ヒール
1 登山
目の前には、小石の混ざった急斜面の坂がずっと先まで続いていた。
「ねえ、本当に一枚でいいから食べてもいいかなあ」
メルクは白絹のハンカチで額に光る大粒の汗を拭う。ヴァレンチノは振り返ってメルクのことを冷めた目で見てくる。
「つい一時間ほど前に麓の食堂でパン粥を頂いたことは忘れちゃいないよ。でも歩いていたらお腹が減ってきちゃってさ。ほら、ちょうどそこに休める場所があるみたいだから、そこでおやつを食べようよ。僕の背中から発する熱で、出がけに買ったチョコクッキーが溶けてしまう前にさ」
メルクは山道のさなか、右手に看板を見つける。そのすぐ脇にほとんど足の踏まれた形跡のない小道があったが、看板によれば小道の先には木のベンチの置かれた休憩所があるという。
しかしメルクがたった今話したように歩き始めてまだ一時間しか経っていないにもかかわらず、買った当初は登頂した際のご褒美に食べるのだと言っていたチョコチップクッキーにすっかり気を取られ、山登りのペースは落ちるばかりであった。ヴァレンチノは歩きながら食べればいいのではと道草をついばみながら歩くことで提案したが、腰を落ち着けて感謝を捧げながら、しっかり味わって食べるのが礼儀であると頑なであった。
だからヴァレンチノが反応を示す前に、クッキーを食べたくて仕方のないメルクは子どものように駆けだしていた。ヴァレンチノは呆れながらもしぶしぶとついていく。背の高い木々と生い茂る草花で先は見えなかったが、ほんの少し歩けば、すぐに整地された場所に出た。
「へえー、良い場所だなあ。麓の街も見えるね」
メルクは柵の前に立つと、家々や学校、病院などと思われる木組みの建物が並び、区画整理された街並みが見渡せた。山に登る前に立ち寄っていたが、比較的最近になって開発された地域らしく、街全体が若くて活気もあった。しかし山の方に近づくと建物が無くなるのと引き換えにうっそうとした草木が生い茂り、登山口の近くは起伏の激しい砂利道が続いていた。
「こんにちは」
はしゃいでいたメルクの背後から話しかけてきたのは、丸木のベンチに腰かけていた白髪交じりの頭の中年男性であった。
「おっと、先客がいたのか。誰もいないと思って気を抜いていたよ」
メルクは頭の後ろに左手を当てて気さくに挨拶を返す。
「いえいえ、本当に良い景色ですよね。街は活気に満ちていて、人々の顔も明るい。実は私、つい先日あの街に引っ越してきたばかりなんですよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあこの景色を見るためにわざわざ登ってきたのかい」
メルクが尋ねるが、彼は首を横に振った。
「いえ、あいにく私は山などにはあまり興味はない方で街のハイキングクラブにも所属しておりません。そうではないんですよ、あなたも耳に挟んでいませんか、神様のご加護の話を」
「ご加護? ああ、そういえばこの山を登る前に、話していたのを少し聞いた気がするな。でも詳しいことは知らないかな。僕は旅人でこの山を越えようとしただけだからね。ああ、もしかしてこの山のどこかに御神像でも祀られているのかな」
「いえ、そういった信仰の類ではなく物の例えです。ですが、あれは本当に神が舞い降りているといっても過言ではありません。神の御業そのものです」
「あっ、ちょっとクッキー食べてもいいかな。僕、すごくお腹が減ってしまっていてね」
「えっ。ああ、はい」
返事を聞く前からおもむろにベンチに腰掛けて素早くリュックサックから包み紙を取り出すメルクの様子に、男はしばし呆気にとられていたが、男もまたすぐに気を取り直した様子でベンチに腰を掛け直す。
「それで、ご加護というのは何のことなんだい」
メルクはクッキーをかじりながら改めて尋ねる。
「実はこの山の頂上付近に盆地のようになっている場所がありまして、そこに小さな集落があるんです。おそらく百人も住んでいないでしょう。その村には代々祈祷師をされている家がありまして、これも又聞きなのですが、何かにつけて祈りを捧げていたそうです。先にことわっておくと、私はあまり願掛けなどを信じるたちではありません。それをなさっている方々のことを否定はしませんがね」
「じゃあ、そんなあなたが信じるに至った経緯があるんだ」
チョコチップクッキーに舌鼓を打っていたメルクであったが、話は聞いていた。
