第拾伍章
数週間が経った休日、両家が再び顔を合わせる事になった。結婚の日取りを決める為だ。
高千穂家からすると本條邸は何度見ても圧倒される。
「こ、これが本條さんのお家……?」
初めて来た櫻子も度肝抜かれている様だった。
「そうだぞ! 凄いだろ!」
「貴方が自慢する事じゃないでしょ」
雷蔵がふんぞり返りながら言ってくるので呆れた。
そんな様子を馨子は微笑みながら見ていた。
「確かにこんなに綺麗な着物を送って下さるくらいだもの。財閥だって事も知っていたし……だからってここまでとは思って無かったわ」
櫻子は着物を前や後ろや両手を広げたりしながら、滅多に見れない自分の全身に見惚れていた。
辰男は婚約の記念にと高千穂家の三人に贈り物をしていた。それが今三人が身に纏っている着物だ。
馨子には太陽の様な暖かみのある橙色を基調とした着物、雷蔵には雷を連想させる黄色とその周りを空の様に囲う緑色の派手な着物、櫻子には名前から櫻を不断に散りばめられた桃色や白色を基調とした上品な着物が贈られていた。高千穂家からすれば到底手に入らない高級品で着るだけなのに勇気が必要だった。
文も一緒に添えられており、今日着てくるようにと書かれていた。唯の贈り物ではなく、顔合わせ用の着物だとも言える。
高千穂家の面々からしても、顔合わせに相応しい着物が無かったので丁度良かった。
それだけではない。運転手付きの自動車まで用意してくれていた。家を出た時、外に真っ赤な自動車が停まっているなと思っていたら、まさかの本條家からの迎えだったのだ。運転手が言うには、本條家の面々も皆今回の為に支度をしているそうで直接高明が来れないからと運転手付きで自動車を寄越したのだった。辰男の気遣いに感服した。
「さ、行くかぁ」
という雷蔵の声で、運転手が呼び鈴を鳴らす。
いつもの様に下女が出て来て、門を開けてくれた。
今回は自動車もあるので大きな門が初めて開いた所が見れた。折角なので三人とも目を煌めかせながら自動車が庭へ入って行く様子を見送った。その後門の隣の小さな扉から下女に続いて中へ入る。馨子と雷蔵は二度目だが、櫻子は初めてなので辺りを見回しながら終始圧倒されっぱなしだった。見入ってしまって足が止まった所を雷蔵に手を引かれて我に返る。少しだけ頬が染まった。
下女が玄関を開け、中に入る様に促してくる。下駄を脱いで案内されるまま本條邸を歩き、前回と同じ客間へ通された。本條家の人間はまだいない。座って待っている様に言われたので障子から向かって左側に、奥から雷蔵、馨子、櫻子、と馨子を真ん中にして座った。下女が様子を見て来ると客間を後にする。
口火を切ったのは雷蔵。
「はぁぁ! 緊張すんなぁ! 早く終わってくんねぇかなぁ!」
「煩いわよ、静かにして」
櫻子が雷蔵を睨みつけながら右手の人差し指を立て、口の前に持って行く。馨子は呆れていた。
「父さん前回も緊張してたよね」
「当たり前だろ。相手は財閥の当主で軍人の大将だぞ」
櫻子の言う事を聞いて小声になっている。
「確かに……今回ばかりは貴方の言う通りだわ。私も緊張してきた」
さっきまでは圧倒されるばかりだったが、漸く現実味を帯びてきたらしい。櫻子が心音を鎮める様に胸に手を当てる。
隣では平然としている馨子が雷蔵に話しかけていた。
「でも、前回仲良くなってたじゃない」
「あれから会ってねぇだろ」
「旧友に会う感じでいいんじゃないの? 父さんも子どもの頃は大将って呼ばれてたんでしょ?」
「莫迦言ってんじゃねぇ。俺はガキ大将だったの。本物と対等な訳ねぇだろ」
馨子がからかうと意外にも真面目な言葉が返って来て驚く。
櫻子は足音が近付いて来るのを聞いた。
「ちょっと。静かにしましょう。いらっしゃったみたいよ」
雷蔵の背筋が糸で引っ張り上げられたように真っ直ぐになる。変な汗が穴という穴から噴き出してきた。
馨子は平然としていたが櫻子は生唾を飲み込んだ。
下女が障子を開けると、辰男が笑顔で入って来る。
「これはこれは又お待たせしてしまって」
「いえいえいえいえいえ全然!!」
緊張から早口になり、忙しなく両手を左右に振った。笑顔を作りながら辰男が目の前に座るのを見届ける。
