第拾章
高明と馨子は蒸気機関車に揺られていた。
學校が休みの日に二人きりで旅行する事になったのだ。勧めたのは櫻子だった。
景色は木々が増え、自然豊かな田舎へと変わって行く。
機関車の中は意外と人が少なく、ボックス席に二人で向かい合って座っていた。
初めての二人きりの旅路は緊張しつつも楽しいものだった。
だが一つ問題があった――会話が無い。
二人で一緒に居られるだけでもそれはもう幸福そのものだったが、如何せん間が持たない。
高明も馨子も窓の外へ視線を投げ、流れて行く景色を唯々見続けていた。
ふと、馨子が思い付く。
「高明さん、お腹は空いていませんか?」
「そうだな」
高明の視線が馨子を捉えると緊張から慌てて視線を下げた。そこには櫻子が用意してくれた弁当があった。勿論二人分。風呂敷に包まれており、それを広げると大きい弁当箱と小さい弁当箱があった。大きい弁当箱の上に小さい弁当箱が重なっていたので、小さい弁当箱を退けてから、大きい弁当箱を手に取って高明に渡す。
「どうぞ」
「ああ」
馨子から弁当を受け取る時に手が触れ合う。馨子は停止したが、高明は気に留めなかったのかそのまま受け取った。
馨子が手を差し出したまま動かない事を不思議に思い、顔を見ると真っ赤になっていた。
「どうした?」
高明に声を掛けられて体が跳ねた。やっと我に返る。
「あ、いえ、何も……」
「そうか」
馨子は慌てて手を引っ込めた。その手を大事そうにもう片方の手で包み込む。
高明を上目遣いで盗み見るとその目は既に弁当箱に向いていて箸を手に何から食べようかと思案している様子だった。少し苛立ちを覚える。手が触れたぐらいでは高明は気にしないのだろうか? こんな事で一喜一憂する自分がおかしいのか。それとも手が触れる事は高明からすれば取るに足らない事なのか――
「どうした?」
「え?」
再び高明に問われて顔を上げる。
「食べないのか?」
自分の弁当箱は蓋が開いてすらいなかった。
馨子はそれをそのまま風呂敷に包む。
「結構です」
高明は不思議に思う。弁当を勧めてきたのは馨子だったではないか。腹が空いたから勧めてきたのかと思ったが、そうではなさそうだ。
馨子の様子を観察する――顔を顰めていた。
「機嫌が悪いのか?」
「――いいえ」
更に眉間の皺が深くなった。
「こっちがいいのか?」
まだ手を付けていなかった弁当を差し出す。
「いいえ」
何が気に入らないのか全く判らない。
どうしたら馨子の機嫌が直るのだろうか――。
「馨子」
「――はい」
名を呼んでも目は合わない。
とりあえず素直な気持ちを伝えてみる事にした。
「好きだ」
馨子は目を見開いた――やっと目が合った。
頬が徐々に染まっていく。
「――はい」
馨子は下を向いたが眉間の皺は消えていた。機嫌は直った様だ。
高明はそれを見て満足した。
「食べよう」
「――はい」
二人は流れて行く景色を尻目に、黙々と弁当を食べ進めるのだった。
***
小一時間揺られて目的地に着いた。そこは昔、馨子が住んでいた場所――山に囲まれた小さな寒村だった。
「ここに住んでいたのか」
高明は感慨深いものを感じながら、その場所を眺めていた。
「正直、憶えていません……」
「――そうか」
頬を撫でる風は優しいと思うが、十年前に住んでいた場所等あまり記憶に無いのが現状だ。
「小さな村だ。十年で大きく変わる事は無いだろう。どこか見知った場所があるかもしれないし、馨子を知っている村人もいるかもしれない。歩くだけ歩いてみよう」
「はい」
高明が歩き出したので、馨子もその後を着いて行く。
その村はとても長閑な村だった。畑や田んぼが大半を占め、民家がぽつぽつとあるだけ。
若者は町へ出て行ってしまったのか老人が目立つ。ある老人は腰を擦りながら畑仕事に勤しみ、ある老人は田んぼを耕していた。
馨子は何か手掛かりがないかと辺りを見回すが、まだ記憶を揺さぶるものは見付からない。
「何か思い出したか?」
「いいえ……」
「そうか」
時折、高明が振り返りながら様子を見てくれるが、その期待に応えられる物は何も無かった。その内、村を一周してしまった。
「どうだ?」
「何も……」
馨子は首を横に振る。
「そうか」
だが、高明は左程気にしていない様だった。
「一緒に行きたい場所がある」
「え?」
「こっちだ」
高明がまた歩き出す。
――この村を知っているのだろうか?