「ええ、あれは奇跡としか言いようがありません。以前私の友人が荷馬車に轢かれてしまい、歩くことさえままならなくなってしまいました。私も何かと気に掛けて励ましたりしてみましたが、彼はすっかり生きる気力を失い、途方にくれていたのです。そんなとき、この山中にある集落に住む祈祷師の噂話を耳にしたんです。その話とは、その祈祷師の祈りはあらゆる傷病を治すことができるのだというものでした。私は当然その話を信じてはおりませんでしたが、それでも彼に行ってみてはどうかと提案してみたんです。事故以来家に引き籠ってしまっていて、外に出す口実にもなると思ったのです」
男はとうとうと語っていたが、自分の言葉に酔いしれているところもあった。メルクはといえば、クッキーに入っているチョコチップが思いの外少ないことに多少の憤りを覚えていて、話よりもクッキーの方に意識が向いていたが、男は気付いていないようであった。
「私はどうにか彼を説得して、山を登って村に行きました。彼は片足しか使えなかったので骨が折れましたけどね、まあ何とかなりましたよ。この山自体はいくつか分かれ道がありますけど、ところどころに立っている看板に従っていけば迷うことはありません。ここから山頂を目指して登っていくと、また先ほどのように分かれ道に行き着いて、そこを右に曲がるんです。するとすぐに見えてきますよ」
メルクは最後のクッキーを丸呑みするように食べ、このクッキーの評価をする段階に移行していた。生菓子よりも作りやすい焼き菓子とはいえ、焼くのにも技術は必要だ。これは少々焼き過ぎているきらいがあり、十分美味しく味わえるものの、香りが単調で食感もざくざくを通り越してがりがりになっているものもあったが、リーズナブルな価格を考えるとそこを追求するのは酷なのである程度は目を瞑る。しかし、チョコチップクッキーの主役ともいえるチョコチップをけちっているのはやはりいただけない。チョコ自体は甘くて苦みもほとんどなく、メルクの好みであったが、質と同じぐらい量も大事だ。チョコチップが外側に固まっているのは、客を騙すためなのではないかとすら思えて、どうしても納得がいかない。チョコチップなんて入っていれば入っているだけ幸せになれるに決まっているのだ。
「うーむ、ここは厳しく星一つの評価としておくか。新しいお店みたいだったから、将来性に期待しておこう」
「あのう、話聞いてますか? メルクさん」
男は怪訝そうにメルクの顔を見てくる。
「ええ、もちろん。続けてどうぞ」
しかしメルクはまったく動じることなく、むしろ先を促す。
「そうですか。では、それからですね」
男は釈然としない様子であったが、それでも続きを話すのだった。
木々の隙間から見える景色で、山頂近くまで上り詰めたことが分かる。
「さっきの話も大方違いはなかったね。複数人の話を聞いて立体的にとらえることが大事なんだよ。こういった調査の際は、出来るだけ多くの人間に話を聞くことが好ましいのさ」
メルクは得意げにヴァレンチノに語り掛ける。メルクは休憩所で男と遭遇したときには、すでに何人からも同じような話を聞いていた。
休憩を挟んでから再び一時間近く登っていくと、男の言っていたように山頂近くでまた道が二手に分かれていたが、どちらが村落に続いているのか、すぐに見分けることができた。そちらの道は本当に二人分ほどしか通れない幅であったが、そこに人がひしめいていたのだ。ハイキングクラブの団体なのかとも思ったが、それにしては顔色が悪くてケガをしている人も幾人か見受けられたので、おそらく彼らも例の祈祷師の元を訪れるつもりなのだろう。そしてそこに命にかかわるような症状の者がいないことも、会話が盛り上がっているところから分かった。
「どこにでも好奇心旺盛な野次馬はいるんだねえ。皆、僕を見習って謙虚になってほしいものだ。さあ、ヴァレンチノ」
メルクはすかさずヴァレンチノに期待の目を向けた。ヴァレンチノはあからさまに嫌そうに眉をひそめた。
「あんな死に損ない集団の後ろを歩いていたら、日が暮れてしまうよ」
ヴァレンチノはうなった。相当悩んでいるらしい。しかしやがてため息をつくとふてぶてしく足を折り曲げてかがんだ。
「まったく。ヴァレンチノは素直じゃないねえ。最初から大人しく僕の言うことを聞けばいいのに。飼われている生き物は飼い主に似てくるなんて言うけど、何もあの頑固な性格まで似なくても……って、うわっ。落ちる落ちる、嘘、冗談だって。ごめんごめん、謝っているから砂をかけないで。僕が悪かったから、別に彼女の悪口を言いたかったわけじゃないんだ」