辰男の後に高明が入って来ると、少し遅れて前回はいなかった女性が別の下女に支えられながら入って来た。
辰男は軍服、高明は學生服、女性は洋服を身に纏っていた。
高明は馨子の前に座り、その女性は櫻子の前にそっと座った。
雷蔵は必死で取り繕いながら辰男と他愛無い話を続けているが、馨子は前回いなかったその女性が気になっていた。どこか見覚えがある気がする。誰なのか気になった。
「今回はお互い新顔がおりますな」
辰男は櫻子に気付き、視線を送った。櫻子は緊張しながらも一礼する。
「雷蔵の妻で、馨子の母の櫻子と申します。前回は顔を出せず、申し訳御座いません」
「いえ。聞いていますよ。よりを戻されたとか。お忙しい中来て下さったのでしょう。有り難う御座います」
辰男も櫻子の礼に答える様に頭を下げた。
高明から多少話を聞いてはいたがそれ以上は何も訊かなかった。野暮な事を訊く気も無かった。
「雷蔵殿の奥様もいらっしゃったという事で、うちの家内も紹介しましょう。
そう言うと、
青白い肌がその病弱さを漂わせていたが、それさえも儚く感じさせる美女だった。
「七重子と申します。本日はお越し頂き、有り難う御座います」
今にも消え入りそうな声で一言挨拶をする。
七重子――八重子と似ていると思った。
名前だけではない、見た目も八重子と似ているのだ。さっきから感じていた既視感はこれだった。
どういう事なのだろう?
助けを求める様に高明を見る。目が合った。
この母親には何か秘密があるのだろうか。それとも唯単に高明が自分に見惚れていただけか――それはさすがに
「びょ、病気は大丈夫なんすか?」
雷蔵が心配しながら訊く。
「ええ。今日は体調がいいので。高明のお相手の方を見てみたかったですし」
その視線は馨子へ向けられ、馨子は慌てて礼をする。
七重子の微笑む顔は少し痛々しく感じてしまう。無理に笑っているのではないだろうか、と思わせる。
「無理せず寝てないと……」
「大丈夫ですわ。医者にも了承を得ておりますので。ご心配無く」
「そ、そうですか……」
雷蔵は高明に視線を送る。高明は頭を左右に振った。病気に関して触れてはいけないらしい。雷蔵は七重子を心配しながらも口を噤んだ。
雷蔵と七重子のやり取りを不思議に思った櫻子が馨子に話しかける。周りに聞こえない様に口元に手を添えながら小声で。
「何? 奥様って何かあるの?」
「病弱らしいよ。前回はいなかったの」
「あら……大変ね……」
話し終わると、七重子の視線が櫻子へ向く。微笑まれて、櫻子も慌てて微笑んで返した。
「可愛らしいお嬢さんですね」
「あ、それは、どうも……素敵なご子息ですね」
「ええ、良く出来た子ですの」
二人の会話は謎に微笑み合いながら終わった。
「さて、今回は全員揃っているという事で、円滑に話を進められそうですな」
こうして高千穂家と本條家の顔合わせ兼結婚の日取りを決める場が始まった。
***
「いやぁ、まさかうちの馨子が財閥のお坊ちゃんに見初められるとは思いもしませんでした!」
馨子と櫻子はすっかり出来上がった雷蔵を白い目で見ていた。
「いやいや、馨子さんはとても素敵なお嬢さんですよ!」
高明と七重子もどこか居心地が悪そうだった。
雷蔵と辰男はすっかり酒に酔っていた。お互い子どもの結婚が嬉しかったのだろう。盛り上がっている内に酒が進みに進み、現在に至る。
馨子と櫻子は何度か雷蔵を止めたが聞かず。高明も七重子も辰男を諫めたが聞かず。取り返しのつかない所まで来てしまった。円滑に進みそうだった雰囲気はどこへやら。
櫻子と七重子の視線が合う。
「申し訳御座いません、うちの旦那が……」
「いいえ。こちらこそ。主人が迷惑をおかけしてしまって……」
「いえいえ、そんな」
「いえいえ……」
母親達はお互いに謝り始めると、こっちはこっちで止まらなくなった。
両隣はもう収集がつかない。
馨子は高明に視線を向けると目が合う。さすがに二人同時に溜息を吐いた。
今日は結婚の日取りを決めるのでは無かったのか。本題を忘れて四人は何をしているのか。
そこへ廊下から足音が聞こえて来た。下女が次の酒を持って来るのを察した七重子は高明に一言耳打ちする。それを訊くと高明は立ち上がって障子に向かい、常に待機している下女に開ける様に命ずる。下女は静かに障子を開けた。