そんな考えが過ぎった。
そうでなくては「行きたい場所がある」とは言わない筈だ。
それにこの村を見た時どこか懐かしむ様に微笑んでいた。高明の様子が気になってその後を追う。
その大きな背中の前方を視線で辿る。どうやら山の方へ行く様だ。
山に何があるというのか――。
「私も昔ここに住んでいた」
「え?」
まさかの発言に驚く。
だが冷静に考えればそうだ。十年前に会っているのだから同じ場所に住んでいなければ有り得無い。
馨子は村へ思いを馳せる。
「ここに住んでいたのなら村のどこかではないのですか? 何故山へ?」
「私は山奥に住んでいたのだ」
「山奥に……?」
この先に人が住める様な場所があっただろうか――と考えるがどうしても何も思い出せない。まるで記憶に鍵がかかったかの様に。
もしかしたら思い出したくない何かがあるのかもしれない――そう思うと足が止まった。
背後の足音が止まった事に気付き、高明も足を止め、振り返る。
「どうした?」
「私はここで待っています」
高明は不思議に思いながら、馨子の元へと戻る。
「何か思い出したのか?」
「いえ、そうでは無いのですが……」
俯く馨子の手を取る。
「一緒に来て欲しい。心配いらない。何かあったら私が守る」
高明の頼もしい言葉に、馨子は強めにその手を握った。高明が歩き出すと、そのまま着いて行く。この先に何があるのか――。
馨子は眉間に皺を寄せながら大きな心音が高明に聞こえない様に空いている手で胸元を押さえた。
***
進んで行くと徐々に獣道になってきた。それが馨子の不安を煽る。その度に繋がれた手を見詰めて気持ちを切り替えていた。
「もう直ぐだ」
「はい……」
こんな獣道の先に何があるというのか――。
五分程歩くと高明の言う通り、開けた場所に出た。
古いが大きくて立派な平屋が建っている。
手入れがされていない様で庭は草が無造作に生えていた。
「ここは……?」
「私が昔住んでいた家だ」
「そう、ですか……」
だとしたらもう誰も住んでいないのだろう。荒れ果てているのも納得した。それと同時に悲しく思う。自分の実家が廃れてしまって高明はどんな思いなのだろうかと。
「馨子も来た事がある筈だ」
「私、ですか?」
高明に言われてよくよく見てみるが、知っている様な知らない様な……どちらにしろ十年前とは大分変わっている。正直な所判らなかった。
「よく判りません……」
「……そうか」
高明は少し残念そうにまたその平屋を見詰めた。
ここまで来れば何か思い出すだろうと思ったが――やっぱり馨子はあの時の少女では無いのかもしれない。
だからといって婚約破棄をする気は無いが。
高明は馨子から手を離し、更に進んで行く。馨子は慌てて後を追った。
「どうなさるんですか?」
「中へ入れないかと」
「え?」
中へ入ってどうするのか――。
高明の行動は馨子には理解出来無い。この様子だと中に人がいる事は無い。いても虫ぐらいのものだろう。或いは山に住み着いている動物が住処にしている可能性もあるが。
高明が引き戸に手をかけると木材が
平屋の中は静まり返っていた。雨戸も閉まっているので暗く、それが不気味さを増す。
馨子はそっと高明の腕に自分の手を添えた。安心させる様に高明がその手を取る。
「大丈夫だ。何もいない。少し見てみるだけだ」
「はい……」
馨子を安心させると又前を向く。
「中は当時のままだな」
そう呟くと躊躇無く中へ進んで行く。馨子も辺りを見回しながらはぐれない様に後を追う。
もう荒廃した建物なので土足で歩き回った。
縁側まで来ると雨戸を開ける。玄関と同じ様にここも建付けが悪くなっていた。また力づくで開けると光りが差し込み、馨子も少し安心出来た。改めて辺りを見回す――。
「ここ……」
記憶が何かを訴えてくる。
「どうした?」
高明が振り返ると馨子が頭を押さえながら俯いたので心配になり、近寄った。
馨子の脳内には同い年の男の子の口元が浮かんでいた――八重歯? 若しくは、牙……? 兎に角歯が特徴的な男の子だ。
「……羊羹」
馨子が呟く。
「男の子と一緒に、羊羹を食べた様な……」
男の子の傍らには、優しそうな女性――母親だろうか?
その女性は優しく微笑んでくれて――
「――子」
それから、それから――。
「――馨子!」
高明に体を揺さぶられながら名を呼ばれて我に返る。
「高、明、さん……」
その瞳は戸惑っていた。
「どうした?」
「あ、いえ……」
あの記憶は何だったのだろう? そして、あの特徴的な歯をした少年は誰だったのだろう?
高明の方を見る。口を確認するが、高明の歯は普通だ。
――高明では無い?
一緒に羊羹を食べた歯が特徴的な男の子と、その母親らしき女性――。
一か八か訊いてみる事にした。
「高明さんは、ここで誰と住んでいたんですか?」
「母と――父と、暮らしていた」
だとしたら男性も一緒にいた筈だ――じゃあ、さっきの記憶の人物は誰だ?
