2 計画
「本当に美味しいですね、奥さんの料理」
ライ麦の食パンにイチゴをすりつぶして作ったジャムを塗りたくりながら、自らをメルクと名乗った青年は満面の笑みを浮かべていた。
「それならよかったわ。おかわりはいるかしら」
「はい、是非お願いいたします。ああ、僕は今幸福感に全身を包まれています。素敵な奥さんと娘さんと共に美味しいご飯を頂けるなんて、これ以上の幸せはあるのでしょうか」
メルクは芝居がかった口調で話す。
「ふふっ、そこまで喜んでくれると私も嬉しいわ。誰もそんなこと言ってくれないから」
アンヌの母親も美青年に褒められて年甲斐もなくはしゃいでいる。
アンヌが家まで連れてきた後、彼は兄の使っていたベッドで寝かせて休んでいた。この家はレンガ造りの平屋であるが、玄関から距離もないところに食卓と調理場のつながった十人ほどは入れる大部屋があり、さらに奥にも個室がいくつかある。だから青年一人を連れ込んでも全く困らない。
それから母親が夕食を作っているとその匂いに気付いたらしく、彼は派手な寝ぐせをつけたまま部屋から出てきた。その様子があまりに自然なものに見え、そこが初めから彼の部屋であったかのような錯覚さえ覚えかけたほどだった。
「それにしても、よく食べるんですね」
またアンヌはメルクの全く遠慮のない食べっぷりに困惑していた。ライ麦の食パンはすでに二斤半ほどは食べ、ジャガイモのスープはこれで六杯目、先ほど取ってきたカゴいっぱいのミズナを使ったサラダも大皿を丸々平らげてしまった。
「ええ、四日ほどは何も食べていませんでしたからね。さすがにお腹がペコペコでした」
メルクはまだ飽き足りないのか口にパンを詰め込み、スープで流し込んでから答える。
「それにしてもあんなところで何をしていたんですか。外から来たみたいだけど、入国審査は受けてないみたいですし」
アンヌは先ほどからひたすら母親を褒めながら家の食料を貪っている青年を警戒していた。飢えていたとはいえ、山の中に潜んでいたのだ。良からぬことを企んでいた可能性だって十分にある。
「実は僕が気づいたときにはすでに山の中にいてね。関所を通らなかったのはヴァレンチノの判断だろう」
「ヴァレンチノ?」
「あんなに美しい馬は初めて見たわ」
アンヌの疑問に答えるように母親が言う。家の外にある離れの小屋の前で桶に入った水を飲んでいる白馬はどうやらヴァレンチノというらしい。普通なら逃げないように縄で括り付けるが、メルクの申し出で馬をつながないでくれと言われたので外した。何かに縛られるのをとても嫌うらしく、たしかにアンヌが柱につないでおこうとしたときも嫌がっていた。
「ええ。彼は美しいだけでなく、賢くて機転もききます。まだ訳は聞いていませんが、わざわざ関所ではなく山の中に入ったのにも何か理由があるはずです。この話は食後にしようと思っていたのですが、奥さんと娘さん。何か心当たりはありませんか」
その質問にアンヌたちは食事の手を止める。その様子を見たメルクは少しだけ口角をあげた。
「やはり食後にしましょうか。せっかくの美味しい料理の味が台無しになってしまうのはいただけませんから」
メルクはこの話は一旦おしまいというように両手を軽く叩いてから、またパンを口に放り込んだ。
片付いた食卓の前に再び腰かけたときには、外はすっかり暗くなっていた。本来であれば客人であるメルクは一食の礼と共に立ち去ってもおかしくなかったが、彼は食後も片づけこそ手伝ってくれたものの、帰ろうとはしなかった。
「女性しかいないお宅に、いつまでも居座っていて申し訳ないと思います。ですが、私としてはあなた方の抱えている問題を聞くまでは立ち去るわけにはいきません。どこの馬の骨とも知らない男を信用するのは難しいかもしれませんが、ここで聞いた話は決して口外いたしません。僕は根無し草の旅人であり、用が済めばこの国を立ち去ります」
彼は自分のことを、旅人、もしくは宝石商と称し、リュックサックから赤色にきらめくルビーを一つ取り出し、これを売って生計を立てているのだとすでに話していた。
「用?」
アンヌが聞き返す。
「ええ、かなり高い確率であなた方の悩みとも関係していることだと思います。先ほど僕が寝かせていただいていた部屋の主も、もう長いこと帰ってきていないようですし」
メルクは自分が寝ていた部屋の方を見ながら言う。
