第拾壱章


「鬼と、人間の――?」


 にわかには信じられなかったが、実際目の前に鬼の角と牙を生やした人間がいる――矛盾している様な気もするが現実なのだ。


――だがそれが馨子の記憶を刺激した。


 遠い昔の記憶を――。



 *****



「とうさん……かあさん……」


 六歳の馨子は道に迷っていた。一人、蝶々を追いかけて両親からはぐれてしまったのだ。泣きながら歩いている内に山の方まで来てしまった。前へ進めば進む程獣道へと変わって行く。空も暗くなってきた。


「ここ、どこ……?」


 辺りを見回すが知らない場所だ。それが馨子の不安を煽る。


「――わっ!」


 歩き出そうと一歩踏み出すと、右足の鼻緒が切れ、転んでしまった。咄嗟に両手を前に突き出した拍子に、掌も怪我をしてしまう。


「いたい……」


 母親が作ってくれた新しい山吹色の着物も土で茶色く汚れてしまった。

 嫌な事は重なると言うがこれではあまりにも不憫ではないか。

 馨子の瞳に涙が浮かぶ。早く帰りたい。早く帰って大好きな両親に抱き締めて貰いたい。そんな思いで立ち上がった。


「……だれ?」


 ビクッと肩を震わせてから勢いよく振り返ると、そこには一人の少年がいた。


「だれ……?」

「ぼくがきいたんだけど」


 警戒心からか、二人の間に変な沈黙が生まれる。


「あ、えっと……か、かおるこ……」


 馨子が問われている事に気付き、やっと声を絞り出す。


「かおるこ……いいなだね」

「ありがとう……」


 辺りが暗くよく見えないが、外見は到って普通だ。着物を着た少年。だがどこか不思議な雰囲気を纏っていた。その少年に馨子は怯える。


「ぼくはたかあきら」

「たか、あきら……?」


 小さな村だ。同じ年の頃の少年少女の名は皆知っている。だが聞いた事の無い名だった。

 高明が一歩近付いて来る。馨子は一歩下がった。


「なんでにげるの?」

「だ、だって……」


 怖いから――とは言い辛かった。

 高明は近付くのは止めて率直な疑問を訊く。


「ここでなにしてるの?」

「え……まよったの……」


 馨子が今にも泣きそうな顔で俯いた。


「うちにくる?」

「え……?」

「かあさんにおくってもらえばいいよ」

「うちへかえれるの?」

「うん」


 そこでやっと馨子の顔が明るくなった。どうやらこの高明と言う少年は怖い人物では無いらしい。

 高明が右手を差し出してくる。


「おいで」

「うん!」


 この少年についていけば家に帰れるのだと思うと不安が消えた。

 馨子は鼻緒の切れた下駄を持って、空いている手で高明の手を取る。


「どうしたの?」

「なにが?」

「げた」


 そんな様子に高明が気付く。


「はなおがきれちゃったの……」

「ぼくなおせるよ」

「ほんと?」

「うん。かして」


 高明は馨子の手を離して下駄を受け取り、しゃがみ込む。「たしか、こうして……」と思い出しながら独り言ち、鼻緒を結ぶ。


「こう……かな?」


 親から習ったのだろうがかなり歪な形をしていた。現に馨子が履いて歩くと又直ぐに切れてしまう。

 高明は考えた末に、自分の下駄を脱ぎ、馨子に履かせてやった。


「いいの?」

「うん。ぼくいつもはだしだから」

「……ありがとう」


 その言葉は信じられなかったが、高明の優しさに甘える事にした。高明は馨子の下駄を片手に持ったまま、再び二人は手を取って歩き出す。徐々に森の奥深くへと――。


「ほんとうにこっちでいいの?」

「うん。うちはこっちにあるんだ」


 安心したのも束の間。また不安が蘇ってくる。

 だが暫く歩くと高明の言う通り、開けた場所に出た。


「わあ!」


 大きな庭に大きな平屋――こんな家は見た事が無い。

 周りは木々に囲まれていて、まるで隠れ家の様な雰囲気を纏っていた。


「ここがぼくのいえ」

