3 入国

 翌日、個室の扉が叩かれる音でメルクは目を覚ました。

「うーん、あと五分」

 メルクは寝ぼけまなこで答える。しかし扉の叩く音はさらに大きくなる。

「ヒヒーン」

 聞こえてきたのは大きな鳴き声だった。さすがにメルクはむくりと起き上がった。

「ヴァレンチノ?」

 扉を開けると、そこには見慣れた白馬が立っていた。

「器用にもひとりで縄を外して馬小屋を出て行き、勝手に宿の中にまで入って来てしまったんですよ」

 宿主がすぐ横で疲れた顔をしていた。

「どうした、ヴァレンチノ。いつも優雅なキミらしくもないじゃないか」

「察しはつきますけどね。あんまりにかわいそうなんで、他の馬の分の昼飯をわけてやりましたよ」

「へっ、昼?」

 メルクは首を傾げる。

「そうですよ、お客さん。今はもう午後です。太陽が空の頂点まで上り詰めて、さらに傾き始めていますよ」

 メルクは納得した。つまるところ派手に寝坊したわけだ。おかげでヴァレンチノは朝食はおろか昼食にもありつくことができず、馬小屋に閉じ込められたままだったのだ。

 メルクは宿主にヴァレンチノの朝食代をひとまずラインから借りた銀貨で支払ってから、怒っているヴァレンチノをなだめすかしつつ、薄く粗い目の布をまとわせ、またメルク自身も麦わら帽子を目深に被る。この街は王都からさほど離れていないが、自然豊かなのどかな雰囲気で人通りも少ない。ヴァレンチノの美しい毛並みさえ隠し、通りすがる行商人のふりでもしておけば怪しまれない。

 そうしてあぜ道をのんびりと歩いていく。左には山、右には田畑が広がっており、草木は初々しい鮮やかな緑色をしている。メルクはその景色を十分に楽しみ、ようやく目的地に着いた。

「遅い」

 そこではアンヌが腰に両手を当てて待ち構えていた。

「お昼ご飯の前には来ると言っていたじゃない」

「天気が良くて、つい寝過ごしてしまったよ」

「気持ちは分からないでもないけど、もうお昼過ぎじゃない。私だって畑仕事もあるから暇じゃないのよ。トマトの収穫時期が近いの」

「ごめんごめん。お詫びにこれをあげるから許して」

 そう言ってメルクは背中に回していた手を前に出す。

「ちょっと少女趣味だったかな」

 メルクが持っていたのは白と黄色の花の冠であった。

「まだ春の残花があったんだ。綺麗だったから少しだけ摘ませてもらった。キミもこの辺りに住んでいるのだから作ったことがあるかな」

「丁寧に編み込まれているのね」

 アンヌは受け取った花冠の完成度の高さに驚いていた。白の小さなシロツメクサの花を黄色のタンポポの花を組み合わせているだけのさほど珍しいものではなかったが、それぞれの花の間隔がほとんどなくボリューミーに敷き詰められている。

「手先の器用さには自信があるんだ。それに、昔作ったことがあってね。宝石よりも花冠を喜ぶ奇特な人がいたのさ」

 そう言ってメルクは笑う。

「あなた」

 アンヌはメルクの顔を見て何か言いたげにした。

「まあいいわ。怪しまれないように早く行きましょう」

 メルクは彼女が何を言おうとしたのか気にはなったが、あまり悠長にもしていられないので、黙って彼女の後をついていく。

 二人は初めて出会った場所でもある山の中に入っていく。関所の役人に見つからないように一度国の外に出てから、今度は正式に関所を通って入るつもりだった。そうしないと街中で身分証明等を求められた際に困ったことになる。

