第拾参章


「只今――あれ?」


 昼過ぎに、高明との旅行から帰って来て家の引き戸を開けると、机の前に雷蔵はいなかった。

 旅行の話を山程聞かせようと思っていたのに……と自分でも肩が落ちるのを感じた。

 出版社に作品を持ち込みに行ったのだろうか。いや、旅行に行く前もまだ作品は進んでいない様だった。一泊二日の旅行中に書き上げられる程雷蔵の筆は早くない。


――雷蔵はどこへ?


 とりあえず荷物を置いて待ってみる事にした。だが待てど暮らせど雷蔵は帰って来なかった。もう黄昏時だ。こんな時間に外を出歩いていたら鬼の餌食に――いや、そんな風に考えるのは良くない。悪い鬼ばかりでは無いと高明の父を見て判ったのだから。だが雷蔵は作家になるという夢に憑りつかれた人間だ。常に机の前で創作にふけっていた。こんな時間まで家を空けた事はない。なんなら一日中家に籠っていた。それが、何故――。


「――何か、あった?」


 不安が思わず言葉になった。

 一番に顔が浮かんだのは櫻子だった。櫻子なら何か知っているかもしれないし、知らなくても助言をくれるかもしれない。

 一階の定食屋はそろそろ閉める時間だ。今だったらまだいるかもしれない。馨子は急いで家を出ると階段を下りて店の前に立つ。やっぱり灯りは付いていた。唯、暖簾は出ていないし、張り紙がしてある。


――勝手ながら本日は休業します。


 どうやら今日は店を閉めていた様だ。

 馨子が休んだばかりに人手が足りなかったのか。それとも雷蔵だけではなく、櫻子にも何かあったのか――更に不安が募る。

 戸に手を掛けた時、雷蔵の大声が聴こえて来た。


「強情な女だな!! さっさと寄り戻してくれりゃあいいだろ!!」


――何の話をしている?


 馨子は戸を開けるのを止め、聞き耳を立てた。


「そんなに簡単な事じゃないでしょう!? 私が出て行って、馨子だってどう思っているか――」

「そんなの俺が説得するっつってんだろーが!!」

「貴方の説得なんてたかが知れてるの!!」

「どういう意味だ!!」

「どうせ馨子を前にしたら、緊張して何も言えなくなるに決まってるんだから!!」

「うっ……そ、そんな事あるか!! 俺はやる時はやる男だぞ!!」


 どうやらいつもの痴話喧嘩らしい。

 馨子は大きく息を吸って大きく吐いた。

 そして、扉を開けた――。



 ***



 櫻子が馨子を旅行に行くよう提案したのには、高明との仲を深める――意外にも理由があった。


――話がしたい。


 数えきれない雷蔵からの申し出。馨子がいない時を狙っては言い寄られていた。

 いい加減櫻子も判っていた。決着を付けなければならないと。だがもう一度雷蔵とやり直せるのか。馨子の母親に戻れるのか――心配事は尽きない。今一歩踏み出せずにいた。

 櫻子としては現状でも満足ではある。馨子の様子は毎日の様に確認出来るし、高明との関係も見守ってあげられている。雷蔵とは――まだ複雑な気持ちが残っているが。

 馨子と高明が旅行に行った翌日、櫻子は店を休業にした。雷蔵と話をする為だ。二階の高千穂家で話してもいいが話が長引くと馨子が帰って来てしまう。店で話せば馨子が帰って来ても問題無いだろうと安全策を取ったつもりだった。