だがまだ手掛かりはある。
「よ――」
「よ?」
「羊羹は!? 羊羹は、お好きですか……?」
父親なら出稼ぎで留守にしていたっておかしくはない。記憶の中で食べていた物が一致すれば高明の可能性が高くなる。
「そうだな、昔はよく食べていた」
――高明だ。
「私、思い出したかもしれません」
高明の目が大きく見開かれる。
「私、ここに来た事があるかもしれません」
「本当か……? 本当にここに来た事があるのか!?」
高明が馨子の肩を思いっきり掴む。
「痛っ……」
「あ、済まない……」
直ぐに冷静になり、手を離す。
「思い出したのか?」
「少しだけ……同じ年頃の少年とその母親らしき方を――」
「そうだ! それが私だ!」
「で、ですが、その男の子は歯が特徴的で……」
「歯が……」
高明が後ろめたい事がある様に視線を逸らす。
「一緒に羊羹を食べた記憶が蘇って来て……その時に見えたんです。その少年の歯が。八重歯――いえ、牙の様に尖っていました」
高明は黙ったまま俯いている。
「高明さん?」
「あ、いや……」
話しかけられてやっと我に返るが、やっぱり視線は交わらない。
――あの少年は高明ではないのか?
その時、のしっという足音が聞こえ、縁側からそれが姿を現した――。
「きゃあああ!!!」
馨子が悲鳴を上げる。高明が腰元の刀に手を添えながら急いで振り返ると、そこにいたのは――鬼。
高明が目を見開く。
「馨子、奥の部屋へ」
「は、はい!」
馨子は出来るだけ奥の部屋へ走って逃げる。
だがこれでいいのか? 雷蔵も高明に救って貰ったと言っていたから腕は確かなのだろうが、若し、若しも高明に何かあったら――。
馨子は武器になる様な物を探した。
***
高明は鬼と対峙していた。
――だが、様子がおかしい。
「どうして、下りて来たの?」
高明は刀から手を離し、臨戦態勢を崩す。そして、話しかける。子どもが親に話しかける様に、甘える様に――。
「……ヤエコハ」
「母さんなら十年前に病死したよ」
「……ソウカ」
「ここにいたら危ない。彼女が隠れている内に逃げて」
「……ヤエコニハ」
「もう会えないよ」
「……ソウカ」
馨子が台所で見つけた包丁――と言っても錆び付いていて使い物になるかどうかは分からないが――を手に戻って来て物陰に潜んでいると、高明は戦う所か鬼と何かを話している。
驚愕した――鬼が人語を話している。
そんな鬼は見た事が無い。何故? 高明とあの鬼はどういう関係にあるのだろう? それに高明に戦う意思が見えない事も不思議だった。雷蔵の時はどうしたのだろう? 戦わなかったのだろうか? だが戦わずしてどうやって鬼を退治出来ようか。疑問ばかりが浮かんでくる。
「山へ帰って。まだ戦争は終わった訳じゃない。父さんだってここにいたら危ないよ」
――父さん?
カラン――馨子の手から包丁が落ち、音が鳴る。
鬼と高明が同時に馨子を見付けた。
「馨子!? 奥の部屋へ行けと言っただろう!」
高明に叱られたが、それどころではない。
「――父さんって、どういう事ですか?」
馨子は高明が好きだった――筈だった。
なのに今は恐怖で一杯だ。
蒸気機関車に揺られていた時は一緒にいられるだけで幸せだったのに、今ではその光景が硝子が割れた様に崩れていく。
――否定して欲しい。
自分の頭の中にある可能性を、高明に否定して欲しい。
全身が震える。止まらない。涙が溢れてくる。
私は誰を――何を、好きになった?
「……コロスカ」
鬼がのしっと縁側に足をかける。
馨子の肩がビクッと跳ねた。
「止めて!!」
高明が鬼の前に手を出して制止する。
「彼女は婚約者なんだ。そんな事は許さない」
「……コンヤクシャ」
「父さんと母さんみたいな関係だよ」
「……ソウカ」
「兎に角、父さんは山へ帰って」
「……マタアエルカ」
「もう会うべきじゃないよ……」
「……ソウカ」
鬼はそれだけ言うとのしのしと縁側から消え、山へと帰って行った。
馨子は怯えながらもその横顔がどこか寂しそうに見えて、自分が悪い事でもしたかの様な気になった。
だが鬼が去った事で安堵したのか馨子はその場にへたり込む。視線は高明に向く――その背中は覚悟を決めていた。
「私の話を聞いてくれるか、馨子」
馨子は答えなかった。今はまだ恐怖が勝っていたから。
「そのままでいい」
高明は馨子と距離を取ったまま、面と向かって立った。逆光で殆ど見えなかったが馨子はそれを見て涙が溢れる瞳を大きく見開いた。
高明の歯が徐々に変形する――それは、八重歯を超え牙に変わった。
そして學生帽を取ったその頭にはさっきの鬼同様、二本の角が生えた。
恐怖から座ったまま後ずさる。声すら出せない。涙は溢れるばかり。
――馨子に嫌われるかもしれない。
そう判っていても。一緒にいればいづれは露見する事。早いか遅いかの違いだ。正直に自分の正体を話す事にした。
「私は、鬼と人間の間に生まれたのだ――」
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