 さすがに地元の人間だけあって、アンヌは舗装された道を外れてもスイスイ進んでいく。

「一番、安全に出られるのはここですかね」

 急な坂というよりもほとんど崖のような場所で立ち止まる。

「うわ、これを降りるのか。結構大変そうだね」

「むしろどうやって登ってきたのかと聞きたくなりますよ」

「それはヴァレンチノのおかげだね」

 メルクはヴァレンチノの首付近を軽く撫でてやる。ヴァレンチノは首を振ってその手を払う。

「もちろん後ろに乗らせてくれるよね」

 ヴァレンチノは何も言わずに崖を降りていく。器用に岩壁の突き出た部分を足掛かりにスピードが出ることも恐れずにどんどん下っていき、あっという間に下の地面に降り立つ。

 残されたメルクはため息をつくが、すぐに気を取り直してアンヌの方を向く。

「案内ありがとう。また正式に入国したら荷物を取りに行くから、そのときはよろしく頼むよ」

 大方の荷物はアンヌの自宅の離れに置いてきた。関所では武器や金品は取り上げられると聞いたからだ。

「無事に降りて帰って来られることを願っているわ」

 崖を見ながらアンヌは言う。

「大丈夫。こう見えて、城の最上階から地面まで城壁を伝って降りたこともあるくらいだからさ」

「城?」

 アンヌが疑問を投げかけた時には、すでにメルクの姿はなかった。メルクもヴァレンチノほどではないが、かなりのスピードで駆け下りていく。

「だ、大丈夫?」

「余裕余裕。楽勝さ、あっ」

 メルクはものの数秒のうちに足を滑らせる。アンヌは思わず悲鳴をあげそうになるが、万が一にも関所の方に聞こえてはまずいと思い、口に手を当てる。メルクは途中で木の枝に引っかかって事なきを得た。アンヌは胸を撫で下ろし、彼が下まで降りるのを見届けてから家に戻った。



 どうにか山を降り切ったメルクは、裾についた葉っぱや土を落としていた。ヴァレンチノは近くに生えていた木苺をむしゃむしゃと食べている。おそらく宿主のくれた餌だけでは足りなかったのだろう。メルクも試しに口に含んでみるが、それらはアンヌの家で食べたものよりも酸味が強く、さすがに地元の人はしっかりと見極められるのだなと感心させられた。

 一休みしたメルクたちはいよいよ関所に向かう。

 関所の前には長い槍を持って錆色の軍服を着た男が二人立っていた。ヴァレンチノを連れているので隠れて様子を窺うこともできず、メルクは正面から堂々と歩いていく。

「やあやあ、守衛さん方。お仕事ご苦労さん」

 メルクは右手をあげる。男たちはその美麗な顔立ちに気圧されたが、すぐに居住まいを正す。

「どこから来た?」

 片方の屈強そうな男が尋ねてくる。

「西の方から、としか言いようがありませんね。特定の住居は無く、転々としている旅人ですから」

「流浪人か」

 男は小馬鹿にするように口の端をあげた。

「この国には商売のために来ました。ですから行商人とも言えるかもしれません」

「何を売るつもりだ」

「装飾品の類でございます」

「ふん、とりあえず荷物検査を行う。持っているものは全て渡せ」

 メルクは素直にリュックサックを下ろして男に手渡すと、「ついてこい」と言われ、関所の脇にある小屋に入る。

「おい、なんだこれは」

 テーブルにリュックサックの中身が広げられるが、そこで片手では掴みきれないほどの数の宝石が出てきたため、男は愕然としていた。

「ええ、私は宝石を専門に取り扱っている行商人なのです。石は換金率が良いですし、通貨は国によっても異なるので現金を持っているよりも何かと便利でして」

「なるほど。そういうことでしたか、それは失礼いたしました」

 男は先ほどまでの不遜な態度から一転して急にかしこまる。その変わりようを見ても、メルクは全く表情を変えることはなかった。

「近年、至るところで鉱山採掘が盛んになっているとは聞きますが、貴方様もそういった事業を営んでいるのでしょうか」

「まあ、そんなところかな。もしやこの国にも採掘事業はあるのだろうか。ただ、こちらに鉱山があるというのはあまり聞いた覚えがないな。代わりに植物や果物は豊富に採れる土壌だとか。実は、食を楽しみにこの国へ来たものでね」