 ガラッ。


 店の引き戸を開け、雷蔵が現れたのは昼過ぎ。前もって取り決めた時間よりもかなり早かった。

 不思議とその顔はいつもとは違って見えた。


「俺ぁ、今日は引かねぇからな」


 櫻子は雷蔵の真正面に立ち、しっかりとその瞳を見据えた。

 自分を納得させてくれるのなら、それがいい。

 櫻子だって自分がした事を判っているつもりだ。二人を捨てて故郷へ帰った癖に、やっぱりやり直したいからと二人を探して漸く見付け、今に至っているのだから。


――自分勝手にも程がある。


 だが雷蔵はそれを許すと言ってくれている。自分がいなくなって馨子と二人きり。大変な時分だってあっただろうに……それでも又やり直したいと言ってくれている。

 唯、自分が納得出来無い。だから納得させて欲しかった。

 もう一度、雷蔵の妻になってもいいと。もう一度、馨子の母親になってもいいと――。


「私を納得させられる何かがあるの?」

「いやぁ……」


――幸先不安だ。


 雷蔵のこういう所が気に入らない。これも自分勝手なのだろうが。


「じゃあ、何しに来たのよ」


 自然と眉間に皺が寄っていた。


「そりゃあ、お前を説得しに――」

「出来るの?」

「いやぁ……」


 溜息しか出て来ない。期待して損した。

 櫻子は適当な場所に座って、立ちっぱなしの雷蔵にも座る様に勧めた。

 雷蔵は右手右足、左手左足を同時に動かしながら出入口に一番近い隅に座る。そんなに距離を取らなくても……と櫻子は不服だった。


――沈黙。


 櫻子は不機嫌から雷蔵は緊張から。

 雷蔵は頭をかいたり、首を触ったり、腕を組んだり、貧乏揺すりをしたり、忙しなく体中を動かしている。

 櫻子はそれが鬱陶しくて仕方が無かった。


「話しをしに来たんでしょう?」

「――そうだ」


 声をかけると、一瞬体を強張らせた後、強がる様な声が聞こえて来た。


「じゃあ、話し始めてくれる?」

「いやぁ……」


 この男は。昔と何も変わっていない。出て行く時だってそうだった。櫻子を引き止めはしなかった――いや、引き止める勇気が無かった。

 女々しい男なのである。それでいて頑固。さらに不器用。その癖、一度決めた事は是が非でも曲げられない。だがその男が自分ともう一度やり直そうと言ってくれている。それに対してはそれなりの覚悟があるのだろうと思った。こうなる事は櫻子だって判っていた。


「どうして、寄りを戻したいの?」

「そりゃあ……その……」


 雷蔵の顔が櫻子と反対方向へ向く。櫻子から見るとボサボサ頭しか見えなかったが耳も首も真っ赤だった。顔だって同じく赤いのだろう。それを隠す為にそっぽを向いたのだと推測する。


「そんなに私が好き?」

「な! なななな何、何言ってんだ!! ――うわあ!!」


 雷蔵は勢いよく振り向いた拍子に体勢を崩し、椅子から転げ落ちた。

 だが一瞬向けられた顔はやっぱり真っ赤だった。図星だ。

 雷蔵は慌てて立ち上がって椅子を直し、櫻子へ背中を向けて再度座る。櫻子が大丈夫かと声をかけようとすると意外にも向こうから声が聞こえてきた。


「す、好きじゃねーと、復縁なんか持ち掛けるか……莫迦野郎……」


 徐々に小さくなっていく声に雷蔵の本心を感じて、櫻子の頬もほんのり染まる。満更でも無かった。


「……何か食べる?」

「……おう」


 二進にっち三進さっちもいかない態度に、空気を変えようと提案し、席を立って台所へ向かう。今日は休業にしていたが雷蔵と話す事は予め決まっていたのでこんな時の為に一品作っていた。


「はい」

「ああ……あ」


 櫻子が用意していたのは、南瓜かぼちゃの煮物。雷蔵の好物だった。


「……よく、憶えてたな」

「まぁ……」


 十年前によく作った事を思い出しながら懐かしさを感じる。

 櫻子は自分の分も用意して机に置くと席に着いた。

 二人して箸を取り、櫻子から手を合わせて食べ始める。雷蔵もその様子を見て、小さな声で「頂きます」と言った後一口食べた。


「うめぇ」


 そう聞こえて雷蔵を見ると、大粒の涙を流しながら、南瓜を頬張っていた。

 十年以上も前の光景が思い出される。馨子が生まれる前、こんな風に二人で食卓を囲んで一緒に食べた思い出が――。

 雷蔵は号泣だったが櫻子の顔は破顔していた。



 ***



――今日は勝負の日。


 何故なら復縁の話をするからだ。

 雷蔵は櫻子が出て行った時止められなかった事をこの十年間ずっと悔やんでいた。

 当時から作家になる為に執筆をしていた。その為子育てや家事は全て櫻子に任せきりだった。だが神隠しのあったあの日から櫻子は馨子から目を離せなくなり、何よりも馨子を優先する様になった事で家事が疎かになった。雷蔵はそれに気を悪くし、櫻子を責め、喧嘩が絶えなくなった。結果櫻子は出て行ってしまった。

