第捌章
「本條家の人間では、無い……?」
衝撃の事実を呑み込もうとする様に、馨子はそれを言葉にした。
高明はそっと馨子に近付き、抱き締める。
「私は六歳の時、山に一人でいた所を今の父に拾われたのだ」
耳元で聞こえる寂しそうな声に、腕を振り解く事が出来ず、静かに話を聞いていた。
「最初は本條家に馴染めなかった。だが、徐々に打ち解けられた。私だってこの家の人間からすれば赤の他人だ。それでも受け入れてくれた懐の深い家だ。山に捨てられていた汚らわしい子どもを受け入れてくれたのだ。町娘である馨子の事だって絶対に受け入れてくれる。だから、安心して欲しい」
馨子が安心する様に諭してくれているのだと気付く。それにしては内容がシビアだが。こんな話をされては馨子も何も言えなくなってしまう。
「それに――」
高明は続ける。
「私は、馨子が好きだ。夫婦となるなら馨子がいい」
その言葉には違和感を覚える。一つ、疑問があるからだ。
「本條さんが私を好きだと仰るのは、私が初恋の女の子だと思い込んでいるからですよね」
馨子はそっと高明の腕から退き、高明の端正な顔を見つめる。不思議そうな顔をしていた。
「――もし」
それを言葉にするのも、その言葉に対する返答も怖かった。だが、訊かずにはいられない。
「もし私が、その初恋相手では無かったら、私をお嫌いになりますか?」
高明の顔が驚きに変わる。
その口は、言葉を探す様に震えていた。
やっぱり、答えられないのか――。
馨子は笑った。
「そこで答えられないのなら、婚約を破棄するべきです」
馨子はそっと高明から放れ、部屋を出て行った。
高明は手の中の小箱をぎゅっと握り締めた。
馨子の後を追う事は出来無かった。
***
馨子は目元に涙を浮かべながらも雷蔵の元へと急ぐ。だが初めて来た家。その上かなり広い。迷子になってしまった。誰かいないかと探していると掃除をしている下女を見付けた。目元を拭ってから話しかける。
「あの、地下――書庫への行き方を教えて頂けませんか?」
下女は掃除の手を止めて案内してくれた。
書庫へ着くと、扉の傍らに下女が立っており、雷蔵は書物を読み
案内してくれた下女に礼を言うと一礼して立ち去り、自分の仕事に戻って行った。
馨子は雷蔵を見守ってくれている下女に礼を言ってから、大きな声で父を呼ぶ。
「父さん!」
「あ?」
馨子に声を掛けられたかと思うと体が衝撃を受け、そのまま床に倒れ込んだ。
「だっ!? な、何だぁ!?」
何が起こったのか分からなかったが本だけは天高く手を伸ばして死守。馨子の声が聞こえた様な気がした為その姿を探す――見当たらない。雷蔵の視界には木造の天井しかなかった。
「あれ?」
「ぐすっ」と耳元で鼻をすする音が聞こえて横を見ると耳が見える――漸く馨子に抱き付かれたのだと気が付いた。
「お、おお、馨子……どうした? ――高明は?」
探してみるが高明は見当たらない。
「――帰ろう」
「いやぁ、俺ぁ、もっと本を読みてぇなぁ」
「お願い……」
「判った判った。帰るから泣くな」
雷蔵は馨子の涙に滅法弱かった。
馨子を抱えながら一緒に起き、本を片付ける。
「あの、ちょっと! 帰るんで高明に――」
「それは止めて」
「え? 高明に挨拶しねぇと婚約者としての示しがつかねぇだろ?」
「……婚約破棄するから」
「は?」
「本條さんとは結婚しない」
雷蔵は開いた口が塞がらない。
娘は何と言った? こんな棚から牡丹餅他にある訳が無い。何を理由に婚約破棄等と
まさか――。
「高明と何かあったのか?」
混乱する頭で必死に考えて出た答えはそれだった。
馨子は
「じゃあ、何で……何もねぇなら結婚すればいいだろ」
「私じゃない……」
「何が?」
「本條さんが好きなのは、私じゃない」
馨子は止め処無く涙を流しながら、手の甲でそれを拭い続ける。
「何言ってんだ……高明がそう言ったのか?」
馨子はやっぱり頭を振る。
雷蔵には何が何だか判らない。
下女が高明を呼びに行くか確認して来る。とりあえず、一旦待って貰う事にした。
「早く帰ろう」
「まぁお前が帰りてぇってんなら、仕方ねぇけどよ。本條さんもいねぇし……とりあえず帰るって事だけ高明に伝えて貰うか?」
やっと馨子が頭を縦に振った。
下女に玄関まで案内して貰う様に頼み、自分達が帰ってから高明に一報を入れて貰う事にした。
下女の後を二人は並んで進む。馨子はずっと雷蔵の着物の裾を握りながら、俯いていた。
「あら、お帰りになるの?」
そこへやって来たのは花江。微笑んでいるが雷蔵には不気味に思えた。目付きが変わる。
「何だ。帰っちゃいけねぇってのか」
「いいえ。尻尾を巻いて逃げ出すのかと思いまして」
「その言い方はねぇんじゃねぇかなぁ、姉ちゃん」
表情も言動も全てが気に食わない。雷蔵の眉間の皺が深くなる。
「もしかして高明に振られたの?」
「はぁ!?」
雷蔵は反射的に馨子を見たが微動だにせず。
「図星かしらね。憐れだわ」
花江の白くしなやかで細い指が馨子の頬を滑る。
「折角妹が出来るかと思ったのに」
その手を雷蔵が引っ叩く。花江は咄嗟に手を引っ込め、雷蔵を睨んだ。
「野蛮な」
