第拾肆章


 馨子は夢を見ていた。

 酷く暗い闇の中にあって、薄っすらと浮かび上がって見えるのは誰かが横たわっている様子だけ。顔は靄がかかっていて確認する事が出来無い。その人の腹も真っ黒に染まっていた。その部分を押さえながら悶絶している様に見える。怪我をしているのだろうか。何故……そう思いながら自分の手元を見ると、血塗られた小刀が握られていた――。


「――はっ!!」


 馨子はやっと悪夢から目を覚ます。両隣を見ると両親が眠っていた。その存在に安堵しながら息を吐き、荒くなっている呼吸を整える。

 夢は夢だと思いながら、もう一度寝直そうとしたのだが、その夢が頭から離れない。何かを暗示しているのだろうか。だとしたら、何を――。

 そんな風に考えていると、いつの間にか再びの眠りについているのだった。



 ***



 高明は父である辰男に軍の総司令部に呼び出されていた。

 父や兄に着いて行き、見回りに参加する事はあるが、本来學生の高明はまだ軍の内部に入る事は出来無い。だがそんな高明をここに呼んだのには訳がある。


「これは……?」


 辰男が机の上に置いたのは一本の小刀。内ポケットに入る大きさの小さなものだ。

 高明が問うと、辰男は軽く頷いた。


「まだ試作段階だが……対鬼用の小刀だ。刃先に鬼に有効だと思われる毒を塗ってある。使い物になるかは判らんが、一応護身用に持っておけ」


 対鬼用――。


 自分に鬼の血が流れていると辰男は知らない。心配で持たせたい気持ちは判るが、これは下手をすれば高明を危険に晒す事になる。


「心配するな」


 心情が表情に出ていたらしい。優しい声で話しかけられる。


「確かに普通の刀に比べれば小さいが刃物は刃物だ。殺す事は出来無かったとしても傷を付ける事は出来る。逃げる手立てを作る役には立つだろう」


 辰男は高明が鬼に対して畏怖の念を抱き、こんな小刀で鬼を倒せるのか心配しているのだろう――と勘違いした。

 辰男は小刀を手に取り高明の元へと近付く。

 小刀も刀と同じように小さな鞘に入っているが、鬼の血が流れている高明が触っても問題無いのだろうか、と不安になる。

 辰男が高明の手を取る。そこに、小刀を置いた――何も起こらなかった。内心安堵する。


「――有り難う御座います」


 高明は小刀を受け取り、頭を下げた。

 それを見て、辰男は満足そうに微笑んでから自席に戻る。

 高明は自分に鬼の血が流れていると知らないまま十年も育ててくれた辰男を裏切っている様な気がしてもどかしい思いを抱えていた。


――これから先もこれが続くのだろうか。


 親が死ぬまでか、兄弟が死ぬまでか――幾年になるのだろう。考えると途方も無かった。

 とりあえずこの小刀は自分が持っている訳にはいかない。鞘からは抜かず、部屋の隅にでも置いておこう――いや、馨子に護身用として渡そう。

 折角自分へ貰ったものだが今回は仕方が無い。辰男に申し訳無いと思いつつも馨子も心配だった。


「ところでどうだった? 旅行は。あの山で鬼とは会わなかったか?」


 再び高明に緊張が走る。実父の事を言う訳にはいかない。


「はい。問題ありません」

「楽しかったか?」

「はい」

「馨子嬢も楽しそうだったか?」

「はい」

「そうか。二人は上手くいっているのだな」

「――はい」


 馨子には本当の事を知られてしまったが受け入れてくれた。大丈夫だろう。


「後は、二人の結婚をいつにするかだな」


 辰男は嬉しそうに微笑む。

 それに対しては高明も素直に微笑んで見せた。


「はい」



 ***



 雷蔵は馨子の事を気にしていた。最近どこか表情が曇って見える。だが何度訊ねても「大丈夫」と返されて終わる。心配させまいと気を遣っているのが見え見えだ。

 櫻子はあれからフミの様子を見に行く事はあるが基本的には高千穂家で生活をするようになった。三人の生活は馨子だって夢に見ていた筈だ。それが現実になったというのに何が気がかりなのだろうか。