 馨子と二人、難とかここまでやって来たが、一日たりとも櫻子を忘れた事は無かった。それがどうだ。一年前、急に櫻子が現れた。

 確かに櫻子の実家に文を送り続けており、その中に住所も書いてあったが、全く返答が無かった為半ば諦めていた。それが文を寄越すのではなくここまでやって来るとは予想外だった。十年経っていても直ぐに判った。櫻子はずっと綺麗なままだったから。馨子はさすがに気が付かなかった様だが。

 しかも、フミに弟子入りし、定食屋で働く様になったではないか。


――好機だと思った。


 これを逃す手は無い。

 櫻子だって自分の文を頼りにここまでやって来たのだ。少なからず復縁の可能性は考えられた。だが隙を見て何度も「寄りを戻そう」と言い寄ってはみたが頑なに断られてしまう。でも諦めたくは無い。もう一度昔の様に三人で一緒に暮らしたい。

 まだ自分は作家になれていない。立派な人間だとは雷蔵自身も思っていないが、今だったら高明と馨子の縁談が上手く行っており、本條家との繋がりが出来た。あの書庫にあった本を読めば知識が付き、出版社も納得させられるだけの作品が書ける筈だ。そうなれば櫻子と馨子を食わせる事も出来る。一石二鳥以上だ。未来に希望が持てる様になった。だから難としても櫻子を説得して復縁したい。

 馨子が高明と旅行に行った事で時間が出来た。自分の気持ちをぶつけて櫻子を説得したい。


――だが、何と言えばいい?


 自分が口下手なのは判り切っているし、櫻子を説得するにはそれ相応の決定打が必要になる――全く思いつかない。

 こういう時に自分の知識の無さを実感してしまう。もっと頭が良ければ作家になれただろうに。もっと頭が良ければそもそも櫻子は出て行かなかった。もっと頭が良ければ――そんな事を考えた所で後の祭りだが。

 今はとりあえず目の前の事に決着をつけなければ――。

 定食屋の前を小一時間行ったり来たりしてから覚悟を決めた。引き戸を開ける。


「俺ぁ、今日は引かねぇからな」


 全身が震えているが、とりあえず強気な姿勢で行く事にした。


「私を納得させられる何かがあるの?」


 何も無かった。

 意外にも向こうも強気な姿勢で来たので内心狼狽する。だが直ぐに平静を装った。出てきた言葉は――。


「いやぁ……」


 何と情けない。さっきまでの威勢はどこへ行ったんだ。


「じゃあ、何しに来たのよ」

「そりゃあ、お前を説得しに――」

「出来るの?」

「いやぁ……」


 どうしたもんか。

 櫻子は完全に呆れている――いや、これは諦めている顔だ。

 難とかして名誉挽回しなければ。


「話をしに来たんでしょう?」

「そうだ」

「じゃあ、話し始めてくれる?」

「いやぁ……」


 やっぱり無理だ。どうしても櫻子を納得させられるだけの決定打が見付からない。


「どうして、寄りを戻したいの?」

「そりゃあ……その……」


 櫻子が話しかけてくれるのに自分は碌な返答が出来無い。いざとなるとこれだ。はっきり「好きだから」と言えば格好がつくのに口は思う様に動いてくれない。一体誰の口だと思っているんだ、この口は。