「ええ。おっしゃる通り、農作物などはとれますが、それ以外の資源は乏しいですね。ああ、でも一部の地域ではそんな話があったような」

「へえ」

「では、入国の目的は観光と商売でよろしいですね」

 男は書簡に記していく。

 そこでメルクは思案する。もう少し情報が欲しかったからだ。しかし向こうからそのきっかけを作ってくれた。

「どのぐらいの期間、滞在いたしますか」

「それはまだ分かりませんね。短ければ数日かもしれませんし、長ければ数十日かかります。商談というのは水物ですから」

「現在、我が国では出入国に制限が課されています。国事などの特別な用事でもない限り、一般の方の滞在期間は七日が上限となっております」

「それはまたどうして」

「説明はいたしかねます。規則ですから」

 それは明確で強い拒否であった。メルクはそこで鎌をかけることにした。

「もしかして、国王が代わられたことが関係しているのかな」

 男はメルクの言葉にびくりと反応し、そして警戒態勢をとった。

「どうしてそれを。かん口令が敷かれているというのに」

「情報は何よりも金になる。噂には聞いていたが、やはり本当のようだね」

「知っていたとなると話は変わってくる。いくら宝石商人とはいえ、このまま帰すわけにはいかない。身柄を確保して上に報告させてもらう」

 男の動きは早かった。腰につけていたサーベルを取り出してメルクの前にかざす。メルクは慌てず両手をあげて敵意のないことを示す。そこで男は外にいる衛兵を呼ぼうとする。

「ちょっと待ってくれないかな」

「何を待つ必要があるというのか」

「荷物検査をして、僕の武器になりそうなものはそこにある大きめのナイフ一本だけだということは分かったはずだ。ましてやキミのように日々鍛えているわけでもない。全く慌てる必要はないだろう。今からする話はキミにとっても悪い話じゃないどころか、一生でこれ以上にないチャンスだ。僕の話を聞いてくれるのであれば、キミはこんな辺境で番兵なんてしなくても悠々自適に暮らせるだろう」

「何の話だ」

「僕の見立てでは、この国の衛兵たちは身の振り方を悩んでいる。クーデターが起こり、国家は転覆され、圧政を敷いている暴君。他人を操ることのできる彼の力を皆恐れている。だけど、その恐ろしい能力に全ての人間がかかっているわけではない。キミだって直接的に操られているわけではないのだろう」

 男は黙っている。悪くない兆候だ。

「キミにも大事な人がいるのだろう。制服のポケットからはみ出たハンカチーフを見れば分かるさ」

 彼のハンカチには少し不恰好に名前の刺繍がされていた。おそらく恋人か妻が縫ってくれたものなのだろう。

「キミは今にも彼の力が自分や家族に及ぶのではないかと恐れている。だからそんなキミが大事な人を守れるように、ここはひとつ取引をしないか。僕が差し出すのは、ここにある宝石だ。たとえば、ここにある竜の赤い涙なんて呼ばれるルビーなんかは、これ一つでレンガ造りの大きな家と十分な広さの畑が買える。この国にいては今後どうなるか分からない以上、外に出て行ってしまうのも手じゃないか。ほとぼりが冷めたら戻ってくればいいし、冷めなければ別の安住の地を見つければいい。暮らしていけるだけのお金はそれを売れば作れる。出入国が厳しいというのなら、僕が手引きしてあげてもいい」

 男の目が泳ぎ、メルクを抑える力を緩めた。もう落ちたも同然だ。

「おまえの目的はなんだ」

「情報が欲しいのさ。さっきも言っただろう、情報は何よりも金になる。キミが知っていることだけで良いんだ。大丈夫、心配することは何も無い。キミが話したなんて触れ回りはしない。そんなことをしても僕にとっては何の得にもならないからね」

 男はしばらく葛藤していた。だがメルクは焦ることもなく待った。気が向けば余興の一つぐらい見せてやっても良いと思ったぐらいだ。

 まもなく男は、ついに決心してサーベルを降ろした。

「何を話せば良い」

「この国の状況さ。もちろん知っている範囲で構わない」

 男は咳ばらいをしてから口を開く。

「クーデターが起きたのは二十日ほど前です。今の国王様は元々は過去の戦争で名をはせたこともある軍人でした。しかし近年は勤務態度が悪くてクビになり、それからは日中も酒を飲んで四六時中酔っ払っているような生活を送っていたようです。ところがひと月ほど前、唐突にどこかに姿を消したかと思えばまたふらりと帰ってきて、その足で城に向かい、前国王のことを人質にとりながら憲兵たちも例の力で抑え込み、そのまま王座に君臨なされた。そのような次第だと聞いています」

 男も今の国王に対して良い感情を抱いていないのは確かだが、それでも敬称を省いたりはしない。それは怖れからでもあるだろうが、誰かに聞かれたときに少しでも言い訳ができるようにしているのだろう。

「今の国王は一人でこの国を治めているのかい」

「ええ。正直に言いまして、国王になるまでも人望があったとはいえませんから、彼に進んで協力する者はいません。ですが彼の力は強大です。あれは魔法といっても差し支えないでしょう。特に十人の従者たちには強い魔法がかけられているようで、ずっと全ての行動を制限されています」

「ずっと?」

 メルクは眉をひそめる。

「ええ。噂によれば朝起きてから夜寝るまで、いえ、寝ている間もらしいです。彼らは憲兵の中でも階級は様々ですが、今は国王直属の部下として完全に傀儡と化しています。階級的には一様に上位になったようですが、羨ましくはありませんね」

「直属の家来たちに何か法則性はないのかな」

「おそらくは手当たり次第でしょう。王の暴走を止めようと飛び出した人から次々と操られて、同士討ちをさせられました。強いて言えば彼らはとりわけ勇敢な人たちだったのですから、後続の人間を断ち切るという意味では効果的だったと思います」

