2 祈禱師

 祈祷師は妙齢の女性だった。

 しかも見た目の麗しさと引き換えに口が災いそのものみたいな怪しげな青年であっても、聖母のような優しい笑みで包み込むように接し、彼の明らかにうさんくさい話にも嫌な顔一つ見せることなく真面目に相槌を打って親身になろうとするので、初めこそ警戒しながら気取ったように話していたメルクも、彼女のその柔和な人柄が本物であることを理解してからは珍しく他人に対して申し訳なさを塩の一さじ程ではあるが覚え、仮病であることを告白してから、彼女の力について知りたいと伝えた。

「つまり僕が言いたいのはですね、お姉さん。その力は非常に危険なものであるということなんです」

「お姉さんと呼ばれるような歳ではありませんよ、私は。最近は口の周りの小皺も隠せなくなってきたぐらいです」

「卑下することはありません、あなたは素敵な方です」

「お上手ね、金髪のお喋りさんは」

 祈祷師は照れた様子で笑った。確かに彼女の目元には小皺があり、薄い唇もかさついていて瑞々しさはなかったが、品のある表情からも溢れでる慈しみ深き心のせいか、若さだけでは表現しきれない魅力があった。

「あなたのような素敵な女性であれば、いつまでだって楽しくお話していたい気分なのですが、事態は急を要するみたいなので率直にお尋ねします。あなたは今、どのような心境なのでしょうか」

 メルクには強制的に魔石を引きはがす術がある。やろうと思えば、今この瞬間にロイヤルパープルをぶっ放せば事は済む。しかし彼女のような誠実な人間に対しては、段取りをきちんとするのがメルクなりの敬意の示し方であった。

「ええ、おそらくあなたは面白くも聡い方ですから、すでに勘付いているでしょう。私には今、迷いがあり、葛藤があります。人々の傷病を癒す力を得たことで、自分がこれまで信じてきた祈りを疑うようになってしまいました。多くの方の怪我を治し、以前とは比べ物にならないほどに感謝されて、人々の役に立てるようになったことは、大変光栄に思います。しかしだからこそ、これまで私がしてきたことは何だったのかと考えてしまうのです。力を得たこと自体が、祈りが通じたからであるとも考えました。しかし、そうなれば今後、もしこの力がなくなってしまったら、私はどうすればいいのでしょう。祈りによって救われた者と救われなかった者の違いは一体どこにあって、何が決めておられるのか。私の及ばぬところであるのは分かりますが、そんな疑念に駆られていてはもう二度と誠実な祈りを捧げられないのではないかと思えてしまうのです」

 彼女の話は魔石の厄介なところを端的に示しているとメルクは思った。

 異能の力は、欲望が増すごとに強大になり、まさに祈りや願いによって高められる。そんな欲望の根底には、少なからず現状への不満や欠乏への恐れがあるだろう。そこが異能の厄介なところでもある。何故ならば、欲望を満たすべく何かを得たところで、必ずしも内なる心の問題を解消できるとは限らないからだ。

 例えば、富を求める者は多いが、彼らは生きていくのに必要な財さえ持てれば安心し満足するだろうか。確かに毎日の飲み食いの金銭を気にする必要がなくなるという点においては、一定の心の平穏をもたらしてくれるだろう。しかし増えていく富によって、今度は金持ちならではの不安、奪われることや騙されて失うことへの恐怖が、以前よりも一層強くなる可能性も十分にある。

 つまりそれは持つ者の悩みであるが、ほとんどの人間はいつか増え続けていく重圧に押しつぶされるときがやってきてしまう。そのときというのは、その人間の器によって決まる。器自体が力によって増していくことも考えられるが、メルクは否定的だ。大抵はいずれ自分の手におえないと思うようになり、それ故に自分も周りも信じられなくなるも、力は強大になっていく一方なので異能への依存は加速していく。それがこの魔石の性質であり、遅かれ早かれ必ず破滅に導く、まさに悪魔の石なのである。