「すごい! おっきいね!」

「そうかな」


 高明は馨子に褒められたのが嬉しかったのか、無表情ながら頬を染めていた。

 縁側の雨戸は開いていたが高明はその隣の引き戸を開けて中へ入った。


「かあさん、ただいま」


 長い土間の先に台所があり、そこには綺麗な女性が一人立っていた。美味しそうな匂いも漂っている。夕食を作っている様だ。


「お帰り、高明――と、誰かしら?」


 女性はしゃがみ込み、馨子と同じ目線の高さになって優しそうに微笑んだ。


「かおるこだよ」

「高明、女の子を呼び捨てするんじゃありません」

「なんで? かあさんはぼくをよびすてにするよ?」

「母さんはいいんです」


 その綺麗な女性は立ち上がって両拳を腰に持って行くと、堂々と理不尽を突き付ける。

 高明は目を細めながらその女性を見上げた。


「母さんにそんな顔を向けるんじゃありません」


 軽く高明の頭に拳骨すると、又ふんぞり返った。

 高明は振り返って馨子に訴える。


「ぼくのかあさんひどいでしょ」

「うん……」

「え?」


 高明の母親――八重子やえこは素っ頓狂な声を上げた。

「だ、大丈夫よ! えっと……かおるこちゃん?」と確認する様に訊ねると馨子が頷く。「かおるこちゃんには何もしないから! これは飽く迄教育だから!」


「ふーん」


 高明は先程と同じ目で八重子を見上げる。高明の背中から馨子も怯える目を向けながら空いている手で高明の着物を掴んだ。

 そんな様子に笑顔が引きる八重子。


「判った! 母さんが悪かったから!」


 そう言いながら高明の頭を撫でた。


「痛いの痛いの飛んでいけ~」

「そんなのでとんでいくならしょうどくもほうたいもいらないよ」

「そうよねぇ……」


 どっちが大人なのか判らない。そんな二人のやり取りが面白くて馨子は小さく笑った。


「で、かおるこちゃんはどうしたの?」

「かえりかたがわからなくて……」

「迷子ね。いいわ。今日はもう遅いから泊っていきなさい。明日明るくなったら送るから」

「いいんですか?」

「勿論!」


 八重子の笑顔に馨子も釣られて笑顔になる。八重子はどこか人を惹き付ける才があった。


「それにしても綺麗な着物が台無しね」


 馨子の着物は胸元から足元にかけて土まみれだった。


「ころんじゃって……」

「じゃあ、着物も洗っちゃいましょう! 大丈夫、明日には乾くわ」

「ありがとうございます」

「いいのよ。えっと、着替えは高明の着物で大丈夫だと思うけど――」

「ゆうはんはどうするの?」


 高明に言われて思い出す。作っている最中だった。


「そうだったわね。高明、ちょっとお鍋見てて」

「うん。かあさん、これも」

「あら、鼻緒も切れたのね。直してあげるわ」


 高明から馨子の下駄を受け取ると、気付く。


「高明! あんた裸足じゃないの!?」


 あれやこれやと忙しない。


「かおるこにげたかしてあげた」

「あ、ほんとね」


 馨子の足元を確認すると、高明の下駄を履いていた。「ふふっ」と、八重子は怒る事無く笑った。


「やるじゃない、色男。これは将来期待出来るわね」

「なんのはなし?」

「何でも無いわよ――待って、ちょっとあんた足見せなさい」


 高明を抱き上げて、台所の床に座らせてから足の裏を確認する。血だらけだった。


「あーあ、こんなになっちゃって……こう言う事を早く言いなさいよ」

「べつにぼくだいじょうぶだから」

「母さんの心臓に悪いのよ」


 今度は掌で高明の額の辺りを軽く叩く。

 二人のやり取りを見ながら寂しくなってしまった手を――高明と繋いでいた手を凝視した。その手を握りしめながら両親を思い出す。父は、母は、今必死になって自分を探しているのだろうか。だとしたら一刻も早く帰らなければ。だが子どもが一人で知らない夜道を歩くのは危ない事くらい馨子も判っていた。ここは八重子に頼るしかない。