 櫻子に相談すると同じく心配していた。櫻子が訊いても教えて貰えなかったらしい。どうすれば馨子は又笑顔になれるのか頭を悩ませていた。


「じゃあ、行って来るね」

「あ、ああ。行ってらっしゃい」


 いつもの様に窓際の机の前から馨子を送り出す。

 笑っているが、笑っていない。そんな矛盾が今の馨子だった。

 窓を開けて下の様子を見る。


「あ」


 そこにとある人物を見つけた。

 彼だったら馨子をまた笑顔にしてくれるかもしれない――。

 そんな風に思いながら窓を閉め、外へ向かった。



 ***



 馨子が定食屋の前まで来ると、その姿を認めた。


「高明さん……?」

「突然済まない」

「いえ……」


 いつもなら學校終わりに定食屋に寄ってくれる。今日も平日。學校へ行く前に寄ったにしては遅い時間だ。どうしたのだろうか。


「學校はどうされたのですか?」

「今日は創立記念日で休みなんだ」

「そうりつ……??」


 學校の行事については詳しくなかった。


「今日は學校が設立された日なんだ。だから學校自体が休みなんだ」

「そうですか」


 いつもより早い時間に来れる理由は判ったが、何故ここに来たのだろう。又何かの誘いだろうか。


「馨子に会いたかった」

「そ、そうですか」


 馨子の頬が赤く染まり、恥ずかしさから下を向く。

 高明の想いはいつも真っ直ぐだ。


「少し、話せるか?」

「はい、少しなら……」


 定食屋の方を一瞥してから高明へ視線を戻す。

 高明は馨子に近付き、周囲を気にしながら自分の体で隠しつつ小刀を取り出して見せた。


「これを」

「これは、私が持つものでは――」


 本来刀は軍人だけが有するものであり、一町娘である馨子が持つ物では無い。だから高明も周囲から見えない様に隠しているのだ。


「いいんだ。私が持っている訳にはいかないから」

「それはどういう……?」


 高明がまだ學生だからだろうか。だとしたら刀を持たせる様な事を辰男がするとは思えないが――。

 高明は更に距離を詰め、小声で馨子に話しかける。


「これには鬼に有効だと思われる毒が塗られているらしい」

「え!?」


 馨子は思わず声を上げてしまい、しまったと言う様に両手で口を塞ぐ。


「父から護身用として持たされたが、私が持っているとどうなるか判らない。だから馨子に持っていて欲しい」

「でも……」

「馨子が鬼に対して理解を持ってくれた事は判っている。だからお守り代わりにしてくれ」


 二人の背後を数人の町人が過ぎて行く。

 馨子はそんな人達を一瞥してから高明に向き直り、そっと小刀を受け取った。


「お体は……?」


 今まで毒を持っていたのだから、高明の体が心配になる。


「今の所は問題無い。これは試作品らしいから効果の程も判っていないようだ。心配いらない」

「そうですか」


 安堵しながらそれを受け取り、着物の中へしまった。


「もう一つ」

「はい」

「父が結婚の日取りを気にしていた」

「はい……」


 馨子の頬が赤く染まる。


「また雷蔵殿と一緒に話をしよう」

「あ、あの!」

「どうした?」


 言い終わると帰りそうな雰囲気を見せたので、慌てて引き止める。

 そこに同席させたい人物がもう一人増えたから。


「母もいいでしょうか?」

「母……櫻子殿の事か?」


 馨子は目を瞠る。


「ご存じだったんですか?」

「雷蔵殿と櫻子殿を見ていれば判る」


 その言葉に馨子は「ふっ」と噴き出した。


「そうですよね、判りますよね」

「何か変な事を言ったか?」


 高明は馨子が笑った理由が判らなかった。


「いいえ。高明さんが普通なんです。気付いていないと思っていたうちの両親がおかしいんです」

「そうか……」


 やっぱりよく判らない。

「こちらの話です」と高明の表情を見ながら、馨子は又笑った。

 そして、着物を撫でる。


「これは大切に――お守りとして頂きますね」

「ああ、そうしてくれ」


 好きな人から何かを貰うという事はこれ程までに嬉しいのだと初めて知った。それに何だか心強い。

 高明は馨子の笑顔を見て、たまらなく愛おしく感じた。

 そっと頬に触れ、額に口付けをする。

 馨子は頬を真っ赤にしながら、大事そうに額を手で押さえた。


「又来る」

「……はい」


 馨子は高明を見送り、その背中に見惚れていたが、仕事を思い出して慌てて定食屋へ入って行った。



 ***



 雷蔵は建物の陰から顔を半分だけ出し、高明と馨子の様子を見て複雑そうにしていた。二人が何を話していたのか、何をしていたのかは判らなかったが、最後の口付けはまだ早いのではないかと顔を顰める。高明は馨子に対してかなり積極的だ。まだ十六歳だぞ、と思いつつ、櫻子にはもう十六歳だと言ってしまった事を思い出す。いや、それとこれとは話が違うと頭を振ると高明がこちらへ向かって歩いて来た。声をかけようかと思ったが、馨子がまだ見ている。まだ早いかと思った矢先、馨子が定食屋に入って行き、そして――。


