第10話
昨夜の「時計塔」の機能停止により、国立魔道学院は未曾有の事態に見舞われていた。自動調理器は止まり、廊下を照らす魔導灯は点滅を繰り返し、エリートを自称する学生たちは「魔力不足」という初めての経験に右往左往していた。
そんな喧騒をよそに、俺は学院の北西に位置する「凍てつくバラの温室」の前に立っていた。
表向きは希少な寒冷植物を育てるための温室だが、その地下には、学院の冷却システムを司る第二の中継地点『氷結の祭壇』が存在する。
「……主様。ここには『偽り』の匂いが充満しております」
影の中で白が嫌悪感も露わに告げる。
俺の『眼』が見据える先、温室の地下からは、騰蛇(とうだ)の炎を無理やり冷却し、その「死んだ熱量」から生み出された禍々しい冷気が溢れ出していた。
温室の扉を開くと、そこには一人の少女が膝をついて祈りを捧げていた。
学院で「聖女」と崇められる特待生、エルナ・ド・ラ・メール。彼女はこの祭壇の管理を任されており、その清らかな魔力で学院の冷却を維持しているとされていた。
「……誰ですか? 今、ここは立ち入り禁止のはずですが」
エルナが振り返る。その顔は、聖女という呼び名にふさわしい清楚な美しさだったが、俺の眼には、彼女の血管を流れる魔力が「黒い氷」のように凝固し、彼女自身の生命力を食いつぶしているのが見えた。
「ただの劣等生ですよ。……聖女様、そんなに無理をしては魂が凍りつきますよ」
「……何のことでしょう。私は、皆のためにこの力を捧げているだけです」
彼女は微笑もうとしたが、その唇は紫に変色し、震えている。
彼女が「聖なる力」だと思っているものは、騰蛇の炎を無理やり封じるために強制的に変質させられた、騰蛇の「怒り」そのものだった。彼女は聖女などではなく、騰蛇の呪いを一身に引き受けるための「生贄の器」に過ぎない。
「その祭壇の下に何があるか、貴女は知っているはずだ。貴女が祈るたびに、地下に囚われた『神』が苦しんでいることも」
俺が静かに一歩踏み出すと、エルナの瞳に激しい動揺が走った。
「……いけません。それ以上は。私が祈りを止めれば、学院はこの呪いの冷気に飲み込まれてしまいます!」
「なら、その呪いごと俺が引き受けよう」
俺は右手を掲げ、空中に巨大な『火』の文字を呪力で描き出した。
前世で騰蛇と共に幾多の戦場を潜り抜けた俺にとって、彼の炎の性質を理解し、制御することなど呼吸をするより容易い。
「オン・アギラ・レイカ・ソワカ!」
俺が真言を放つと、祭壇から溢れ出していた黒い冷気が、俺の描いた文字に吸い込まれ、純粋な真紅の炎へと浄化されていく。
温室を覆っていた氷が音を立てて解け、エルナの顔色に生気が戻り始めた。
「あ……体が、温かい……?」
「貴女を縛っていたのは聖なる義務ではない。ただの悪趣味な呪縛だ」
俺は祭壇の床に直接拳を叩きつけ、呪力を流し込んだ。
ドォォォン! という重低音と共に、祭壇の地下で騰蛇を縛っていた第二の楔――『氷晶の鎖』が粉々に砕け散る。
その瞬間、学院の冷却システムが完全に沈黙した。
代わりに、地下深淵から、かつて世界を焼き尽くした炎の神将の「咆哮」が、霊的な波動となって学院全体に響き渡った。
「これで二つ目。……エルナ、貴女はもう自由だ。これからは他人のためではなく、自分の魂のために魔力を使いなさい」
俺は茫然自失の彼女を残し、立ち去ろうとした。
だが、温室の出口には、一人の男が立っていた。学院の最高責任者の一人、魔導局の長官だ。
「……まさか、これほど早く『楔』の正体を見破る者が現れるとは。レオン・アルバーン、貴様は一体、どの国の間者だ?」
長官が杖を構える。その周囲には、学院最強の警備魔導師たちが展開していた。
俺は白と共に、不敵な笑みを浮かべた。
「間者? 違いますよ。俺はただの……かつての『持ち主』だ」
俺の手の中で、昨夜手に入れた炎の小太刀が、主の怒りに呼応するように激しく燃え上がった。
劣等生の仮面を脱ぎ捨てた俺の背後には、巨大な炎の蛇――騰蛇の幻影が、牙を剥いて顕現していた。
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