「かおるこちゃん!」


 馨子が思案していると手際良く高明の処置をした八重子が目の前に戻って来ていた。


「大丈夫よ、ちゃんと送り届けるからね。お父さんとお母さんにも私からちゃんと説明するわ」


 馨子は小さく頷いた。


「じゃあ、下駄脱いで、上がっておいで」


 高明の下駄を脱ぐと、ちゃんと揃えて置き直す。


「あら、礼儀正しい。偉いわね」


 八重子に頭を撫でられると母を思い出して少し安堵した。そんな馨子を見て八重子も一安心する。「下駄も直さないといけないし、服も洗いたいわね……夕飯もまだ出来てないし――」とやる事が一気に増え、何から手を付けようかと思案する。


「あ、そうだ! 風呂入りなさい! 風呂!」


 風呂に入って貰えばその間に服も洗えるし、料理も出来る。


「やだ」

「何で?」

「だって……」


 八重子に処置をして貰ったからと言ってもまだ足の裏が痛い。風呂に入ったら傷口にしみるに決まっている。だが、馨子の手前言い辛かった。

 高明が渋るので、馨子に言う。


「じゃあ、かおるこちゃん先に入っちゃって!」

「え?」

「大丈夫! 普通の風呂だから! あ、着物一人で脱げる?」

「はい……」

「じゃあ、洗っちゃうわね」

「わかりました」

「高明! 風呂場教えてあげて!」


 高明は思いっきり嫌そうな顔をしたがその時にはもう八重子の目は鍋に向いていた。

 高明は足を庇いながら馨子へ視線を向ける。


「こっちだよ」

「うん……」


 少し変な歩き方をする高明にやっぱり足が痛いのだと察する。普段から裸足だなんて嘘を吐いてまで自分に下駄を貸してくれた高明の優しさに感動しながらも申し訳無さが拭えない。


「あし、だいじょうぶ?」

「うん。すぐなおるよ、こんなの」


 高明は平気な振りをしているが傍から見れば明らかにおかしい。気にしていると高明が振り返った。


「このさきがふろば」

「あ、うん――」


 高明の指先を辿ると薄暗くて不気味な廊下が続いていた。広い分風呂場まで距離がある。


「こ、ここをとおるの……?」

「そうだよ」


 申し訳無いと思いつつ、言わずにはいられなかった。


「ついてきて」


 高明の着物の袖を掴む。


「え?」


 その手は震えていた。高明自身は何度もここを通っているから慣れているが、初めてで、しかも、女の子からすればこの薄暗さは怖いのだろうと思い至る。


「わかった」


 高明は安心させる様に手を握った。馨子は俯いていた顔を上げて安堵した視線を高明に向ける。その表情に言い知れぬ感情を抱き思わず目を逸らした。馨子は不思議に思ったが高明が手を繋いでくれた事で安堵し、あまり気にしなかった。

 二人は手を繋いでその薄暗い廊下を歩き出す。高明からすれば一瞬だったが馨子からすればお化け屋敷の中を歩いている様だった。木造の家だ。体の重みが加わる度に床が軋む音がする。そんな小さな音すらも何か恐ろしいものの様に思えてならなかった。手を繋ぐだけでは足らず、縋る様に空いている手で高明の着物を掴む。


「ついたよ」

「え? あ、うん……」


 いつの間にか廊下を超えて明るい脱衣所に着いていた。この明るさなら問題無い、と安堵から軽く息を吐く。

 それにしても自分の家の何倍の広さなのだろうかと驚く。

 とりあえずここまで連れて来て貰ったのだからと礼を言う。


「ありがとう」

「ううん。じゃあ、またあとで」


 それだけ言うと、高明は脱衣所を出て行こうとする。

 馨子はそれに気付くと再び高明の着物の裾を掴んだ。


「――なに?」


 高明は不思議そうに振り返る。


「まってて」

「え……」

「おねがい……ひとりだとさみしいから……」


 先程まで繋いでいた手はやっぱり震えていた。


「わかった。ろうかでまってるよ」

「ここにいて……」

「え」


 廊下で待っていると言いつつ八重子に一言断わる為に少しだけこの場を離れようと考えていた。だがそれを見抜かれたのかもしれない。馨子からすれば一時たりとも一人になりたくないのだろう。


