第拾陸章


「じゃあ、行って来るから」

「楽しんで来なさいね、新婚旅行」

「まだ気が早いって」


 櫻子に笑顔で見送られるが、馨子はやはり笑っているのに笑っていなかった。櫻子はそんな様子を気にして声をかけようとしたが、馨子が上を向く。視線を感じたのだ。


「行って来まーす!」


 家の窓から雷蔵が顔を出していた。櫻子の様に見送りはしなかったが、気になっていたらしい。あたふたした後、平静を装いながら声をかける。


「お、おう! 行って来い! 高明! 馨子を頼んだぞ!」

「判っている」


 櫻子は訊きたい事を聞けないまま、二人は手を振りながら背を向けた。


――今日は婚前旅行の日。


 高明と馨子は本條家の自動車に乗って両親に見送られながらその場を後にするのだった。

 自動車で送って貰うと言っても駅までだ。馨子が前回の様に二人だけの新婚旅行を過ごしたいと言ったので、高明もそれを尊重した。

 駅まで来ると運転手に別れを告げ、二人は時間通りに来た機関車に乗り込んだ。空いている席に適当に座り、向かい合う。


「あの場所に行きたいと言っていたな」


 高明は馨子の言葉を覚えていた。


「――はい」


 馨子は胸元を押さえる。その着物の中には高明から貰った小刀があった。


「あの村に行こう。父にも報告したい」

「――はい」


 馨子の笑顔にどこか違和感を覚える。

 だが着いて来てくれると言うし、何より馨子は父の事を受け入れてくれている。気のせいだと思う事にした。

 機関車に揺られながら沈黙が続く。これが二人の距離感だ。特に問題は無い。高明は元々寡黙な性格――だが馨子は何か思い悩んでいる様に見えなくもない。


「どうした?」

「え?」

「何か気になるのか?」

「いえ、何も……」


 これ以上話しかけても収穫は得られそうに無かった。


「そうか」


 高明は諦めてしまった。



 ***



 高明と馨子は、二人の故郷であるあの寒村に着いた。

 特に変わり映えしない風景にどこか救われる。


「行こう」

「はい」


 高明に促され、山に向かって歩き出す。

 決して少なくはない荷物は全て高明が請け負ってくれている。

 馨子が自分でも持つと言ったが聞き入れても貰えなかった。高明なりの優しさだと思うと複雑だ。

 二人並んで歩く。言葉も無く、唯高明の背を見詰めながら寒村の中を歩いて行く。昼時なので食事中の者が多いのか畑仕事をしている者はいなかった。自分達を認める者はいない。好都合と捉えるべきか――。

 景色が変わり、山の中へ足を踏み入れる。高明は父の住むあの滝まで行こうとしているのだろう。

 馨子は又胸元に手を当てる。


――鬼に有効な毒。


 変な汗が背中を流れて行く。


「馨子」

「は、はい」


 話しかけられて慌てて手を後ろへ回した。


「疲れていないか?」

「だ、大丈夫です」

「そうか」


 唯気にかけてくれただけだった。


――本当にこのままでいいのか?


 それしか方法は無いと解っていながら、気付けばそれ以外の方法を探している。

 下駄が木の葉を踏む音が二人分聞こえる。木々を見れば、青葉は黄色く染まり、所々葉が落ちて枝が剥き出しになっている。それでも麓の方は見えなかった。大分山奥までやって来た。木々の間から暖かな日差しが降り注ぐ。滝の音が聞こえてくる。高明の父の寝床も近いのだろう。


「高明さんは、私と結婚したら幸せになれると思いますか?」


 切り取られた小さな空を見上げながら、ふと、そんな疑問が口をついて出ていた。


「ああ」


 即答だった。

 高明の背中へ視線を戻す。


「忘れたのか?」


 何をだろう。


「求婚したのは、私だ」


 馨子の顔がうれいに染まる。


「私が馨子となら幸せになれると思ったから――馨子とでなければ、幸せになれないと思ったから求婚したのだ」


 足元に雫が落ちる。

 はなを啜る音が聞こえて高明は足を止め、振り返った。


――馨子が泣いていた。


「どうした?」


 鞄を置いて慌てて駆け寄り、馨子の両肩に手を置く。

 だが馨子は顔を上げない。


「御免なさい……」


 下を向いたまま呟く様な声が聞こえた。

 謝る様な事では無い――そう伝えようとした時、腹部に強烈な痛みが走った。

 馨子が一歩後ずさる、又一歩、又一歩と自分から遠ざかって行く――その表情は泣きながら引きつっていた。

 そして、その手には自分が渡したあの小刀があった。べっとりと血がついている。馨子の血では無さそうだ。一安心した。


――では、誰の?


 再び痛みが走り、腹部を見下げた――學生服の黒が一部濃く染まっている。

 痛みの原因はこれか。


「御免なさい、高明さん」


 馨子が自分を刺したのだと、やっと判った。だが理由は判らない。


「私も高明さんと一緒に幸せになりたかった。だけど、どうしても将来の事を考えてしまうの。高明さんに鬼の血が流れていると私の両親や高明さんのご家族に知られた時、私達はきっと一緒にはいられない――でも、私も高明さんがいないと、幸せになんてなれない」


 馨子の瞳から大粒の涙が溢れて止まらない。

 高明の体は暑くも無いのに滝の様に汗をかき、全身から力が抜けて膝を付く。痛みに顔を歪めながらも馨子から視線を逸らす事は出来無かった。視界が九十度傾く。土の臭いが鼻をつく。体は横たわったまま動かない。


「待ってくれ……馨子……」


 馨子は高明の血が付いたその小刀を自分の喉元に翳す。


「だから――」


 馨子――口は動くのに、音にならない。視界が霞む。


 駄目だ、死んでは、駄目だ――。


「高明さんを殺して、私も死にます」


 最後に高明の瞳に映ったのは、自死しようとする馨子。


 そして――。


 駄目だよ……止めて……僕は大丈夫だから、馨子を――言葉にならない思いをこれ程歯痒く思った事は無い。


 そこで、高明は意識を失った。





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