第2話

 風が運んでくるのは、湿った土の匂いと、微かな、だが決して無視できない「腐敗」の残り香だった。

「レオン、またそんなところで本を読んでいるの? 目が悪くなるわよ」

 背後からかけられた穏やかな声に、俺は視線を本から上げ、子供らしい無垢な笑みを浮かべて振り返った。そこに立っていたのは、この新しい人生での母親、セーラだ。彼女の背後には、のどかな農村の風景が広がっている。だが、俺の『眼』には、彼女の肩のあたりに、澱んだ灰色のもや――「穢れ」が薄っすらと張り付いているのが見えていた。

「大丈夫だよ、母さん。この本、面白いんだ。昔の英雄の話が書いてあって」

 俺――レオン・アルバーンは、短い手足と柔らかい髪を持つ五歳の子供として、この世界で二度目の幼少期を過ごしていた。

 前世では、日ノ本の朝廷を影から支え、最強と謳われた陰陽師。仲間の裏切りによって命を落とし、あの「神」と名乗る少年に出会ってから、早五年が経つ。

 セーラは「もう、仕方のない子ね」と笑いながら、俺の頭を優しく撫でた。その手の温もりは、前世の血生臭い戦場では決して得られなかったものだ。彼女が家の中に戻っていくのを見送り、俺は再び独りになると、膝の上の本を閉じた。

 この五年で、俺はこの世界の「仕組み」を概ね理解した。

 ここには「魔力」と呼ばれるエネルギーが満ちている。人々はそれを空気中から取り込み、体内の魔術回路を通じて、火を起こし、水を出し、風を操る。一見すれば、それは文明的で輝かしい魔法の世界だ。

 だが、神から授けられた『万物の穢れを視る眼』は、残酷な真実を映し出す。

 この世界の魔力とは、純粋な霊気ではない。それは、古の時代に大気へと漏れ出した、妖たちの怨念や瘴気が混じり合った「不純物」だ。人々は、毒をエネルギーとして体内に取り込んでいるに等しい。

(……だからこそ、この世界の人間は脆い)

 魔力を酷使する魔術師ほど、若くして内臓を病み、あるいは精神を病んで自滅していく。母の肩についていた薄い穢れも、この村の井戸水に含まれる微量な瘴気が原因だろう。この世界の住人は、自らが毒に浸かって生きていることにさえ気づいていない。

「さて、今日の『掃除』を始めるとするか」

 俺は庭の隅にある大きな古木の根元に座り、深く呼吸を整えた。

 まずは肺の奥まで魔力を吸い込む。普通の魔術師なら、ここで魔力をそのまま回路へ流すが、俺は違う。体内に取り込んだ「毒」を、陰陽師の秘術をもって濾過し、純粋な「呪力」へと昇華させていく。

(練れ。澱みを削ぎ落とし、核にある光だけを抽出せよ……)

 意識を内側へ。血管を流れる熱い衝撃を、一つ一つ丁寧に解きほぐしていく。

 魔力回路が悲鳴を上げる。子供の肉体には、この変換作業はあまりに負担が大きすぎる。だが、これを怠れば、俺もこの世界の住人と同じように、いずれ穢れに食い破られるだろう。

 額から脂汗が流れる。視界が白むほどの苦痛の中、俺は体内の瘴気を一点に集め、指先から微かな黒い煙として排出させた。

 代わりに、俺の丹田には、透き通った水のような、研ぎ澄まされた呪力が溜まっていく。

「……ふぅ、やはり五歳の身体では、一度に練れる量はこれが限界か」

 俺は肩で息をしながら、空を仰いだ。

 かつての俺なら、国一つを覆う結界を瞬時に展開できた。今の俺ができるのは、小さな村の片隅で、自分の寿命を数日延ばす程度の浄化だ。

 だが、この不自由さが、かえって心地よい。

 前世の俺は、あまりに強すぎた。周囲は俺を神仏のように崇めるか、化け物のように恐れるかの二択だった。裏切られたあの瞬間ですら、俺はどこかで「ようやくこれで終わる」という安堵を感じていたのだ。

(神様。あんたは『退屈させない』と言ったが、確かにその通りだ。この世界は、あまりに汚れすぎていて、掃除のしがいがある)

 俺は立ち上がり、服についた泥を払った。

 ふと、村の境界にある森の方へ目を向ける。

 そこには、普通の人間には見えない「巨大な影」がうごめいていた。森を覆う霧のように見えるそれは、意志を持った呪いの塊だ。

 この世界には、陰陽師がいない。

 妖を封じる印も、魂を鎮める祝詞も、存在しない。

 魔術師たちは、圧倒的な火力で妖を焼き払うことはできても、その後に残る「穢れ」を処理する方法を知らない。焼けば焼くほど、瘴気は霧となって大地を汚し、また新たな妖を生む。この世界は、終わりのない負の連鎖に陥っているのだ。

「レオン! おやつができたわよ!」

 母の呼ぶ声が聞こえる。

 俺は「今行くよ!」と明るく応えながら、一瞬だけ、その鋭い視線を森の影へ向けた。

(……あそこに潜んでいるのは、ただの野生動物じゃないな。そろそろ、牙を剥いてくる頃か)

 俺は右手の掌に、誰にも見えない透明な筆で『鎮』の一文字を刻んだ。

 

 魔力がほとんどない神童。

 それが、今の俺の仮面だ。

 だが、その正体は、この呪われた世界の理を根底から書き換える、唯一の「異分子」である。

 俺は駆け出しながら、心の中で静かに笑った。

 かつての最強が、赤ん坊からやり直す。

 この歪んだ世界が、俺という毒にどう反応するか、じっくりと見せてもらおうじゃないか。

 夕日に染まる村の風景は美しく、だが俺の眼には、その影から覗く無数の紅い瞳が、不気味に、そして滑稽に明滅しているのが見えていた。

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