイトレスの目端や口元が痙攣しだしているが、当然ながらその申し出を拒否できるほど強い心臓など持ち合わせていなかった。


「ハイッ! どうぞ御ゆるりと御待ちくださいませッ!」


「有難ぉ御座います」


 聖騎士長相手に見せた会釈を返したハンスは、満腹の獅子が遠い草原から注視してくる牛や馬を無視して欠伸するようにウェイトレスから視線を離し、カウンターに腕と体重を預けて背後の出入口を眺めた。

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