第玖章


 雷蔵と櫻子は絶句した。

 暫くして二人共我に返る。


「は、破棄……? 何で……?」

「どうしたの? 本條さんに何かされた?」


 混乱する二人だが難とか頭を回転させたのは櫻子。一番に馨子の身を案じた。

 馨子はかぶりを振る。


「何も。本條さんはいい人よ」

「じゃあ、何で……」

「違うと思うの」

「違うって?」

「本條さんの好きな人」

「何だ。そりゃあ、向こうから言って来たんだから馨子を好きに決まってらぁ」


 雷蔵からすれば婚約の話は自分が頼まれたのだ。高明の好きな人は馨子に決まっている――と思い込んでいる。

 だが、馨子はそこがどうしても納得いかなかった。


「だって理由も不十分だし……過去に会った事があるらしいけど、私憶えて無いから。本條さんが好きなのは、私じゃないと思う」


 雷蔵は思いっきり髪を掻き毟る。


「わっかんねぇなぁ! 高明はお前に何て言ったんだ!? 全部話せ! 一から十まで! 全部!!」

「ちょっと――」


 櫻子が止めに入るが馨子は「うん、判った」と笑顔で答えた。

 その笑顔が憐れに見えて雷蔵も口を噤む。こういう時、どう声を掛けていいのか判らなかった。そんな雷蔵の視線を受け、櫻子が馨子を気遣う。


「馨子ちゃん、無理しなくていいのよ」

「ううん。無理なんてしてないよ、櫻子さん。ちゃんと話さないと納得出来無い事だと思うから」


 櫻子の心配を余所に、馨子は雷蔵へ向き直る。


「本当に御免ね、父さん。一番喜んでくれてたのに……御免なさい」


 馨子が三つ指を付く。


「何してんだ、洒落臭ぇ。俺に頭なんか下げんな」

「そうそう。こんな人に頭下げるなんて勿体無いわ。寧ろ、この人が頭を下げるべきなんだから」

「なーんで俺が馨子に頭下げるんだよ!?」


 馨子は頭を上げると口に手を当てて上品に笑う。


「二人は本当に仲がいいね」

「「どこが!!」」


「羨ましい」と続けた馨子に愁いを感じて、さすがに二人は一時休戦する事にした。


「本條さんから話を聞いたの」

「「話?」」


 馨子は静かに頷く。


「私達は会った事があるんだって。十年前くらい……私達が六歳だった頃に。その時に会った女の子が初恋の子なんだって」


 櫻子はその十年前に何か引っかかりを覚えて、右手を顎に持って行きながら小首を傾げる。


「でも、十年も前の事なんて憶えて無いから、本條さんと会っているかどうかも判らなかったの。だから本條さんの言う事をいまいち信じられなくて……だから、本條さんに訊いてみたの。私がその初恋の女の子じゃなかったら、それでも私を好きだって言えるかって……本條さん、黙っちゃった」