「どうした、高明」
辰男が話しかけて来るのは予想済みだ。「直ぐ戻ります」と一言残して障子の向こうへ消えて行った。
馨子も心配そうに見守った後七重子の視線に気付き、そちらを向く。
七重子に手招きされて馨子と櫻子は顔を寄せた。七重子は小声で雷蔵と辰男に聞かれない様に話す。
「もう酒は持って来ない様にと高明を通じて使用人に伝えました。これ以上悪化する事はありません」
それで高明は席を外したのかと二人共納得したと同時に安堵した――と視線を向けた先、二人は机に突っ伏しながら
「手遅れだったかもしれませんね」
三人は呆れながら溜息を吐いた。
だがその顔を見ながら七重子が微笑む。
「あんな顔初めて見ました」
その言葉に馨子と櫻子も二人を見る。幸せそうな寝顔だった。
「きっと高明と馨子さんの結婚が嬉しいのでしょうね」
櫻子はそれを聞いて首を横に振った。
「それだけでは無いと思いますよ」
「え?」
七重子が小首を傾げると、髪の毛がさらさらと落ちていく。
「貴女がいるからですよ、七重子さん」
「私が……?」
櫻子の笑顔に七重子は頬を染めた。
「今日が初対面なのでよく知りませんが、ご病気との事で……」
「ええ……まぁ……」
七重子は口籠る。さすがにこの場で癌だとは言えない。この目出度い空気を壊す訳にはいかないから。
本来ならば、病院で大人しくしているべきだったのだ。だがどうしても高明の婚約者である馨子を一目見たかった――死ぬ前に、一目見たかった。
辰男も医者も詳しい事は話してくれないが、自分の体の事は自分がよく判っている。もう長く無いだろう。だからこそ後悔を残したくない。我儘を言ってここに来たのも死ぬまでの準備の様なものだった。
「きっと、ここに貴女がいる事が本條さんは嬉しいのではないでしょうか」
七重子は辰男の寝顔へ視線を向ける。普段は病気の事で迷惑をかけてばかりなのに、それでも自分を愛してくれている。自然と顔が綻んだ。
「父さんもだと思うよ」
「え?」
今度口を挟んだのは馨子。
「母さんがいるから、父さんも羽目を外したんじゃない?」
「私は最近ずっと一緒にいるじゃないの」
「でも、ここに来たのは初めてでしょ?」
「まぁ……」
「自分の妻を自慢出来て嬉しかったんじゃないかな」
櫻子も頬を染めた。それから馨子の背を軽く叩きながら「馨子の結婚が嬉しかっただけよ」と誤魔化す様に咳払いをした。馨子も頬を染める。
高明が使用人に酒を持ってこない様言い付け、戻って来る。下女が障子を開けて高明が見たのは――寝ている父親達と顔を染めている女性陣だった。
「――どうした?」
***
「え? 七重子さんもあの村出身なんですか?」
「ええ、そうなんです」
父親二人が寝入ってから一時間が経過しようとしていた。だがそんな二人には触れず、今度は母親二人が盛り上がっていた。
どうやら七重子も同郷らしい。この前馨子と高明が行ったあの寒村だ。
「私の家は八人兄弟で賑やかだったんですよ」
「それはいいですね」
七重子の家は兄弟姉妹が多かったらしい。
「ですが、恐ろしい村でもありました……」
七重子がその端正な顔を僅かに歪めながら話を変える。
「山には鬼が住んでいるとの噂でしたし、神隠しも多くある場所で……」
「そうですね……うちの馨子も一度神隠しにあった事があって……」
「まぁ……ご無事で何よりです」
馨子に同情の視線を向ける。だが微笑んで返した。馨子の場合は高明と八重子と共に二日間過ごしただけなのだから。
――だが、益々信憑性が増した。
馨子は視線を高明へ向ける――知っているのだろうか。
珍しく視線が合う事は無く、高明は茶を啜っていた。
馨子の思い違いだろうか……。
だが、湯呑みを置いた高明が馨子の瞳を捉える。小さく頷いた様に見えた――やはり、そうなのか。
「私にも妹がいたのです――八重子といって、私と同じく病気がちな子だったのですが、そんな事を感じさせない程に明るく、周りすらも巻き込んで笑顔にする様な子でした。ですが、神隠しにあい、そのまま……」
「そうですか……お気の毒に……」
「ええ……」
確信した――七重子は八重子の姉。道理で似ている訳だ。