「うん」


 八重子に怒られる事は慣れている。それに馨子に言われたのだから仕方が無い。判ってくれるだろう、と考え馨子の傍にいる事にした。


「いっしょに、はいる?」

「……そうだね。それがいいかも。そのあいだにごはんもできるだろうし」


 高明に肯定されて嬉しくなる。


「うん! そうしよう!」


 馨子はいつも両親と入っているし、近所の友達と一緒に入った事もある。高明もいつも八重子と一緒に入っている。それにまだお互い六歳だ。異性であっても裸の付き合いに恥じらい等無い――筈だった。

 二人は着物を脱ぎ始める――お互い向かい合っていたが急に背を向けた。


――何だか恥ずかしい。


 馨子も自分から誘ったのに何故こんなに恥ずかしいのかと不思議に思った。男友達とも一緒に入った事があるのに、その時とは違う感情がある。高明も同じように思ったらしく、二人共背を向けているのに同時に小首を傾げた。


――これは何だろう?


 高明が先に脱ぎ終えた。馨子の背中を見てから直ぐに目を逸らして速足で風呂場へ向かう。


「ぼく、さきにはいってるね」

「う、うん」


 背後から声が聞こえて高明の背中を見送った。

 一人になると寂しくなる。急いで脱ぎ終えると高明の後を追った。

 裸を見られるのは恥ずかしかったが風呂場を見て驚く。それと同時に恥ずかしさも消し去った。


「ひろーい!!」


 全体が木で出来た明るい室内に上の方には丸い何かがぶら下がっていて、それが光りを放っていた。馨子の家では蝋燭が当たり前だが高明の家には蝋燭が無い。なのにとても暖かく明るい。不思議に思いながらも珍しく思いながら辺りを見回す。

 高明は木製の椅子に座りながら湯船に張られた桶――こちらも木製――で体に湯をかけている。


「そうかな」


 高明からすれば当たり前の風呂場。馨子が喜んでいる理由は判らなかった。


「こんなおふろばはじめてみた!!」


 高明の家は全てが珍しいものばかりで新鮮だ。馨子は嬉しそうに慎重に足を踏み入れ、高明に近付く。


「うちのいえはね、もっとちいさいの。それにもっとくらいし……だから、あんまりすきじゃないんだ」

「そうなんだ」


 馨子はずっと気になっていた事を訊いてみる事にした。


「ねぇ、あれなに?」

「あれ?」


 馨子が天井を指差したので、高明も見上げる。


「あのまるいの!」

「ああ。あれはでんきだよ」

「でんき……?」


 馨子の視線が高明の方へ向く。高明はまた湯船に桶を突っ込み、湯を取ってから体にかけた。


「そう。ろうそくみたいなものかな」

「へぇ~。たかあきらくんのおうちはふしぎなものがいっぱいあるね!」

「かあさんがじっかからもってきたっていってた」

「たかあきらくんのおかあさんはすごいんだね!」

「ふつうだよ」


 高明は照れながら目を逸らす。母親を褒められて悪い気はしない。


「はい」

「うん!」


 高明は照れを誤魔化すように立ち上がり、桶を馨子に渡す。今度は馨子が椅子に座って体を流す番だ。

 高明は湯船に入る。ちょっと足にしみたが馨子の手前痛がる様な素振りは見せたくなかった。ゆっくり座って、湯船の中で足を浮かせると直に痛みも感じなくなった。一息吐くと逆に馨子の家はどんな家なのか気になった。