「うるせぇ、俺の娘に気安く触んな、性悪が」
「――随分無礼ね」
雷蔵と花江の間で火花が散る。
「父さん止めて」
だが馨子が制する。雷蔵はふんっとそっぽを向いた。
視線は空を見つめたまま、馨子が花江に問いかける。
「貴女は本條さんを――高明さんをお好きですか?」
雷蔵も花江も驚いた。
「何言ってんだ、馨子……この女は高明の姉ちゃんだろ?」
花江は僅かに顔を顰める。
「――高明から何か聞いたの?」
返って来たのは無言。だがそれは肯定とも取れる。
「それを訊いてどうするの?」
「幸せにしてあげて下さい」
花江は更に困惑の表情。
雷蔵は馨子がおかしくなったと思って早めの帰宅を促した。
「早く帰ろう。帰って休もう。それがいい。じゃあな、姉ちゃん」
花江にはちゃんと睨んで返し、下女に再び玄関まで案内して貰う様に頼み、馨子の肩を抱きながら歩き出した。
その親子の背中を凝視しながら、花江は高明が馨子に何を話したのかを気にしていた。その足で高明の部屋へ向かう。高明は部屋の中央で棒立ちしていた。
「高明」
優しく声をかけ、近付く。だが反応は無い。
「どうしたの? 何かあったの?」
何を話しかけても、高明は微動だにせず。唯、俯きながら一言呟いた。
「――あの子は、誰なんだ……」
***
下女が気を利かせて下男に指示をし、自動車で家まで送って貰った。家に帰って来ても馨子は落ち込んだまま。
「ま、まぁ、男なんて幾らでもいるしな! 馨子もまだ十六だ! 相手なんて引く手数多だろ! 何てったって俺の娘だからな!」
いつもなら鋭い突っ込みが帰って来る所だが馨子の口は全く動かなかった。
馨子の目の前に座って無言でじっと見続ける。その瞳からまた涙が溢れ、頬を伝った。
「お、おい……」
こういう時はどうすればいいのだろう。昔だったら菓子でも与えれば泣き止んだものだが――と言っても飴玉ぐらいしかあげられなかったが――十六の乙女の涙はどうやって止められるのか三十五の男には見当も付かなかった。
――コンコン。
誰かが玄関の戸を叩く。
「雷蔵さん、馨子ちゃん。帰って来てるの? ご飯のお裾分けに来たんだけど」
櫻子だ。
この家は壁が薄い。外から高千穂家が帰って来ると、一階にいるフミや櫻子には判ってしまう。だから来たのだろう。
雷蔵は助かったと言わんばかりに玄関まで走り、勢いよく戸を開けた。
「おい!」
「きゃあ! な、何?」
「入れ!」
「え? ちょ、ちょっと!」
大きな鍋を持っている櫻子の腕をぐいと引っ張り家の中へと連れ込む。
「ちょっと! 乱暴にしないで! 鍋の中身が零れる!」
「そんな事より、馨子が大変なんだよ!」
「馨子――ちゃんが? 何て?」
雷蔵の言葉で馨子を見てみると、確かに様子がおかしい。下を向いたまま固まっている。
「男の俺じゃ、埒が明かねぇ。お前が何とかしてくれ」
「何言って――」
「いいから! 頼む!」
雷蔵がその場で額を畳みに擦りつける様子を見て、さすがの櫻子も目をぱちくりさせてから、一つ息を吐いた。
「とりあえず、状況を説明して」
鍋を台所へ持って行き、再び戻って来る。
「わかんねぇ」
「はい?」
「だから、わかんねぇから困ってんだろ。どうにかしてくれ」
「そんなの理由が判らないなら、私にだってどうにも出来無いじゃないの」
二人して馨子へ背を向けて、あーだこーだと言い合う。
「そんな事言ったってよぉ、俺ぁ、唯本條さん家の書庫で本を読んでただけで――」
「本を読んでたぁ? 娘が大変な時に又本なんか読んで――」
「だからぁ! 馨子がこんな事になってるなんて思って無かった――」
「父親だったらね、娘がどんな状況になってるかちょっとは察して――」
「俺の話を最後まで聞くっつーのは出来ねぇのか!!」
「私の話も最後まで聞いて欲しいもんだけど!?」
大きな声を張り上げた所で、二人揃って我に返りそーっと馨子の方を見た。ばっちり目が合う。
「あ、か、馨子ちゃん。ご、御免なさいね、煩くして」
「わ、わりぃな、馨子。この女が煩くて」
はたと櫻子の表情が変わる。
「この女ですって? 誰が私に助けを求めて来たのよ?」
「今はそんな事いいだろ。馨子がこっち向いてんだから、ちょっとは気ぃ使え」
「はぁ? じゃあ、もう私は帰ります」
「そ、それぁ違うんじゃねぇか?」
雷蔵が櫻子の手を取りながら引き止める。
「ふっ」
「「へ?」」
噴き出した声が聞こえて馨子を見ると笑っていた。思わず雷蔵と櫻子が素っ頓狂な声を上げる。
「二人とも痴話喧嘩?」
「「どこが!!」」
「ほら、息ぴったり。仲がいい証拠」
雷蔵と櫻子はお互い両手で口を隠してから目線だけ合わせた。
「御免なさい、心配かけて……考えてたの。何でこんな気持ちなのか」
「こんな気持ちってどんな気持ちなんだ?」
櫻子が雷蔵の腕を叩く。小声で話しかけた。
「何だ」
「急かさないで」
「……悪かった」
二人は馨子の整理がつくまで座って待つ事にした。
「私――」
その言葉は、二人を驚愕させた。
「本條さんとの婚約、破棄にして貰いました――」
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