ここに北条はいなかった
一五二八年(大永八年) 七月初旬 尾張国 北条新九郎
「無理を言って同行してもらって悪いな藤右衛門尉」
「いえ、若様の頼みでしたら何処へでも赴きますよ。
……お力になれずに申し訳ありませぬ」
「藤右衛門尉殿の交渉のせいではない。どこも食い物が足りぬのだ、多少なりとも融通してくれるだけマシというものだ」
俺も、叔父上も、わざわざ相模から同行してくれた御用商人の宇野藤右衛門尉も決して表情は明るくないだろう。
津島にて金はあるが食い物がない俺たちの足元を見た取引ばかりさせられたからな、叔父は表面上は平静を保っているが腹の中は憤懣で煮えたぎっているに違いない。
それにしても困ったものだ、目標の食料の買い付けは半数にも満ちていない。織田弾正忠家の助力を得てもこの様。商人というのはまったく度し難い生き物だ。
「もし、北条の方々……」
「なにやつ!」
津島から勝幡城に引き上げる準備をしていると、家々の間から不意に声をかけられた。護衛の兵がそちらに槍を向けると、そこに立っていたのは腰の折れ曲がった老女。一瞬、物の怪かと思ったわ。
「お困りのようで。よろしければお茶でもいかがでしょう」
「……何処の手の者だ」
「津島で一番の商家、とだけ」
藤右衛門尉が俺に「大橋でしょうな」と耳打ちしてくる。
大橋と言えば織田弾正忠の懐を握っているといわれる人物。
「どう思う叔父上」
「そなたの思うようにいたせ。ここは織田弾正家のお膝元、どう転んでも刀傷沙汰にはならんだろう」
「そうか。……その口車に乗ってやる、案内せい」
どうせ尾張にやってきた目的は達成できておらぬ、わざわざ声をかけてきた大橋に賭けてみるのも一興だ。
◇
老女に案内されて来たのは津島では小ぶりな屋敷だった。
中に入ると、そこには腹の出た中年の男が胡坐を掻いて笑顔で待ち受けていた。
「よくおいでなさいました。さあさあ、外は暑かったでしょう。まずは冷えた茶でもどうぞ」
目の前の男が名乗りもせずに女中に指示を飛ばす。差し出された茶をジロリと見る。湯呑の中には黒い液体が入っていた、明らかに俺の知る茶ではない。
「どうぞ、烏龍茶です」
「うーろん……?」
「御使い様曰く、大陸の茶だそうで」
「そうか、御使い様のもたらしたものか。いただこう」
「それでは毒味を」
気を遣ってきた同席している老女に断りを入れ、グイッと茶をあおる。
冷たい、おそらく井戸で冷やしていたのであろう。火照っていた身体には心地よい。
「少々苦いな。だが香りがいい」
「それはなにより。ささ、お連れの方も是非」
俺の両脇に控えている叔父上と藤右衛門尉も烏龍茶を口にする。叔父上は顔を顰め、藤右衛門尉は美味そうに茶を啜った。叔父上は苦みが苦手だからな。
「もてなし感謝する。甘露であった。それで、お主は一体?」
男は俺の問いに、忘れていたと思わせるような体の動きをし、佇まいを正して名乗る。
「ご挨拶が遅れました、大橋源左衛門重一と申します。ここ津島で商いをさせていただいております」
「やはり大橋殿であったか。いつも北条との交易を仕切ってもらい感謝する」
「いえいえ、津島にとっても良い商いですのでお気になさらず。
さて、そろそろ北条様をお招きした理由を語らせていただいても?」
「ああ、頼む」
俺の了承の声を聞くと、大橋殿は手を叩いて何かの合図を送った。
俺たちが茶を飲んでいる部屋の入口とは逆の戸口が開き、女中がズラズラと木で出来た小箱を俺と大橋殿の間に置いていく。
「主である弾正忠様からの贈り物です。目録ではあんまりなので実物をお渡しいたします」
「ほう、開けても?」
大橋殿の「どうぞ」の言葉を受け、藤右衛門尉がするりと動いて小箱の蓋を開ける。小箱の中身は……。
「銭、ですかな? しかし永楽銭ではない」
「はい、それは天神銭。御使い様がご用意くださった銭なのです」
「御使い様が!?」
仮にも神の使いが銭を作っただと? にわかには信じられん。
「津島では天神銭の一枚を永楽銭五文分として扱っております。ここに五百枚、用立てました。これをお持ちになって御使い様をお訪ねください。
きっと御使い様なら皆様のお力になっていただけるはずです」
「左様か。心遣い痛み入る。ぜひ弾正忠殿に礼を言いたいのだが……」
「無用です。ここであったことは全てお忘れください。
後だしで申し訳ありませぬが、ここに北条家の方々はいなかったと言うことにしていただきたい。此度の取引は藤右衛門尉殿のみが津島に訪れたと」
……なるほど、いささか弾正忠家も面倒な立場と見える。
「それほどまでに主家がうるさいか」
「それはもう。主家の頭を抜いて北条家の使者が来たとなれば軍を起こすと確信できますほどに肝がちいそうございます。
どこから漏れたか知りませぬが、御使い様が自身のところに来ないことに腹を立てて、わざわざ弾正忠様に抗議の文を送りつけるほどで」
「その言い草、御使い様を囲っているわけではないのだな?」
「あの方は囲ってもするりと別の場所へ逃げる御仁です。お役目以外は民草と語り合い、笑うのがお好きなようで」
「実に穏やかな方なのだな、御使い様は」
「釣りの腕以外は御使いの名にふさわしい方だと某は思います」
クツクツと笑う大橋殿に俺と叔父上と藤右衛門尉は顔を見合わせる。釣りだと? なんのことだ。
大橋殿の発言を疑問に思っていると、彼が咳ばらいをして。
「じきに正午です。御使い様と面談なさるのでしょう? そろそろ出立したほうがよろしいかと」
む、もうそのような時間か。釣りについて問い詰められなかったのが惜しいが、御使い様を待たせ過ぎるのもまずい。
「馳走になった。これからもよき取引を頼む」
「ええ、御武運をお祈り申し上げます」
銭箱を藤右衛門尉に持たせて、大橋殿の屋敷から辞する。
大橋殿にあそこまで言わせる御使い様とやら、いかほどの御仁か、見極めねば。
「くっ、某の腕では二倍天神剣までしか……」
「いやすげぇって新右衛門! 早すぎて残像見えてんじゃん!」
「そうですぞ! 流石は塚原殿!」
「剣聖と呼ばれるだけあるわい!」
なんだこれは。
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