「かおるこのいえはどんないえなの?」

「うちはもっとちいさいよ。このおうちのはんぶんくらい」

「そうなんだ」

「うん。おへやもふたつしかないの。ごはんをたべるおへやとねるおへや」

「そうなんだ」


 馨子の家を想像していると馨子が湯船に入ってきた。


「あったかいねぇ」

「うん」


 二人して天井の方を向きながら頬を緩ませる。

 高明は横目で馨子を見つつ、手で水鉄砲を飛ばしていた。馨子がそれに気付く。


「じょうずだね!」

「そうかな――あ」


 水鉄砲を飛ばす途中で話しかけられたので、そのまま体ごと反転させながら答えてしまい、馨子の顔に水鉄砲が命中してしまった。

 暫くの沈黙。

 高明はどうしたらいいのか判らず、顔を真っ青にしながら内心焦っていた。


「あ、えっと、ごめ――」

「えい!!」

「わっ!!」


 今度は馨子が湯をかけてくる。両手で思いっきり湯をかき上げながら返してきたので水鉄砲の比ではない量を頭からかぶった。


「かおるこ……やりすぎだよ」


 高明は顔の湯を両手で拭いながらちょっと怒る。だが馨子はそんな様子を見ながら笑った。


「しかえしだよーだ!」

「じゃあ、ぼくも」


 そう言ってから、両手で湯をかき上げながら馨子へ向かって湯をかけると馨子は両手で湯をかぶらないように庇いながら顔を逸らす。そして、又やり返す。そんなやり取りが続いていた。

 風呂場の外――脱衣所では中々戻らない高明を叱ろうと八重子が様子を見に来ていた。

 だが風呂場の中から楽しそうな声が聞こえてくる。棚を見ると二人分の着物が脱いで置いてあった。二人で入る事にしたのか、と察した八重子は微笑ましく思ってから二人に声を掛ける事無く、馨子の着物を洗う為にそれだけを手に取って戻って行った。


「……うっ」


 廊下を歩く道中、八重子が胸を押さえながらうずくまる。その顔は痛みに歪んでいた。八重子の体は病に侵され、もうボロボロだった。だがそれを家族の前では見せたくない。それに医者に見せる訳にもいかない。原因は判っていたから。

 せめて最後はこの家で死ぬ――そんな覚悟を持って日々を過ごしていた。

 暫くすると痛みが治まる。八重子は乱れた息を整え、額の汗を拭ってから立ち上がり、何事も無かったかの様に馨子の着物を洗濯する為歩き出した。

 暫くすると二人共風呂場を後にして脱衣所へ戻って来る。


「はい」

「ありがとう」


 高明は棚からタオルを取り出すと、それを馨子に渡す。高明も自分の分を取り出して体を拭いた。

 もうすっかり恥ずかしさは忘れていた。


「これ、ねまき」


 体を拭き終えると今度は別の棚から自分の寝巻を取り出し、それも馨子に渡す。


「かしてくれるの?」

「うん」

「ありがとう」


 馨子は嬉しそうに受け取った。

 高明は馨子の着物が無くなっている事に気が付いて八重子が来た事を察した。一瞬青い顔をしたが怒られていない事に気付く。何故怒られなかったのか不思議に思う。若しくはこれから怒られるのだろうか。いや、八重子の性格上それは無いだろう。いつもと違う事と言えば――馨子。


「ずっと、ここにいればいいよ」

「え?」


 二人共寝巻を着終えると、高明が呟く様にそんな事を言った。


「あ、いや……もどろう」

「うん……?」


 馨子には高明が何を言ったのか聞こえなかった。不思議に思いながらその背中を見詰めつつ、足を動かす。

 高明は何であんな事を言ってしまったのか自分でも判らなかった。馨子がいれば八重子に怒られないからなのか、それとも他に理由があるのか――。

 馨子が袖を掴んできた。

 高明は瞬時に振り向く。


「な、なに?」


 その顔は真っ赤だった。


「ここ、くらいから……」


 電気の無い廊下は薄暗い。馨子は怖くなって高明の着物の裾を握ったのだった。

 その暗さのお陰で高明の顔が赤くなっている事には気付かれず、一安心する。


「そっか」

「て、つないでいい?」

「え?」


 馨子はそっと高明の手を取った。

 高明は顔だけでは無く耳も首も赤く染まっていた。この感情は何なのだろう? 馨子は平気な様に見えるが緊張しているのは自分だけなのだろうか? 平静を装いつつも気が気では無かった。