 馨子が二人の方を向いて笑うと櫻子が小首を傾げており、雷蔵も難しい顔をしていた。そして、「あっ!」と櫻子が声を上げる。


「神隠し!!」


 櫻子は雷蔵へ同意を求める様に振り向いた。


「「神隠し??」」


 馨子と雷蔵は困惑する。


「二日間ぐらい行方不明になった事があったじゃない!?」

「え……」


 雷蔵は必死に十年前を思い出そうとする。


「そんな事あったかぁ……?」

「あったわよ!! 何で憶えて無いの!? そんなんだから作家になれないのよ!!」

「それは関係ねぇだろ!!」


 雷蔵の怒りを余所に、櫻子は当時の事を思い出そうと真剣に考える。


「その時、確か……男の子と一緒に遊んだって話していなかった?」


 その話で雷蔵も思い出したのか、「ああ!」と声を上げる。


「そうだそうだ!! そんな事言ってた!! その男の子が高明なんじゃねーか!?」

「それよ!! それしかないわ!!」


 二人は腑に落ちたのか盛り上がっているが、馨子は何の事だかさっぱり判らない。


「何の話をしているの……?」


 今度は馨子が小首を傾げる番だ。

 雷蔵と櫻子が二人揃って顔を近付けて来る。


「高明が言っている事!! あながち嘘っぱちでもねーって事だよ!!」

「寧ろ本当の事を言っていると思うわ!! 馨子が本條さんの初恋相手だって!!」


 二人の迫力に押されながら、馨子の体は徐々に下がって行く。

 その中で何か違和感を覚えた――が、それを探す時間は与えて貰えなかった。


「高明とちゃんと話せ!! 馨子だってきっと思い出す筈だ!!」

「あんな大事件だったんだもの!! 忘れている事がおかしいわ!!」

「そうだそうだ!!」

「う、うん……」


 二人の勢いに負けて馨子は思わず頷いてしまった。だが問題がある。


「でも、どうやって思い出すの?」


 正直高明と話しただけで思い出せるとは思えない。雷蔵と櫻子が二人同時に唸る。


「昔、住んでた場所にでも行ってみるか? 何か思い出せば、高明との婚約ももう一回考えて貰えるかもしれねーし」

「そんなお金があるの? ここからだと遠いから機関車でも使わないと無理でしょう?」

「それはそうかもしれねぇけどよぉ……」


 カンカンカン――。


 その時、外の階段を上って来る音が聞こえた。


 コンコンコン――。


 そして、戸を叩くノックの音――更に。


「本條だ。馨子はいるか?」


 高明の声だった。


「どうして……?」


 馨子は驚きから戸惑う。

 自分は高明を否定したのに高明はまだ自分を求めてやって来た――それとも正式に婚約破棄を受け入れる旨を伝えに来たのか? だとしたら使用人に任せればいい。

 高明本人が直々に来たと言う事は――。


「馨子と話がしたい」



 ***



 馨子の意思と反し、雷蔵と櫻子は「ちゃんと話すべき」と言い残して高明を招き入れ、二人は出て行った――と言っても扉の向こう側で息をひそめて馨子と高明の会話を聞いていたのだが。

 高明は馨子を凝視している。だが馨子はずっと視線を逸らしていた。


「馨子」

「……はい」


 返事はあるが視線は未だに交わらない。


「悪かった」

「え……」


 高明が頭を下げた。やっと馨子の瞳が高明を捉える。


「な、何を――」


 慌てて止めさせようとしたが高明が言葉を続けた。


「馨子の気持ちを考えず行動してしまった」


 高明は馨子に婚約破棄を申し入れられてからずっと考えていた。確かに独り善がりだったと。


「不安、だっただろう」


 馨子は驚いた――不安? 自分は不安だったのか?