だが、七重子は明るい声音に変わり、続きを話す。
「でも、悪い事ばかりでは無いのです」
そう言いながら、辰男の寝顔へ視線を向けた。
「あの人と出会ったのも、あの村ですから」
確かに辰男はよくあの村に行っている。
「旦那さんは何故あの村に?」
「鬼を殲滅する為です」
馨子に衝撃が走った――高明の父が思い起こされたから。
「昔からあの村の山には鬼が住み着いていると言われているのですが、目撃情報は多数あるにも関わらず中々その鬼を見つける事が出来無いそうで……先代の大将から受け継ぎ、何十年と探し続けている様なのです」
見付からないのは八重子が匿っていたからだろう――あの家で。
それに、あの滝の裏の寝床なら見付かる事は無い。誰かが教えない限りは。八重子も教えなかった。高明も勿論。馨子だって言うつもりは無い。辰男には悪いが今は高明の実父の味方だ。
――兎にも角にも、七重子が何者なのか、その謎は解けた。
***
いつまでも二人を寝かせている訳にはいかないので、高明と馨子で辰男と雷蔵を揺り起こす。
「お父様、結婚の日取りがまだ決まっておりません」
「父さん! いい加減起きてよ!」
起こし方が正反対で、櫻子と七重子は顔を見合わせて噴き出した。
「もう! 水でもかけてやらないと起きないんじゃない?」
馨子はそう言ってからお茶を手に取る。まだ暖かい――というか熱い。何せ先程おかわりしたばかりだ。
さすがにまずいと、櫻子が手を伸ばした――が、遅かった。
バシャッ!
「――あっちぃ!! あっつ!! 何だぁ!? あっつ!! 顔!! 顔!! 死ぬ!!」
「死なないわよ、これくらいで」
櫻子は手で目元を隠す様に額へ持って行った。
「馨子さん、見た目に寄らず――」
「そうなんです……お恥ずかしながら私に似てしまって……」
七重子は目をぱちくりさせながら、口元へ手を持って行き、言葉を中断した。櫻子からすれば自分を見ている様で恥ずかしかった。
暫くすると、茶が冷めて来たのか雷蔵が冷静さを取り戻す。
「な、何が起こった?」
「いい加減目が覚めた?」
「目が覚めるぅ?」
雷蔵は記憶を辿るが思い出せない。確か酒を持って来て貰って、いい気分になって――所で娘は何を持っている? 湯呑み?
察した。馨子へ指を差しながら叫ぶ。
「おい! 馨子! もしかして、茶をかけたのか!?」
「父さんがいつまでも寝てるからでしょ」
「だからってそんなもんぶっかけるな!」
着物で顔を拭おうと思ったが、これは辰男から貰ったものだと思い出して止め、掌で顔の茶を拭ってから娘を叱咤する。
馨子は満面の笑みで櫻子に向き直り、「父さん起きたよ」と嬉しそうに報告した。
「ったく、年々似てきやがるな……」
様子を見ていた下女が急いで手拭いを持って来て雷蔵に手渡した。雷蔵は礼を言ってからそれを受け取り、顔を拭いていると、辰男も寝ている事に気付く。つい先程まで自分もこんな顔をしながら寝ていたのかと思うと馨子の気持ちも判らないでは無かった。手拭いで粗方拭き終えると、辰男に手を伸ばす。
「本條さん! 本! 條! さん!」
バシバシと肩を叩くと辰男も声を漏らしながら目を覚ました。
「あれ……」
「本條さん寝てましたよ」
「あ、ああ……これは、高千穂さん……」
体を起こすと目元を擦りながら顔を上げた。
そして、気付く。
「何か濡れてませんか?」
「――顔を洗っただけです」
雷蔵は誤魔化し、馨子も素知らぬふり。
高明はそんな馨子を見て、将来自分も雷蔵の様に起こされるのかと思うと姿勢を正していた。
「兎に角結婚の日取りを決めましょう」
「そうですね」
冷静に七重子が言って、櫻子も同意する。
「そうだったそうだった。つい羽目を外してしまった……申し訳無い、高千穂さんも皆も」
「いやいや、俺も一緒になって騒いじまったから……済みません」
二人してお互いに頭を下げた後、四人にも頭を下げる。
「日も傾いて来ましたな……早く決めましょう。おい、これを下げてくれ」
辰男は元の自分を取り戻し、下女に向かって酒瓶を下げる様に命ずる。下女は手際良く酒瓶をお盆の上に乗せ、台拭きで机の上を拭くと、直ぐに一礼して部屋を出て行った。今度は別の下女が現れ、障子の前に座る。常に下女が待機する様に統率が取られていた。