 その時、辺りが徐々に明るくなっていった。


「なに?」


 馨子が見上げると月が真ん丸に光っていた。


「つきだ!」


 馨子は高明から手を離し、空を見上げた――そこは先程見た縁側だった。

 雲が晴れ、満月が現れたのだ。その傍らには星々も負けじと輝いている。その光景に馨子は魅了されていた。

 高明はそんな馨子に釘付けだった。満月なんて時が来ればいつでも見られる。でも目の前にいる女の子は明日になったら帰ってしまう。こんな山奥に住んでいる自分と遥か下方の村に住んでいる少女は頻繁には会えない。


――この横顔は今しか見られない。


 そう思うと目が離せなくなってしまった。


「きれいだね!」


 馨子が高明へ顔を向ける。


「――うん」


 高明の返答は満月を綺麗だと思ってなのか、それとも――。

 自分でも判らなかった。

 満足した馨子は再び高明と手を繋いで居間へと戻った。月明りに照らされたそこにはもう恐怖は無い筈だが馨子が自然と手を繋いできたのでそのまま高明も手を握り返した。拒む理由も無かったし、ずっと手を繋いでいたいと思ったから。


「あら、仲がいいわね」


 居間へ戻ると二人を見て開口一番八重子が言った――笑顔で。

 それと同時に二人は顔を真っ赤にしながら手を離した。


「何々~? 初々しいわね~」


 八重子が二人をからかう様に言うと高明に睨まれた。


「母さんにそんな目を向けるんじゃありません」

「かあさんがからかうからだよ」


 八重子は腰を折りながら高明の頭を軽く掌で叩く。だがその顔はニヤついていた。高明は余計複雑に思って視線を逸らす。もう何を睨んでいるのかも判らなかった。


「あ! 高明!」

「え? なに?」


 笑顔が又怒りに変わっていた。今度は一体何を怒られるのやら。


「包帯巻いたままお風呂に入ったでしょー? 濡れてるじゃない!」

「あ」

「もう! ほら、おいで! 巻き直すから」


 そんな八重子と高明のやり取りに又母親を思い出してしまった。寂しくなる。


「かおるこ」

「え?」

「すわってまってて。すぐおわるから」

「……うん」


 高明に話しかけられると安心した。何故こんなに心が穏やかになるのか判らなかったがそれでも高明の言葉は心強く感じる。馨子は先程座っていた場所に座り直した。


「さ、ご飯を食べましょう! お腹空いたでしょ? 二人共」


 素早く包帯を巻き終えた八重子が言い、二人が馨子の近くに座ると高明と馨子のお腹が同時に鳴った。二人共お腹を押さえながら顔を見合わせ、笑った。

 そんな二人を見て――高明を見て、八重子は驚いた。こんなに楽しそうに笑っている我が子を見た事が無かったから。そこで察する。だが同時に悲しくもなる。


――二人が結ばれる事は無いと判っていたから。


 高明と馨子は手を合わせる。八重子も気持ちを切り替えて、一緒に手を合わせた。


「「「いただきます」」」


 三人の声が重なり、食べ始める。

 楽しく談笑しながら食べ終わり、その後は高明と馨子だけが寝る事になった。寝室も広く最初は気分が高揚していた馨子だったが、いづれ眠りについていた。

 翌朝になって馨子が起きると高明はいなかった。


「……そうだ。たかあきらくんのいえにとまったんだ」


 まだ寝ぼけた頭で漸く現状を理解して居間に行くと朝食の準備が出来ていた。道理でいい匂いがする訳だ。


「お早う、かおるこちゃん」

「おはようございます」


 八重子に声をかけられて慌てて挨拶を返す。


「よく眠れた?」

「はい」


 朝食を準備されている場所に座った。目の前には高明がいる。


「おはよう」

「おはよう」


 高明がいてくれると安心した。お互いに挨拶を交わす。


「じゃあ、ご飯食べましょうか!」


 八重子が座ってから言って、昨日の夕食の時の様に手を合わせて「頂きます」を言い、箸を手に取る。鯖の塩焼きと、白米、お味噌汁、漬物が並ぶ。自分の家とは比べ物にならないくらい豪華だった。