「雷蔵殿」


 高明に見付かった。


「お、おう! 高明! げ、元気か?」


 平静を装いつつ、背中からは変な汗が噴き出していた。


「ああ。雷蔵殿は?」

「あ、ああ! 勿論! 俺ぁいつでも元気一杯だからな!」


 両腕で力拳を作る。


「そうか」


 高明が微笑んだ。いつも無表情のあの高明が――何かよっぽどいい事でもあったのだろうか? まるで馨子と真逆だ。


「か、馨子と何を話してたんだ?」


 もしかしたら先程の会話で馨子が高明にその元凶を相談したのではないかと思い、顔色を見つつ訊いてみる。少し見えたのだが、定食屋に入って行く馨子は笑顔だった。その様子から雷蔵は馨子が高明に相談する事で元凶を払拭し、笑顔になったのではないかと考えた。頼った相手が両親では無く、高明だったのは少し寂しいが。その質問をした後、高明の表情が元の無表情に戻った。


「いや、特に」


 雷蔵の思い違いか。だが諦めきれなかった。


「何か、こう、馨子から相談とかされなかったか?」

「相談? 何の相談だ?」

「いや、だから、そりゃあ――俺にも判らねぇんだけどよ……」


 判らないから訊いているのだが更に判らなくなった。

 後頭部をかきながら思い悩んでいる様子を見て、高明はそんな雷蔵を安心させる様に言う。


「馨子なら大丈夫だ。心配いらない」


 高明の言葉に一瞬で動きが止まり、その双眸を見上げた。

 確かに馨子は笑顔で定食屋へ入って行った。そんな様子を思い出して、にっと笑う。


「そうだな、心配いらねぇな」

「ああ」


 高明も又微笑んだ。


「何かあったら私が護る」

「おう! 頼りにしてるぜ!」


 雷蔵は高明の肩を少し強めに叩いた。その重さが雷蔵の信頼の重さに感じて嬉しかった。


「雷蔵殿」

「どうした?」


 高明は丁度いいと先程馨子と話した事を雷蔵にも話す。


「馨子と先程話していたんだが、結婚の日取りを決めたいんだ。協力して欲しい」

「ああ、そうだな。いつでも構わねぇぜ、俺は。好きに決めてくれ」

「そうか。いずれ又うちに来て貰うだろう。同席して欲しい――彼女も一緒に」

「彼女?」

「櫻子殿だ」

「ああ!?」


 雷蔵は驚きながら一歩後ろへ飛び退いた。


「な、ななな何で櫻子!?」

「復縁したのではないのか」

「何でその事を高明が知ってんだ!?」


 顔が真っ赤だ。


「馨子から訊いた」

「何だ……そんな話をしてたのか……」


 背を向けて呟くと高明は不思議そうに雷蔵の背を見詰めた。


「無理にとは言わない」

「大丈夫大丈夫。来るなっつっても来る女だ」


 雷蔵は高明に向き直りながら手を左右に振る。呆れている様に見せているが本音は嬉しそうだ。


「そうか。じゃあ、私はこれで」

「おう! 引き止めて悪かったな」

「問題無い。又来る」

「ああ」


 高明は雷蔵の横を通り過ぎ、家路に就いた。

 雷蔵はそんな背を見詰めていた。馨子に対しての収穫は無かったが高明と話した事で馨子は笑顔になっていた。一件落着といった所か。


――だが、これが本当の解決とはならなかった。



 ***



「馨子、どうしたの?」

「え? 何が?」


 櫻子に問われて、不思議に思う。


「何か嬉しそうな顔をしているから」

「そんな事無いけど……」

「無かったら訊かないわよ」

「そ、そうね」


 定食屋の中ではお馴染みになった親子の会話。馨子は机を拭きながら、櫻子はいつもの様に仕込みをしながら。

 馨子が嬉しそうな顔をしながら入って来たので、櫻子は気になって仕方が無かった。


「外で高明さんと会ったの」

「そう! 良かったわね」

「うん」


 櫻子も結局、馨子を笑顔に出来るのは高明なのだと思い知る。雷蔵同様櫻子も馨子を心配していた。

 両親では足りない部分もあるのだろう。久し振りの馨子の笑顔を見て嬉しいとは思ったが同時に寂しさも感じる。


「本條さん、何て?」

「えっと……」


 さすがに小刀の事は言えない。他に何を話したか――。


「結婚の日取りを決めたいって。父さんと母さんにも付き合って欲しいって言ってたよ」