「そんなに私が好き?」

「な! なななな何、何言ってんだ!! ――うわあ!!」


 どうして判ったんだ。櫻子は魔術でも使えるのか、何て莫迦げた考えは直ぐに消えた――と思った拍子に景色が変わった。

 直ぐに気付く。椅子から転げ落ちた、と。慌てて起き上がり、椅子を直し、座る。恥ずかしくて目も当てられない。


「す、好きじゃねーと、復縁なんか持ち掛けるか……莫迦野郎……」


 全く格好がつかない。櫻子に見えない様に痛みを感じる腕を擦りつつ重たく小さな溜息を吐いた。


「……何か食べる?」


 だが櫻子は何を思ったのか意外な提案をしてきた。

 櫻子の手料理なんて久し振りだ。何を出してくれるのか心が躍る。

 昔好きだったのは南瓜の煮物だったなぁ、等と十年も昔の情景に思いを馳せる。

 台所から鍋で何かを煮ている音が聞こえて来る。会話は無いのに安心出来た。


「はい」

「ああ……あ」


 出て来た料理はまさかの南瓜の煮物だった。


「……よく、憶えてたな」

「まぁ……」


 これが答えの様な気がした。


「うめぇ」


 懐かしさと嬉しさと――何か言葉にならない思いで心の中が一杯になって視界が歪む。

 顔を隠す様に器を口元に持って行きながらかきこんだ。これだ。この味だ。幸せだったあの頃を思い出させるこの味――。


 ダンッ!


 器を勢いよく机の上に置くと、櫻子に向き直って叫んだ。


「俺とやり直してくれ!!」


 やっと出た言葉に櫻子は目を丸くしている。


「俺ぁ、又俺と馨子とお前――櫻子と、三人で一緒に暮らしてぇんだ!!」

「嫌よ」


 ズッコケた。

 やっぱり櫻子は一筋縄ではいかない。

 昔はこんなに肝の座った女では無かったのに――櫻子にも何か理由があるのか。


「何だ。何かやり直せない理由でもあるってぇのか?」


 櫻子は何も言わなかった。


「何かあるなら言ってくれねぇと、俺だって納得出来ねぇ」


 さすがに雷蔵も引かなかった。

 櫻子は何か考えている。そして、口を開いた。


「――自信が無いのよ」

「自信? 何の?」


 料理も上手いし、家事も出来る。見た目も綺麗だ。櫻子は何に対して自信が無いと言っているのか。


「貴方とやり直す事になったら又馨子と一緒に暮らす事になる――母親に戻る事になる」

「そうだな」

「十年前から忘れた事なんて無かった」

「何を?」

「神隠しよ!!」


 察してくれない雷蔵に業を煮やした櫻子が叫んだ。


「馨子がいなくなった二日間を私は忘れた事が無いの!!」


 雷蔵は目を瞠る――櫻子が苦しそうな表情だったから。


「あの二日間で私は子育てに対する自信が無くなった……馨子に向けられる顔が無い……だから、復縁は出来無い」


 俯く櫻子を見下げながら、呟く様に言う。


「何だ。そんな事か」


 櫻子はまだ自分の気持ちを判って貰えないのかと、顔を上げて失望の眼差しを向けた。


「それは十年前――馨子が六歳までの話だろ。もう馨子は十六だ。仕事だってしてる。うちの事だって馨子がしてんだ。櫻子だって知ってるだろ?」


 櫻子の表情が徐々に変わっていく。怒りではない。


「今だって高明と二人で――俺達の手を離れて旅行に行ってるじゃあねぇか。馨子だって成長してる。いつまでも過保護でいる必要なんてねぇんだ。もう櫻子が気に病む必要なんてねぇんだよ」


 雷蔵の言葉を聞き終わると櫻子は背を向けた。


「だとしても、昔の事は消えない」


 いつまでもうじうじしている櫻子に、雷蔵の額に血管が浮き上がった。


「強情な女だな!! さっさとより戻してくれりゃあいいだろ!!」


 雷蔵に切れられて沈静化していた櫻子も昂ってきた。立ち上がって雷蔵に言い返す。


「そんなに簡単な事じゃないでしょう!? 私が出て行って馨子だってどう思っているか――」

「そんなの俺が説得するっつってんだろーが!!」

「貴方の説得なんてたかが知れてるの!!」

「どういう意味だ!!」

「どうせ馨子を前にしたら、緊張して何も言えなくなるに決まってるんだから!!」

「うっ……そ、そんな事あるか!! 俺はやる時はやる男だぞ!!」


 ガラッ。


 二人の痴話喧嘩が激しく成って来た時、定食屋の扉が開いた。


「済みません、今日はお休み、で……」


 櫻子は客だと思って笑顔を取り繕ったが、その存在に気付いて表情を強張らせる。


「馨子……」


 雷蔵が呟いた。


「いつ、帰って来たの……?」


 櫻子も馨子の様子を見ながら訊く。


「一時間前くらい」


 馨子は定食屋に入ると、戸を閉めた。

 雷蔵と櫻子の心臓が太鼓の様な音を立てる。煩くて耳を塞ぎたい程だ。

 とりあえず誤魔化さないと、と思いながら雷蔵が思考を巡らす。


「そ、そうか。悪かったな、家にいなくて――」

「母さんなの?」


 雷蔵も櫻子も二の句が継げず。


――聞かれてしまった。


「知ってたよ」


 馨子は真剣な表情で答える。


――今、何と言った?