 山の中なのに魚が食べられるのは、更に山の奥に行くと大きな川があるからだそうだ。そこが海に繋がっていて魚が取れると八重子が教えてくれた。だが、あまり頭には入らなかった。馨子の頭の中は両親の事で一杯だったから。

 自分がいなくなって一晩。二人は心配しているだろうか。いや、そうに決まっている。早く帰って安心させたい――。


「かおるこ」

「え?」


 高明の声が聞こえて顔を上げると目の前にはいなかった。探すと、真横に立っていた。


「おいで」


 馨子は箸を置いて立ち上がる。高明は馨子の手を取って歩き出した。どこへ連れていかれるのだろう。ふと足元を見ると、高明の足には包帯が無く、傷も全く無かった。一晩で治ったのだろうか。そんな傷では無かったと思うが――考えている内に、昨日風呂場へ行く時に通った縁側に着いた。目の前の庭には馨子の着物が干されている。昨夜八重子が洗ってくれたのだ。


「みてごらん」


 高明が空を指差す。

 太陽が眩しくてよく見えなかったが、掌で太陽を隠すと、白く丸い物が目に入った。


「……つき?」

「そうだよ。ひるまでもつきはみえるんだ」


 浮かない顔の馨子をどう元気付けようかと高明なりに考えた結果、月を見て喜んでいた事を思い出し、縁側まで連れて来たのだった。

 馨子の顔が徐々に明るくなっていく。


「あかるいときのつきはしろいんだね!」

「うん」


 馨子の視線を辿って高明も空を見上げる。

 そこへ、八重子がお盆を手にやって来た。


「何~? 二人揃って空なんて見上げて。何かあるの?」


 お盆を床に置き、その場に正座してから、一緒に空を見上げる。


「あ! ようかん!」


 高明がお盆の上の存在に気付き、嬉しそうに声を上げた。


「ようかん?」

「ぼくようかんすきなんだ」


 高明は急いで八重子の傍らに座ると、お盆の上のお皿を取った。


「こら! これはかおるこちゃんに持って来たの」


 八重子は馨子が朝食に手を付けなかったのを見て、何か食べられそうな物は無いかと探した結果、高明の大好物である羊羹があったので馨子も好きかと思い、持って来たのだった。