「まぁ! そう! ついにその日が来るのね! わぁ、母さん楽しみだわ~」

「大袈裟だよ」


 雷蔵と櫻子がよりを戻してから櫻子は馨子の前で自分の事を『母さん』と呼ぶようになり、馨子も敬語は使わなくなった――本来の家族に戻ったのだ。

 あの日、雷蔵と一緒に櫻子を説得して良かったと本気で思う。


「いつ? いつにするの?」

「だから、それを決める為に集まるんだって。気が早いよ」

「そうかしら?」


 馨子は布巾を水道で洗ってから畳んで置く。

 そして、馨子は少し前に思いついた案を勇気を出して言ってみる事にした。


「私、考えたんだけどさ」

「何を?」

「父さんと母さんも、もう一度式挙げたら?」

「え?」


 まさか自分達の事だとは思っておらず。娘の意外な提案に度肝抜かれる。


「挙げようよ。父さんと母さんの晴れ姿見てみたいし!」


 だが雷蔵を思い出す。


「あの人はそんな事に興味無いわよ」

「私が説得するから!」


 以前行った式を思い出し、噴き出す。


「あの人はね、前回の結婚式だって緊張して沢山失敗したの。転ぶわ、酒を零すわ、転ぶわ、転ぶわ……」

「そんなに転んだの?」

「兎に角、あの人の中で結婚式は最悪な思い出になったのよ。もうやらないと思うわ」

「だったら、逆にもう一度やろうよ。今度はいい思い出になるかもしれないよ?」

「無理よ。何度やったって何かしら失敗するに決まってるんだから」

「そうかなぁ」


 雷蔵のあがり症を知っていれば判る。櫻子の言う通り緊張から何かしらやらかすに決まっている。判っていても納得いかない様子の馨子だったが客が来ると直ぐに表情を変えた。

 確かに雷蔵との結婚式は大変だったが櫻子としては悪い思い出では無い。格好が悪い雷蔵は山程見たが。

 そういえば、とフミの部屋に自分達の結婚式の写真がある事を思い出す。ここに来る時に持って来たのだ。後で探そうと決めて、仕事に集中する事にした。



 ***



「あった! あったわよ!」


 櫻子が慌てた様子で帰って来た。

 あれから店仕舞いをして、フミの部屋で自分の私物を漁っていると見つけたのだ。


「何だぁ? 賑やかだなぁ」


 雷蔵は相変わらず窓際で執筆中。勿論、原稿用紙は真っ白。その為機嫌はあまり良くない。


「これよ、これ! 馨子! おいで!」


 だがそんな雷蔵は無視して櫻子は馨子を呼び、畳の上にアルバムを広げて見せた。


「何?」

「結婚式の写真よ!」

「はぁ!? お前まだそんな物持ってんのか!」


 やっぱり櫻子の言った通り、雷蔵は顔を顰めた。

「勿論持ってるわよ。一生物だもの」と言いながらアルバムを捲り、若き日の二人が現れる。


「うわぁ! 二人共若いね! 私と同じくらい?」

「そうね。私が十八で、この人が十九の時ね」


 女二人は写真に釘付けになっているが雷蔵は面白くなさそうに背中を向けて原稿用紙に向き合った。


「けっ! 何が楽しくてあんな式の写真なんか見なけりゃいけねぇんだ」

「いいじゃない。どうせ筆なんて進まないでしょ? 一緒に見ましょうよ」

「うるせぇ! 筆なんて進まなくても頭は動いてるってんだ!」


 そこで櫻子の声が聞こえなくなったかと思ったら「ぐえ」と首を絞められた様な雷蔵の声が聞こえた。櫻子が雷蔵の首根っこを掴んで引き摺り、移動させたのだ。


「お前! いつからそんな乱暴者になったんだ!」


 叫びながら櫻子の手を払う。


「いいじゃない! 家族三人の時間だって大事でしょう?」

「仕事の時間も大事だろ!」

「どこが仕事よ! 出版社にも相手にされない癖に!」

「何だと!」

「あ! これ、私?」

「「え?」」


 雷蔵と櫻子がいつも通り痴話喧嘩を始めると、ずっとアルバムを見ていた馨子が声を上げた。二人は思わず喧嘩を止めて馨子の方を見る。その視線の先を辿ってアルバムを覗き込むと、櫻子に抱かれた赤ん坊が写っていた。二人の痴話喧嘩は日常茶飯事。気にせずにアルバムのページを捲ると、馨子が生まれたばかりの頃の写真が出て来た。