「さて、いつがいいでしょうな」
「こっちはいつでも構わねぇ――です。本條さんにお任せします」
辰男に問われて雷蔵が答える。
やっと本題に入ると、その場の空気も一変した。
いよいよ、結婚するのか――と、馨子と高明も実感が沸いて来た。
「では、全てこちらに任せて頂くと言う事で宜しいですか?」
「はい! 宜しくお願いします!」
「承知致しました。おい、予定を教えてくれ」
下女が近寄り、本の様な物を渡す。そこには辰男の予定が書き込まれてあった。
「そうですなぁ。式の準備もありますから、一年弱は欲しいですな」
「そ、そんなに時間かかりましたかね?」
雷蔵と櫻子も結婚式を挙げているが、簡易的なもので済ましたのでそこまで時間はかからなかった。精々三ヶ月程度だった筈だ。
「そりゃあもう……まぁ、場所はここでやるとして、式用の着物を仕立てなければなりませんし、色々と……」
「そうですか……」
辰男は考え事をしながらも雷蔵の問いに答える。
「こりゃあ、大層な式になりそうだなぁ」
雷蔵は馨子に耳打ちした。
「そうだね」
その隣で櫻子が洟を啜る。
「どうしたの?」
「いや……馨子が結婚するのかと思うと……」
「早いって。式で泣いてよ、母さん」
「そうなんだけど……」
そんな櫻子に下女が手拭いを差し出す。それを受け取ってから礼を言い、目元を押さえた。
「では、一年後という事で」
「はい、判りました!」
結婚式の日取りは呆気無く決まり、和やかな空気に包まれる中、馨子だけはどこか浮かない顔をしていた――。
***
その夜。
高明が眠っていると人の気配を感じて目を覚ました。
「目が覚めちゃったのね」
傍らに寄り添っていたのは――花江。
高明は上体を起こし、布団から出て正座する。
「こんな時間に何かご用でしょうか」
高明は毅然とした態度で接する。
「こんな時間だからよ。夜這いに来たの」
「お戯れはお止めください」
「本気よ」
花江が洋服をずらすと、白い肩が露わになる。
高明は目を逸らした。その態度に花江は憤りを覚える。
「そんなに彼女がいいの?」
洋服を直しながら高明の様子を窺った。部屋の暗さにも慣れてきて、少し表情も読み取れる様になる。元々高明は無表情な事が多いので、それも意味があるのか判らないが。
「結婚の日取りも決まりました。もうお姉様が入ってくる隙は無いかと」
「あら、寂しいわね」
そこから花江の声色が変わる。
「彼女は止めるべきよ。貴方が痛い目を見るわ」
今度は高明が憤りを覚える。
だが、相手は姉だ。努めて冷静に返答した。
「何を根拠に?」
花江には高明が怒っていると判っていた。それでも冷静に諭す。
「目付きが違ったのよ、今日見た彼女は」
今日、顔合わせの為に来ていた馨子を花江は見ていたらしい。
「彼女の中では貴方に対して何かが変わっているわ。だからもう関わるべきじゃないと思うの」
「それはお姉様が私に対して好意を抱いているからそう見えただけでは」
「嫉妬って言いたいの? 莫迦ね。私は純粋に貴方を心配しているだけよ――姉として」
高明の眼光が鋭くなる。この暗闇ではそこまで判別出来無いが。
花江は立ち上がる。
「私は忠告したからね。後は貴方がどうするか――」
「私は馨子を信じています」
その言葉は羨ましく感じた。自分の想いは届かないのに、彼女へは真っ直ぐに想いを伝え続ける高明を自分のものにしたいと思った。
だがどう足掻いても叶わない夢。
「――そう」
それ以上の言葉は出て来なかった。
高明の部屋を出て、一つ溜息を吐いてから冷たい廊下を歩き出す。
花江は華やかな見た目から数多の男性に求婚された事がある。それは財閥の関係者から道行く見知らぬ他人迄幅広い。だが、誰にも
部屋へ戻ると、ベッドへ寝転がって天井を見上げた。
「失恋って、こんな気持ちなのね」
花江は顔合わせの帰り際の馨子を目にしていた。その時の表情を思い出す。胸元に手を当てながら何か考え込んでいる表情――。
「高明……」
恋焦がれた相手として、弟として、その身を案じた。
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