「私が馨子を本当に愛しているのか――だから訊いたのだろう?」


 馨子は下を向き考える。


「私は今の馨子では無く、昔の少女を追い求めている。それは確かだ――馨子の言う通りだ」


 その言葉が胸に刺さる。


「だが――」


 高明の声が優しくなり、顔を上げた。


「今の馨子も、私には必要だ」


 視界が潤む。


「馨子が初恋相手なら尚の事いいが、私が求婚したのは今の馨子だ。だから私が好きなのは今の馨子だ。婚約破棄は受け入れられない」


 高明の真剣な表情がその想いを伝えてくれていた。

 きっとこの言葉が欲しかったのだ。馨子はそう思った。


「有り難う御座います……」


 ずっと自分に自信が無かった。だが高明の言葉が馨子の心を救ってくれた。


「私も、本條さんが好きです」


 素直にその言葉が出て来た。


「――そうか」


 高明は一瞬驚いた後、嬉しそうに微笑んだ。


「気持ちを伝えて貰えるという事はこんなにも嬉しい事なのだな」

「そうですね」

「だが少し……恥ずかしいな」

「ふふっ、はい」


 高明は顔を隠す様に拳を口の前に持って行く。

 馨子は嬉しそうに微笑んでいた――涙を浮かべながら。

 一件落着――だが戸が勢いよく開き、雷蔵と櫻子が入って来た。


「二人共!? ――まさか、ずっと話を聞いていたの?」


 馨子はいつもの調子に戻り、気色ばむ。


「そんな事より、馨子! 目出度いな!! これで結婚までいけば将来安泰だ!!」

「そうね!! 二人は十年前から結ばれる運命だったのよ!!」

「十年前から……?」


 櫻子の言葉に引っかかりを覚えたのは高明。

 馨子へ顔を向けると、「まさか――」と喜びに満ちた驚きが顔全体に広がって行く。


「あの少女はやっぱり――」

「い、いえ! 櫻子さんがそう言っているだけで、私は憶えていません……」

「そ、そうか……済まない」

「いえ……」


「いーや」と櫻子がまた余計な口を挟む。


「絶対に二人は十年前に会っているわ」

「お前なぁ。もう丸く収まったんだから、十年前の事なんかどうでもいいだろ」

「良く無いわ!! 十年越しの恋なんて中々無いじゃない!? ここではっきりしておかないと!!」


 半分面白がっている。雷蔵は呆れた。


「でも、六歳の頃の事なんて馨子が思い出す訳ねぇだろ? 諦めろ」


「それは……」と珍しく雷蔵に言い負かされる櫻子。


「思い出して貰えなかったら、本條さんだって悲しいわよね?」


 今度は高明に縋る。


「まぁ……それは――」


 視線は馨子へ向いていた。馨子は申し訳無さそうに俯いている。

 馨子だってそれが本当にあった出来事なら思い出したい。だが思い出せないのだ。どれだけ記憶を辿っても。

 確かに本條邸で少しだけ何かを思い出せそうな気がした。しかしその記憶も高明の言っている昔の記憶なのか判らない。本当にその記憶ならその内思い出せるのかもしれないが。


「気にすんな、馨子!」


 雷蔵に思いっきり背中を叩かれて、馨子は我に返った。


「痛ったいなぁ」


 背中を擦りながら――と言っても叩かれた部分は丁度手の届かない所だったが――雷蔵を睨みつける。


「高明は今の馨子がいいって言ってくれてんだ! 何も気にするこたぁねぇ。な、高明!」

「ああ」


 雷蔵の視線を受けて高明がしっかりと頷いた。

 馨子はそれに微笑んで返す。


「――有り難う御座います」


 馨子の言葉に高明も微笑んだ。

 その場はそれでいいという空気になってしまったが、櫻子だけはどうしても納得がいかなかった。

 当時の事を何度も思い出す。だがそれ以上に思い出せる記憶が無い――何故なら当事者では無いから。

 きっと櫻子が馨子の立場でも変わらないだろう。思い出せ無い事に苦悶する筈だ。だから馨子も心のどこかにもどかしい気持ちがあるのではないかと思った。これで解決した訳では無い。何か他に方法を考えなければ――といっても直ぐに思いつく事では無かったが。



 ***



 数日後。

 それぞれがいつもの日常に戻っていた。

 馨子は仕事に勤しみ、高明は學校へ通う。

 唯、一つだけ違う事がある。


――二人は晴れて正式に婚約者となったのだ。


 そもそも雷蔵と辰男が書面を交わした時点で正式な婚約者ではある。だが、二人がその関係に納得出来た事が大きい。

 馨子は仕事に一層精を出し、高明も勉強に一所懸命――いつもその心にはお互いがいた。馨子の心には高明が、高明の心には馨子が。その存在を思い出すだけで心が躍り、頬が綻ぶ。いつもの日常に大きな変化を加えて、新たな日常が始まっていた。


「失礼」

「いらっしゃ――あ」


 高明が定食屋の暖簾を潜ると、馨子が元気良く挨拶をした――が、直ぐに頬を染めた。


「い、いらっしゃい……」

「ああ」


 高明は馨子を見下げながら、馨子は足元を見下げながら頬を染めていた。

 そんな様子を櫻子は微笑ましく見守っていた。


「ほらほら、そんな所に立ってないで! 本條さん座って!」

「ああ」


 高明は適当な位置に座って待っていた。いつも注文する物は決まっている――鯖の塩焼き定食だ。

 櫻子はその準備に取り掛かった。馨子はいつまでも高明に見惚れている訳にもいかず、お客が帰った後の机を拭いていた。その手は緊張から震えていたが。

 最近、高明は學校が終わってから定食屋に寄る事が多くなった。馨子に会う為に。これは櫻子が提案した。本来なら學校が終わる時間より早く店仕舞いをするのだが高明の為だけに開ける様になった。だから定食屋の前の看板には『閉店』と書いてあるが、高明だけは入る事が許されている。貸し切りだ。この時間なら馨子と高明が毎日の様に顔を合わせられると櫻子は考えたのだ。


「櫻子さん、他に何かありますか?」

「いいのよ、こっちは。本條さんと話しておいで」

「あ、はい……」


 馨子は頬を染めながら台拭きを置き、高明の元へ向かった。


「本條さん……お話し、しませんか……?」

「ああ」


 初々しい二人を見ながら櫻子も微笑んでいた。

 馨子が何を話そうかと思案していると高明が口を開く。


「今日は、頼みたい事がある」


 珍しい話に高明の方を見ると、真剣な眼差しとぶつかる。でも、逸らしてはいけない気がして、そのままずっと見つめていた。


「私の事を、下の名で呼んで欲しい」

「え?」


 さすがに驚いた。


「そ、それは……」

「いい」

「ですが……」

「呼んで欲しいのだ」


 幾ら高明の願いだと言っても、こればかりは厳しい。飽く迄財閥と町娘の関係性は変わらないのだから。


「婚約者だろう?」


 この言葉には弱かった。


「――高明、さん」

「それでいい」

「はい……」


 何とも言えない心地だった。嬉しさと申し訳無さと恥ずかしさとが混じり合い、形容し難い感情が生まれた。これをこれから毎日続けなければならないのかと思うと、又形容し難い感情に襲われ、息苦しくなる。

 徐々に距離が近付く二人。

 だがまだ足りない――と思っているのは櫻子。

 どうにかして馨子の過去を思い出させたい。その事で頭が一杯だった。だが良案を思いつかない。


――待てよ、と。


 あの時、雷蔵が何か言っていなかったか?


『昔、住んでた場所にでも行ってみるか?』


――それだ!


 あの時は高千穂家の金銭事情を察して否定してしまったが高明と和解した今金銭的な心配はいらない。高明には負担になるかもしれないが相談してみるだけしてみてもいいかもしれない。

 櫻子は少し焦げてしまった鯖の塩焼き定食を高明の元へ持って行き、話を持ち掛ける事にした。


「本條さん、提案があるのですが――」





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