「そうだな! 馨子だ、これ!」

「こんなに小っちゃい時もあったのよね。懐かしいわ」


 喧嘩していた事も忘れて、二人もアルバムを覗き込む。


「これから十六年だもんなぁ。今となっては誰かさんに似ちまって――」

「「何か?」」

「何も」


 女二人の圧に何も言えなくなった。

 馨子はアルバムを捲りながら昔の自分と両親を見続けていた。そこには幸せそうな三人が幾つも写っていた。アルバムは両親の若い頃――付き合っている頃だろう――から馨子が五、六歳の頃まで。その途中でアルバムは完成する事無く終わっていた。それがやけに呆気無くてどこか寂しさを覚えたが、最後の頃の事は自分の記憶の中にも少し残っているものがあった。


「この写真の時楽しかったなぁ」

「ああ、外で水遊びした時ね」


 馨子が指を差した写真には上裸の雷蔵と水浸しの着物を着た小さな馨子が写っていた。


「馨子が虹を見せてくれって煩かったんだよなぁ」

「虹なんて作れるの?」

「こう、太陽に向けてな、水を発射するんだ」

「又適当な事言って」

「本当だって! ……多分」

「ほらぁ」

「うるせぇなぁ、昔の事なんだからもう忘れちまったよ!」


 二人のやり取りを見ていると本当に家族に戻ったのだと嬉しくなる。

 馨子はまた視線をアルバムに戻した。


 いつか自分も高明と――。


 そう思った時、アルバムを捲る手が止まった。


――こんな風になれるのだろうか。


 高明には鬼の血が流れている。結婚は出来たとしても、子どもはどうなる? 高明の様に角や牙が生えるのだろうか? だとしたら、ここにいる両親にだって、本條家の人間にだって高明の事が明るみになってしまう。そうなったら――


「馨子?」

「……え?」


 櫻子に声をかけられて、現実に戻って来た。


「どうしたの? 何か考え事?」

「あ、うん。まぁ……」


 その顔は笑っているが真っ青だった。


「何かあったのか?」


 雷蔵に問われるが、馨子は首を横に振る。


「大丈夫」


 その笑顔は嘘だと親である二人には判ってしまった。


「――そう」


 だが訊く事は出来無かった。

 その日の晩も馨子は又眠れない時間を過ごした。

 そして、思い出したのは――あの悪夢。

 判っていた。本当は、判っていた。


――二人が結ばれる方法は、これしかない。


 馨子は高明から貰った小刀を布団の中で強く握った。



 ***



 翌日。

 高明はいつもの様に學校終わりに定食屋に寄った。

 引き戸を開けると櫻子はいつも通りに迎え入れてくれたが、馨子は驚いた様な目で自分を見ていた。だがそれも直ぐに微笑みに変わる。先程のは勘違いだったのか。

 この定食屋も毎日の様に出入りし、ここで一食終わらせるのも高明の日常になっていた。だが育ち盛りの高明はよく食べる。定食屋でも食べるし、本條邸に帰ってもちゃんと夕食を食べていた。一日四食食べている事になる。鬼の血が流れている分、食欲旺盛なのもあるのだろう。今の量が正直丁度良かった。

 いつもの席に座るといつもの様に馨子が隣に座る。

 定食屋の閉め作業は粗方終わっていた。残っているのは櫻子の仕事だけだ。馨子がいるのは高明を待っているから。ここからは二人の時間。馨子が話を切り出す。


「本日もご苦労様でした」

「いや。いつもの事だ」

「それでも學校へ行かれるのは立派な事です」


 毎回の様に學校へ行く事を褒めてくれるが高明としては學校の話等どうでもいい。

 今度は高明が話しかける。


「今日は何をしていた?」


 自分の事を話すより、馨子の事が気になっていた。


「いつも通り、こうして仕事を」

「馨子も立派だ」

「そんな事は……」


 照れながら下を向く馨子。

 學校は親が金を出してくれたら誰だって通える。だが仕事はそうはいかない。汗水流して働いてお金を貰う。高明からすれば自分よりも馨子が立派に見えていた。

 馨子がふと口にする。


「楽しかったなぁ」

「仕事がか?」

「あ、いえ……」


 高明は學校へ行くという代わり映えしない毎日に嫌気が差していたが働くという事は楽しい事なのだろうか。だが返って来たのは思ってもいない言葉だった。


「高明さんとの旅行です」

「私との?」


 馨子は声を潜めて話しかけた。


「もう一度行きませんか? ――私達の故郷へ」


 馨子の懇願する様な表情には弱い。


「ああ、行こう」


 櫻子はそんな二人の様子をどこか不安げに見ていた。話している内容は聞こえなかったが。


――こうして二人は、再びあの場所へ行く事になった。





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