「知ってた? な、何を?」


 雷蔵は手遅れな事に現実逃避する様に問う。


「櫻子さんが母さんだって事ぐらい、最初から知ってたよ」


 雷蔵と櫻子は顔を見合わせた。

 二人の動揺を無視して馨子が続ける。


「でも言わなかった。二人が言ってくれるのを待ってたの――信じて、待ってたの」


 馨子が微笑む。その笑顔がどこか痛々しくて、二人は顔を背けた。


「こんな風に喧嘩するぐらいだったら最初から言えば良かったね」


 暫くの沈黙の後、雷蔵が重い口を開く。


「何で、櫻子が母親だって判ったんだ」

「判るよ。忘れられる訳無い。この世にたった一人の私の母さんなんだから」


 櫻子が背を向けた。その言葉が嬉しくて感極まってしまったから。


「櫻子さん――母さんだって、私達の事が忘れられなかったからここまで来たんでしょ? 一緒だよ」


 今度は雷蔵では無く、馨子が説得にかかる。

 雷蔵は今更ながらに気が付いた――最初から馨子に協力して貰えば良かったと。


「ねぇ、母さん。もう一度三人でやり直そう。私、母さんは母さんしかいないと思ってるから――他に代わりなんていないから」

「馨子もこう言ってるじゃねぇか、櫻子。もう一度やり直そう。俺だけじゃあねぇ。馨子とも――三人でやり直すんだ」


 櫻子は未だに背を向けている。

 雷蔵と馨子は顔を見合わせた。二人の間に諦めの雰囲気が漂う。


「――本当に私でいいの?」


 櫻子の声が泣いている様に聞こえる。


「「勿論」」


 雷蔵と馨子の声が重なった。

 その声が聞こえた瞬間、櫻子が振り返り、二人に抱き着く。その瞳からは涙が止め処無く溢れていた。

 雷蔵と馨子は櫻子の後頭部越しに顔を見合わせながら笑った。そんな二人の瞳にも涙が滲んでいた。


 ここからもう一度、高千穂家が始まる――三人はそう信じて疑わなかった。



 ***



 櫻子はいつもフミと一緒に寝ているが、その晩だけは高千穂家で寝る事になった。

 馨子は興奮して眠れなかった。右隣りには雷蔵がいて、左隣には櫻子がいる。昔の様に親子三人川の字だ。

 長く夢見た三人での生活が再び始まるのかと思うと気分が高揚した。と言っても、暫くすれば高明と結婚し、本條邸で暮らす事になるのだろうが。

 だが、いつでも帰って来られる。ここに。三人の場所に――その時、一抹の不安が過ぎった。


――本当にそうなのか?


 高明の本当の父――鬼を思い出す。


――どう説明すればいい?


 高明に鬼の血が流れている事は黙っていられる。だが墓場まで持って行けるのか。何かの拍子に口走ってしまわないか。そうなった場合両親は受け入れてくれるのか。


――否。


 鬼と聞いただけで恐怖するに違いない。

 急に将来が不安になった。


 本当に高明と結ばれるべきなのか――。


 だが、高明を愛してしまった――結婚したい程に。

 その事実は変えようも無い。


――では、どうすればいい?


 高明と結婚出来たとして、本條邸で暮らしたとして、高明に鬼の血が流れていると知ったら、あの温厚な辰男だって牙をむく筈だ――何故なら軍の大将だから。鬼を殲滅するのが仕事だから。

 そうなれば、高明の命だって危うい。高明の父だってどうなるか。そして、自分も――。

 高千穂家は櫻子を説得する事で決着がついた。

 だがこの問題は何を以てしても解決出来るものでは無い。


――何故なら、人と鬼は共存出来無いのだから。


 八重子だってそう知っていた。だから山奥でひっそりと暮らしていたのだ。


――じゃあ、自分はどうすればいい?


 そんな事を一晩中考えたが、結局結論は出ず。寝る事も出来無かった。





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