ヴァレンチノが後ろ足で思い切り蹴り上げた砂をメルクはどうにか避けるが、その後もヴァレンチノは暴れ、メルクが足を滑らせて山の斜面を転げ落ちかけるまで続いた。
集落の入口と思しきところにメルクたちは行き着く。なぜそこが入口だと分かったかといえば、やはり立て看板があったからだ。
看板には村の名前が達筆に書かれている。何事も看板で示すのがしきたりなのか、その横に『人の心と自然の美しさに触れてください』などと書かれている。田舎特有の野暮ったさを感じながらも、メルクはつい笑みをこぼす。
さらに歩いていくと、そこには木々が折り重なって蔦が絡まった緑のアーチが待ち構えていた。枝や葉っぱの隙間からは木漏れ日が差し込んでいる。ヴァレンチノと共にその細部を眺めながらゆっくり進み、アーチをくぐり抜けた。
すると先ほどまでの狭い山道とは打って変わって、広く平坦に整備された地面が続いていた。
「なんだか村全体が隠れ家みたいだ」
メルクは物珍しげに村の中心部へ歩いていく。その道中で目にしたのはぽつんぽつんと建てられた民家と、その軒数と比べて明らかに多く行き交う人々。明らかに他所からやってきたであろう者たちがにぎやかにはしゃいでいる様子はさながら観光地のようであった。
メルクは試しに声をかけると、やはり祈祷師に祈ってもらうために来たそうだ。そこにいた中年の女性は「でも、あなた。ここは予約制なんですよ。人気だから事前に伺っておかないといけないの。私も先月やってきてわざわざお願いしたのですから」とどこか得意げに話してくる。
「つまり僕が今行ったとしても」
「ええ、治療を受けるのは当分先になるでしょうね」
「そうですか、それはとても残念ですね」
そこでメルクは口元に手を当てながら目を伏せ、いかにも深刻な悩みを抱えたアンニュイな表情をみせる。
中年の女性が物憂げな美青年に見惚れてしまうのは、古くからの世の理であろう。横ではヴァレンチノが冷めきった顔をしていたが、婦人はもはやメルクの顔しか見えていない。
「そんなに落ち込まないでくださいまし。いつになるかは分かリませんが、予約さえなさればきちんと祈ってもらえるはずですから。遠くからお越しになって戻れないとしても、その間は山の麓にある街に滞在していればいいわけですし」
「わざわざ教えてくださり、感謝いたします。ですが、それでは遅いのです」
メルクはやはり切羽詰まった様子で言う。
「あなたには僕が元気そうに見えるかもしれませんが」
「いえ、そんなことはありませんよ」
彼女は慌てて否定し、「思えば顔色も良くないみたいですし」と付け足す。メルクの顔色が悪いのは、クッキーをたんまり食べてすぐに山登りを再開したからであるが、もちろんそれを彼女が知る由はない。
「実を言うと、僕にはあまり時間が残されていないのです。かかっているお医者様からは、もう長くないと言われています」
「そうなんですか」
婦人は口に手を当てて驚いている。そこまでのことだとは思っていなかったようだ。もちろんメルク自身も思っていない。
「あなたの仰る通り、はるばる遠いところからやってきて、それこそ藁にもすがる思いでここまで来たのですが、ルールを破ってまで診てもらおうなどとはつゆほども思いません。これ以上誰かに迷惑をかけて生きていたくはありませんから。初めから分かっていたのです。ここにいる愛馬のヴァレンティーナとの旅もおそらく今回で最後のものとなると。だから僕はこの美しくて雄大な自然を目に焼き付け、骨をうずめる場所を探しに行くとしましょう。時間は残されていませんが、僕からも親切なあなた様の前途が良いものであるように祈らせていただきます。それでは」
メルクはこれまで多くの女性を射貫いてきた優しげながらも寂寥感のある笑みを浮かべて、立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください。私の代わりに診てもらいましょう」
「えっ、いいのですか」
メルクはわざとらしく思えるぐらい大きな声を出して驚きを示す。
「実は私の怪我は足の指を棚にぶつけて突き指してしまっただけで、ここへ来たのは奥様方の井戸端会議で自慢できると思ったからでして」
「本当ですか、やったー、優しい奥さんで良かった。あっ、祈祷師のいる場所まで案内してもらえますか。僕、ちょっとだけ方向音痴なので」
メルクは先ほどとは打って変わって無邪気な声をあげる。
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