「そのときの様子をもう少し詳しく説明してくれ」

 男の説明は次のようなものであった。

 国では毎年行われる大規模な報告会があり、それは国の重鎮たちも参加するものなので、関所の見張りが非番であった彼も警備を固めるために招集されていた。

 それは報告会の始めにある国王によるスピーチのときに起こった。突然広間に入ってきた飲んだくれの男が、悠々と国王の前まで歩いていく。当然憲兵たちは止めようとするが、男が軽く手をかざしただけで彼らは地面に這いつくばった。そして次に出てきた憲兵たちが、男の従者となって男が歩く道をこじ開けさせられた。それから国王の前まで行くと、今度は国王自らの手で自身の首を絞めさせた。

「いいか、少しでも動いてみろ。このまま国王の首をへし折ってやるぞ。今日から俺が王様だ。ひれ伏せ、愚民ども」

 男は相変わらず酒気の帯びた息を吐いていたが、それでも自在に能力を操るのでまるで隙が無く、瞬く間にクーデターを完遂した。それから独裁政権が始動し、手始めに各地方から上納金を回収しているという。

 しかしここまで聞いた話は、まだラインたちから聞いたものと大差がない。そこでメルクはもう少し押してみることにする。

「悪いけど、それらはどれも知っていることだ。それしか情報がないのであれば、宝石を渡すわけにはいかない」

「約束が違うじゃないか」

 彼は喚き、再びサーベルを取り出そうとしたが、その前にメルクがその腕を掴む。

「ここで騒ぎを起こせば僕は困るけど、キミだって何の利益にもならないだろう。しかし僕に従ってくれれば、キミは確実に利益を得ることができる。理性で判断するんだ」

「しかし、これ以上は何も知らないぞ。私は一端の衛兵に過ぎないのだから」

 しかしメルクは首を横に振る。

「どんな些細なことでもいい。きっとあるはずだ。例えば、その男がクーデターを起こす前、何か変わったことが起こったりしてないかい」

「そんなもの、あっても知りようがありませんよ。普段は関所に通い詰めていただけで王都の方に出向くこともないですし。あっ、でもそういえば、事件の起こる一ヶ月前ぐらいに、あの男がこちらの方まで足を運んでいるのは見かけたな」

「ほう。それで」

 メルクは興味を持った様子で続きを促す。

「とはいっても、そこまで珍しいことではないんですけどね。あの人、酔っ払うとふらふらとどこかへ歩いてくんですよ。ただ、ここが王都から近いとはいえ、この辺まで来るのは珍しかったかなと」

「そのときもやっぱり酔っていたんだよね」

「ええ。ちょうど勤務を終えたときに見ました。同僚と一緒に戻っていたところですが、いつものように叫んでいましたよ」

「何を叫んでいたんだい」

「いつも通り、くだらないものです。軍人時代の功績を自慢気に吹聴しているんですよ。それで、通行人やモノに向かっておまえらは何も分かっていないだとかなんとか。それでもいつもよりはいくらか呂律が回っていた気がしましたけど」

「なるほど。その他には?」

「もうありませんよ。なんだかウンザリしてきましたよ。いくら家族のためとはいえ」

「そうですね。僕も男と二人きりでいつまでもお喋りをしている趣味はありませんから、お暇させていただくことにしましょう。では、約束通り、差し上げますよ」

 メルクはルビーを指で弾き飛ばした。男は両手でそれを落とさないように受けとる。

「そしてこれは、僕なりの感謝の気持ちです。ご覧の通り僕は根っからの善人ですから、平時であれば人を脅すようなことはしないのですよ」

 先ほどまでの脅し慣れた様子からは微塵も納得できる言葉ではなかったが、男はメルクが手渡してきた鮮やかな水色の石に意識を向ける。

「ターコイズです。邪悪なエネルギーから持ち主を守り、勇気を与え、幸福をもたらすと言われています。あなたの大切な人にあげてください」

「いいんですか」

「だから、滞在期間は少し三日ぐらい誤魔化してほしいんだけど」

 メルクは気持ちと言いながらも、さらに要求する。

「いえ、さすがにそれは」

「冗談さ。キミは仕事を全うし、有益な情報を提供してくれた。それで十分さ。そうでなくとも、早くこの国を去るに越したことは無い。早くしないとすべてが手遅れになるかもしれないのだから」

「手遅れになる?」

「ああ。じゃあもう二度とは会わないだろうけど、あなたに幸せが雪崩のように降ってくることを祈っているよ」

 メルクはさっさと荷物をしまって外に出ると、ヴァレンチノをつれて関所を通り抜けていった。

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