「そこまで考えられているあなたであれば、その力の異質さもお判りになっているはずでしょう」

「ええ。この力を使うたびに、心臓が締め付けられるような感覚がするのです。あるときは体内を巡る血が冷たく、あるときは灼けるように熱く感じます。胸にある赤い痣も言い知れぬ奇怪な熱を帯びているのが分かります」

 そういって彼女は顔だけ出ていた黒い被り布を取り外してやはり真っ黒の長袖のシャツの胸元を引っ張り、痣の刻まれた褐色の肌を露わにする。

「思った以上に良くないですね。力を得た当初よりも痣が黒くなってきているでしょう。これがもっと黒ずんでいって彫られた刺青のように真っ黒になるのもそう遠くないかもしれません。ここには多くの人がやって来ていると聞きました。あなたのような誠実な方は、おそらく一人として追い返したりはしなかったのでしょう。だからこそ、通常よりもかなり早いペースで浸食されています」

「もしもこの痣が真っ黒に染まったとき、どうなるのでしょうか」

「全てを焼き尽くします」

 メルクは静かに告げる。

「全てを、焼き尽くす」

 彼女はメルクの発した言葉をゆっくりと繰り返す。あまり驚いている様子はなかった。

「あなたが力に飲み込まれて限界を迎えると、あなたの身体から青い炎が発現します。僕はこれを悪魔の業火と呼んでいるのですが、この炎は三日三晩消えることなく周囲を巻き込んで燃え続けます。そして終いには、そこに存在していたあらゆるものの一切の痕跡が失われるのです。消えた者に関わった人の記憶にさえ影響は及びます」

「その炎は水などでも消火できないということですか」

「ええ、残念ながら」

 メルクは顔色一つ変えずに頷く。

「そうですか」

 彼女はすっと目を伏せた。そして少しだけ間をおいてから、顔をあげた。

「分かりました。では一体どうすればいいのでしょうか」

「いくら僕が非の打ちどころのない好青年であるとはいえ、突然やってきた見ず知らずの男の話を簡単に信じてしまって大丈夫ですか」

 メルクは尋ねる。

「ええ、信じますよ。あなたは誠実な方です」

 彼女は少しも間を置かずに、柔和な笑みをたずさえて答えた。

「仮病を使ってあなたに会おうとしたのですよ」

「うわべの話ではありません」

「そうですか」

「ですが、少しばかり時間をくださりませんか。情けない話ですが、やはり怖いのです。自分の祈りと向き合うことが」

 彼女は申し訳なさそうにそう言った。

「いえ、情けないなんてことはありませんよ。誰だって変化は怖いものです。向き合う時間は必要でしょう」

「それに来てくれている方々にも話をしなくてはいけません」

「そういえばそうだった」

 あまりにすんなりと話がスムーズに進むので、面倒な問題があったことを忘れかけていた。

「来てくれる方々はここに来れば治ると信じておられます。この力が良くないものであったとしても、期待に応えることができなくなるのはやはり心苦しいです。どうにかしてあげたい気持ちがあっても、以前のようにただ祈りを捧げるだけでは」

「ああ。いえ、僕が心配しているのはそこではありません」

 メルクがあっさりと否定する。

「もしもあなたが彼らのために祈っても治らないかもしれないとあなたに告げられたら、彼らがどういう反応を示すかということです。ここにはすでに少なくない数の人が来ているようですし、間違いなくこれからも来続けるでしょう。彼らは果たしてあなたの言葉を素直に聞き入れて大人しく帰ってくれるでしょうか」

「納得してもらうのは容易なことではないでしょう。でも、それは仕方がないことです。治ると思っていたものが治せないと分かったら感情的にもなるでしょう」

 メルクの話を聞いても落ち着き払っていた彼女の顔がわずかに強張ったのを、メルクは見過ごさなかった。

「では、今日はこの辺りで失礼します。また三日後に伺いますが、力の行使はできる限り控えてくださいね」

 メルクは明るい声で別れを告げて扉を開けた。診察を待つ人々の騒がしいほどに大きな話し声が部屋の中まで聞こえてくる。メルクは祈祷師に肩をすくめてみせてから出て行った。