「どうしてお兄ちゃんが帰ってきていないことが分かったの。ちゃんと掃除も行き届いているのに」
「先ほど目を覚ました時に部屋の中を漁って、いえ、観察させていただきましたが、掃除は行き届いているのにそこで生活をしている気配がまるで感じられませんでした。例えば、クローゼットの中には服がほとんど入っていなかったですし」
「開けたんですか」
「いえ。起きたときによろけてしまい、うっかり手がぶつかった拍子に開いてしまったのです」
メルクはあくまでもにこやかに答える。アンヌにはそれが余計に胡散臭く思えた。
「それにあなた方は先ほど僕と一緒に夕食を召し上がっていました。特別遅く帰ってくるのであれば先に食べてしまうかもしれませんが、普通は家族全員で団欒の一時を過ごすものではありませんか」
その一言が母親の心をえぐったのだろう。元々喜怒哀楽に富んだ人であったが、目を潤ませたかと思うと本格的に泣き出してしまった。
「どうしてこんなことに、テーネ」
アンヌは母親の背中をさすりながらメルクに白い眼を向ける。
「ああ、すいません。ちょっと不用意な発言でしたね」
メルクは本当に反省しているようで、先ほどまでの飄々とした雰囲気はなく、むしろひどく取り乱していた。
「いいのよ、別に。あなたが悪いわけではないのだから」
母親が気を遣って言うが、それがますます彼をいたたまれなくさせている。
丁度そのとき、玄関の扉がノックされる音がした。
「女性が泣かれているような声が聞こえてきましたけど、どうかされましたか」
メルクのものよりもずっと低い男性の声だった。
「ああ、ラインさん。ちょっと待ってください。大丈夫ですから」
「誰か来ているのか」
しかしラインと呼ばれた男の声は一層険しくなった。
「いえ、そういうのではないですから」
そこでようやく玄関にたどり着いたアンヌが扉を開けた。すると黒い短髪の精悍な顔つきをした男が飛び込んでくる。そして目を腫らしたアンヌの母親とメルクを見比べ、顔を歪めた。
「おい貴様、何をした。そもそも何者だ、憲兵には見えないがまさか、王の関係者か」
「ん? ああ、良く分かったね」
メルクは平然と答える。
「まさか本当にそうだとはな。外で明らかに育ちの良さそうな馬を見かけたが、そういうことだったのか。彼女たちを脅して計画について吐かせたというのならば、このまま帰すわけにはいかないぞ」
「ちょ、ちょっと」
彼の様子にアンヌは焦る。
「覚悟しろ、俺は腐り切った権力には屈しない。必ず俺たちの手で取り戻すんだ」
ラインは脇に差してあった小刀を抜いてメルクに向ける。
「おやおや、これは物騒だね」
しかしメルクは特に弁明することもなく余裕の表情を浮かべている。このままでは本当にこの場で血が流れかねない。
「違うの、ライン君。私は脅されて泣いていたわけじゃないわ。この方はただの旅人よ」
そこでようやく母親が否定する。
「旅人だと」
ラインが眉をひそめた。
「本当さ。君たちが何かしでかそうとしているのは知っているけど」
「なっ、貴様。それをどこで」
「いや、今自分でばらしちゃったじゃない」
アンヌも思わず口を挟む。
「だがしかし、こいつがただの旅人とはいえ我々の計画を知ってしまった以上は」
「協力するよ」
「なんだと」
メルクの言葉にラインは眉をひそめた。
「こう見えて戦力にはなると思うよ。ただその前に聞かせてほしいんだ、この国でいったい何が起きているのか。僕はただ導かれてやってきただけで、事情は本当に何も知らないんだ」
「本当に敵じゃないのか」
ラインはまだ納得できない様子だ。
「私もこの人のことを完全には信用していないけど、もし国王側の人だったら山中で餓死しそうになってはいないと思う」
アンヌの言葉でひとまずその場は収まった。
「まずアンタは何者なんだ。そしてどこからやって来た」
一人加わって四人となった食卓で話し合いは行われている。ラインはいまだに眉をひそめ、不審者を見る目でメルクのことを眺めていた。
「ただのしがない旅人だよ。気軽にメルクと呼んでくれていい」
ラインの求めている答えとは微妙にずれた返答をする。
「では、外にいた馬もお前のものか」
「ああ、ヴァレンチノっていうんだ」
「名前を聞いているわけではない。あんな立派な馬を旅人が持っているものなのかと聞いているんだ」