「でも、おさらふたつあるよ?」

「そうだけど、食べるのはかおるこちゃんが先」

「わかった。かおるこ、ようかんたべよう」

「うん!」


 高明の呼びかけに元気に答えた馨子を見て、八重子は驚く。どうやら機嫌は戻っている様だ。一安心する。


「かおるこちゃんも羊羹好き?」


 馨子に羊羹の乗ったお皿を差し出しながら訊ねる。馨子はそれを嬉しそうに受け取った。


「はい! うちではもらいものでしかたべないけど」

「そうなの?」

「はい。だからうれしいです!」

「良かった」


 馨子に喜んで貰えて八重子も破顔した。

 馨子と高明は縁側に並んで羊羹を食べる。


 その時に見えた――高明の鋭い歯が。


「ようかん、おいしいね」


 だが、高明の嬉しそうな顔に胸が高鳴って、直ぐに頭の中が切り替わってしまった。


「う、うん、おいしい」


 直ぐに羊羹へ目を向けて平らげる。やっぱり朝食を食べなかった分お腹が空いていたのだろう。


「そろそろ服も乾いたかしらね」


 八重子がいつの間にか庭に出ていて着物を確認している。


「一晩中乾かしたし、この時期だから大丈夫だと思うんだけど」


 着物をパタパタと叩きながら確認する。


「いいかしらね」


 八重子が着物を持って、馨子の元までやって来た。


「ちょっと湿ってるかもしれないけど、これくらいなら大丈夫でしょう。早くお家にも帰りたいわよね」


――そうだ、うちへ帰らないと。


 馨子は又思い出してしまった。でももう寂しくない。「はい!」と元気良く答えると、高明へ向き直る。


「たかあきらくん、ありがとう! たのしかった!」


 高明は寂しく思った。もう会えないかもしれないと――。


「また、あそびにくるね!」

「え?」

「だってもうおともだちでしょ?」


 高明は嬉しくなって目を煌めかせる。


「そうだ! こんどうちにもおいでよ! こんなにりっぱなおうちじゃないけど……」

「うん! いく!」


 高明は即答した。ずっと山奥で両親と三人で暮らして来た高明には友達なんていかなかった。初めての友達に感情が昂る。

 だがそんな二人の様子を見て八重子は複雑そうに視線を下げた。とりあえず手に持っている着物を馨子に持たせる。


「かおるこちゃん、奥で着替えておいで」

「はい!」


 そう声を掛けると馨子は走って奥の部屋へ向かった。


「ねぇ、かあさん! ぼくかおるこちゃんのいえにいってもいいよね!?」


 嬉しそうに訊いて来る息子に八重子は無慈悲に微笑むしか出来無かった。


「そう、出来ればね」


 高明は感が鋭い。八重子が遠回しに「無理」だと言っている事に気が付いた。


「だめなの……?」

「何故ここで暮らしているのか考えてみなさい――村では暮らせないからよ」

「なんでむらでくらせないの? なにがだめなの?」


 八重子が傍に座り込むと、高明が縋り付く。


「かおるこははじめてできたともだちなんだ! もっといっしょにいたい! もっとあそびたい! ねぇ、かあさん!」


 八重子は高明を抱き締める。


「……直ぐに、判るわ」


 高明は納得出来無かった。どうしても馨子とまた一緒に遊びたかった。だって初めての友達だ。初めての――。


「だって、はじめての……」


 この感情を何と言うのか知らなかった――それが後に、初恋だと気付くまで。


「きがえてきたよ!」


 馨子が戻って来た事で高明と八重子は話を切り上げる。


「素敵ね! やっぱりその着物が似合うわ!」


 八重子が微笑むと馨子は嬉しそうに笑った。


「そうだ、下駄を持ってこなきゃね! ちょっと待ってて」


 八重子がそう言って立ち上がり、玄関へと向かった。


「ねぇ、たかあきらくん、どう?」


 両手を広げて高明に見せる。


「――うん、かわいいよ」


 高明に褒めて貰えると頬が染まる。胸が高鳴る。馨子にとっても高明は初恋だった。

 だが高明と違うのは、馨子がこの時の記憶を失ってしまったこと――それは何故か。


「持って来たわよ、下駄。ちゃんと鼻緒直しておいたからね。はい」


 玄関から回って来た八重子の手には馨子の下駄が握られていた。


「ありがとうございます!」


 石積みの上に置くと、馨子がそれを履く。

 着物も綺麗になり、下駄も履くと帰り支度が済んだ。

 早く父と母に会いたい――。

 そこで疑問が生まれた。


「そういえば、たかあきらくんのおとうさんってどこにいるの? おうちにはいないの?」


 一晩過ごした割に結局その姿を認める事は無かった。


「とうさん? とうさんなら――」


 高明の言葉を八重子が口を塞いで止めると家の陰からが顔を出していた。のしのしと大きな足音を立てながらが近付いて来る――馨子はその方向へ目をやった。


――瞬間、馨子の顔が青ざめる。


「きゃあああああああ!!!!!」


 そこに表れたのは――鬼。

 馨子は八重子の事も高明の事も頭の中から吹っ飛んで咄嗟に走り出す。


――逃げなければ。


 そんな考えだけが馨子の脳内を支配した。


 幼い時期に鬼を間近で見てしまった衝撃により、この二日間の出来事は馨子の記憶の奥深くにしまい込まれたのだった――。





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