 祈祷師は彼が扉を閉めるのを確認してから、深く息をついた。

「ねえ、どうすればいいの。あなた」

 彼女の言葉は誰に聞かれることもなく、宙に消えていった。



「そんなわけで三日ほど暇になってしまったけど、どうしたものかな。やっぱり一度山を降りるべきかね。泊まれるところも無いみたいだし」

 そこでメルクと同じように祈祷師の元を訪ねるつもりであろう中年の男女とすれ違う。

「それにしても本当に人が多いよね。おっと」

 メルクは背負っていたリュックサックごと後ろから何かにぶつかられた。

「なんだよ、ヴァレンチノ」

 メルクはいつものようにヴァレンチノが何か不満を訴えて蹴り飛ばしたのかと思った。しかし振り返るとヴァレンチノはメルクから離れており、到底こちらまで脚が届くとは思えない位置にいた。そこで視線を真下にずらすと、くすんだ茶髪をした褐色肌の少女がよろめいていた。それから彼女はメルクの顔を見上げ、彼と目が合うと顔を赤らめた。

「あっ、えーと。その、ごめんなさい。何もないところで躓いてぶつかってしまいました。大丈夫でしたか」

 少女は慌てながら頭を下げる。

「キミの方こそ大丈夫かい」

 メルクは相手を安心させるように心掛けながら笑顔で応じる。

「あっ、は、はい。大丈夫です。その、優しいんですね」

 少女はおどおどしながらもメルクにキラキラした眼差しを向ける。

「キミはここの村の子なのかな」

「そうです。ここから少し歩いたところに住んでいます」

「僕はね、泊まれるところを探しているのだけれど、この辺りに宿はないかな」

 メルクがそう尋ねると、少女は少し困った顔をした。

「えっと、ないですね。この村には民家の他には数軒の生活用品店ぐらいしかないんです。だから山の麓まで行かないと」

「そうなんだ。教えてくれてどうもありがとう」

「いえ、大したことではありませんよ」

 少女は照れているらしく、もじもじと俯いている。

「それにしてもこの辺りは面白い地形だよね。大きな山々が連なっている真ん中に盆地があってさ、まるで神様がぽっかりと穴をあけたみたいだ」

 メルクは山脈に囲まれた三方を眺めながら言う。

「ええ。昔、空から隕石のようなものが落ちてできたのだといわれていますね」

「へえ。やっぱりそうなんだ」

「やっぱり?」

 彼女は首を傾げる。

「いや、こういう場所は珍しいからね、何か特別なことがあったに違いないと思っていたんだ。僕は各地を旅してまわっていてね、特に自然の中を歩くのが好きなんだけど、せっかく歩くならどういう経緯でその土地が今に至るのか知りたくなるんだよ」

 メルクはあくまでも爽やかに応える。そこで彼女はわずかに戸惑いをみせてから、おずおずと尋ねた。

「あの、もしかしてあなたは旅の途中で偶然この村を通りかかったのですか」

「うーん、返事に困る質問だね。偶然だとも言えるし、そうでないとも言える」

 その答えに彼女が納得していないのは、誰が見ても分かっただろう。

「それってどういうことですか」

 彼女は前のめりになって訊いてくる。

「じゃあ、こういうのはどうかな。ここに来た理由を教える代わりに、キミのおうちに案内してもらえないかな。できれば一泊ぐらい泊めてくれると嬉しいね」

「どうして突然そんな話になるんですか」

 彼女は突拍子もない話を聞いて、その不躾さに怒るよりも純粋に戸惑っているようであった。

「いやあ、このまま麓の街まで行ったとしても宿屋に払うお金がないからね」

 そこで少女の顔が一瞬にしてこわばった。

「別に財布の一つぐらいあげちゃってもいいんだけど、ご飯と寝床だけはどうしても欲しいのさ。その中にはキミが今年いっぱいは食べ物に困らないぐらいは入っているから、支払いは十分足りていると思うな」

 メルクは笑顔のまま、彼女の懐を指差していた。

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