「ヴァレンチノはすごく生意気だけど、利口だ。関所を通らなかったのにもわけがあるのだろう」
要領を得ない彼の言い分にラインは顔をしかめた。どうやらラインもこの青年が面倒なたちであることを理解したようだ。
「アンタの言うことがもし本当だとするならば、確かにあの馬は賢いな。今、関所では入国者に対して、徹底的な検閲が行われている。書簡や武器、金品などはほとんど没収されてしまうだろう」
「なるほど、さすがはヴァレンチノだ。あとで身体を綺麗に拭いてあげないといけないね」
メルクは頷きながら言うと、「それにしても、一体どうしてそんなことになっているのかい」と本題に切れ込む。
そこでラインは苦々しげにうめいた。
「今、この国はあの忌々しい男によって乗っ取られている」
「あまりそういうことを言わない方が良いですよ。いつ誰が来るとも限りませんから」
アンヌは母親に水の入ったコップを渡してから、また席に着く。
「分かっているさ。だが、俺はどうしても許せねえんだ。しかもあんな卑劣な力を使いやがって」
「力と言ったかい」
メルクの声は今までのものとは少しトーンが違っていた。アンヌやラインも当然それに気づく。
「なんだ、何か知っているのか」
「どんな力なんだい」
メルクはラインの言葉を無視して尋ねる。
「こっちの質問にはろくに答えねえのな。まあ、いい。ゲンズの野郎はな、人を操ることができるんだ。俺もこの目で見た。その力を使っているところな」
「どうやって使っているんだい」
メルクはさらに質問を重ねる。
「それが分からない」
ラインは厳しい顔で言う。
「何らかの条件や制限はあるはずだ。そうじゃなかったらとっくに国民全員が操られているだろう。しかしその法則がよく分からない」
「対象人数や範囲はどのぐらいなのかな」
「範囲は不明確だが、直接操れるのはおそらく二、三十人ほどだと思う」
「へえ。それは中々だね」
「クーデターの時には、国王の他にも勇敢に立ち向かった憲兵たちは皆操られ、仲間同士で戦わされた。すぐに降参したから誰も死なずに済んだが、負傷者は出た。それが」
そこでラインは言葉を止めて、ようやく落ち着いてきたアンヌの母親の方を見た。
「なるほどね」
メルクは目を細め、うっすらと笑みを浮かべる。
「何がおかしいんだ」
ラインの顔の血管が浮き立つ。今にもメルクに掴みかかるのではないかとアンヌはハラハラする。しかしやはりメルクは意に留めない。
「いや、おかしくはないよ。ただ、どこの国でも似たことが起こると思っただけさ。不快に思ったのであれば謝ろう」
「ちっ、わけの分からん野郎だ」
ラインは吐き捨てて、椅子に腰掛け直す。
「それで」
メルクは一度テーブルにあった木のコップを口につけ、喉を潤してから何でもないことのように言った。
「君たちは革命を起こそうとしているわけだ」
場は静まりかえる。元々それほど騒がしくもしていなかったが、誰も喋らないと途端に静寂が訪れる。外も風の音一つしない。
「そこまでは言ってないが」
数秒経った後にラインが口を開いた。まだラインは彼を信じ切ってはいないのだろう。それを青年も察する。
「大丈夫、心配しないでもいい。計画のことはもちろん、この家の離れを武器庫にしていることだって黙っておくよ。あくまでも僕はただの旅人さ。基本的にその国のことはそこに住む人々が解決する問題だと思っているからね」
「離れの中は見せていないはずなのに、どうして知っているのよ」
アンヌはひどく驚いた様子でいう。
「それは単純な話だよ。さっきヴァレンチノを見に行ったとき、離れの裏手に重い物を引きずったような跡があった。この近辺は山や田畑が多いから人通りも少なく、役人なんかの目も届きにくい。それに話を聞くと、その割には王都からあまり離れていないらしいじゃないか。集めた物資を安全に保管しておくには適した場所といえる。これで僕がもし官吏なら、ここまで分かっていて未だに行動の一つも起こしていないのはおかしいだろう。どうかな、これでもまだ信用には足らないだろうか」
メルクは相変わらず何を考えているのか分からない笑みを浮かべている。
「信じられないな。アンタはとにかく胡散臭いんだよ、醸し出す雰囲気が」
「ひどいなあ。僕の人格を否定しているようなものじゃないか」
「それに、この国の人間じゃないのにどうして俺たちに協力しようとするんだ。アンタが言った通り、これは俺たちの問題だ。綿密に立てた計画はあらかた予定通り進んでいるだけに、ここで不確定要素を作りたくはない」
「まあ気持ちは分かるよ。実際、僕が突然キミたちに牙を剥く可能性も否定できないからね」
「どういう意味だよ」
ラインの声がまた厳しいものになる。
「国の内政については君たちの話だし、僕は口を出さない。しかし君たちが敵対視している王様のことは、キミたちだけの問題ではない。僕がこの国に来たのは、彼の力の源となっている魔石を回収するためだ。もしキミたちがそれを邪魔するならば、戦い合わなくてはいけなくなる」
急に真面目な顔をするメルクに、アンヌはドキリとさせられる。
「最近あの手の人智を超えた力を持つ者が現れているという噂は聞いたことがある。俺はは眉唾物だと思っていたが、目の前でアイツがやられたのを見たら、信じないわけにはいかないだろ」
ラインは忌々しいといわんばかりに首を振る。
「じゃあさ、もし僕にはそれを取り除く術を持っていると言ったらどうするかな」
メルクは大事なことをあっさりと切り出した。
「取り除く? そんなことができるのかよ」
ラインは目を見開く。アンヌも同様に驚いていた。
「ああ、僕のことはひとまず信用してもらえたようだし、僕も手の内を一部明かそうと思う。ただし、他言無用でお願いね」
「信用はしていない」
ラインは顔をしかめる。
「しかも一部しか明かさないのか」
「キミたちを不用意に巻き込まないためでもある。そこだけは容赦してほしい」
メルクは真剣な面持ちで言う。
「僕はこれを使ってその男から魔石を取り出す」
そしてそれを服の背中から取り出して、テーブルの上に置いた。
「あっ」
アンヌが声をあげる。それは彼女がすでに一度見ていたものであった。そして、そこで顔つきが変わったのは彼女だけではなかった。
「これで対象を撃ち抜くことによって、魔石を引っ張り出すことができる。つまりこの国で僕がやりたいことはただ一つ、これでその王様を撃ち抜く、それだけさ。それが終わったら僕は去る」
「拳銃、なのか」
ラインの顔は険しかった。
「形は拳銃に似ているけど、これで人は殺せない。撃ち抜かれた人間もせいぜい気絶するぐらいだ。一応、似た形の小型拳銃も持ち合わせてはいるけれど、もしかして拳銃は嫌いかい」
「俺は人殺しがしたいわけじゃないし、そういったものを人に向けることに強く抵抗を感じる。その引き鉄は命の重さを軽くしている」
彼はそう言い放つ。
「照準の精度はまだ高くないようだが、これからの時代の武器の主流となるのだろう。世間の流れには逆らえまい。だから、きっと俺は前時代的で遅れた野郎だ。お前みたいな先進的な人間とは違う。馬鹿だと思っただろう。否定はしない」
ラインは自虐的に話す。しかしメルクはそこで笑ったりはしなかった。
「否定なんかしないよ。時代に逆らわない方が何かと上手くいきやすい世の中で、時に逆行することになっても理想を信じ続ける人がいてもいい。そうすることで世界はバランスを取ることができるのさ」
唐突に大きなことを語りだすが、彼がいうと妙な説得力もあった。
「変な奴だな」
ラインはやはり顔をしかめて言った。
「おまえの目的は理解した。だが、革命において飛び道具は使わないつもりだ。だからおまえに援護は頼まない。この問題は俺たちでなんとかする。あの野郎をとっちめてからであれば、おまえに奴の身柄を渡してやってもいいかもしれないが」
「でもそれはなかなか難しいと思うな。その男の様子を見ないと何とも言えないけれど、状況によってはうかうかしていられない。あんまり時間がかかるようであれば、僕は手を出すよ」
「やってやるさ、計画はもう大詰めのところまで来ているんだ」
話はそこで終わりとなった。
すでに遅い時間だったが、さすがに女性二人だけの家に一晩過ごすわけにはいかず、メルクはラインの知り合いが経営している素宿に泊まることになった。
アンヌはその晩、妙に胸騒ぎがして寝付くのに時間がかかった。兄のことも、革命の成否も含めて不安の絶えないところに現れた謎の青年。悪人ではないようだが底が見えず、彼の目的についても気になった。アンヌはとにかく皆が無事にいられることを祈りながら眠りについた。
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