第漆章


 大広間に着くと二人の男性が既に待機していた。一人は仏頂面で誰とも目を合わさず、一人は明るく手を振っていた――高明の兄である宗臣と正臣だ。


「俺の対面に座ればいい」

「は、はい」


 一言残して手を離し、高明は仏頂面の男性の隣に立つ。

 辰男が一番先に上座に座ってから、次に雷蔵と馨子に「お座り下さい」と声がかかったので慌てて座る。雷蔵もさすがに正座した。その姿に馨子も心の中で安堵する。最後に「座れ」と言われたので三兄弟が座った。

 馨子は高明の真正面に座ろうと思ったのだが、雷蔵が辰男の直ぐ傍に座った為ひとつずれて座ってしまった。正面には高明では無く、宗臣が座っている。目が合うと体が強張った。馨子は思わず目を逸らす。宗臣は特に気にする事も無く、辰男の声が聞こえたので視線を向けた。


「待たせたな、宗臣、正臣」


 辰男が二人に声を掛けると、それぞれの返答があった。


「いえ」

「急に招集がかかるから何事かと思いましたよ~」

「正臣」

「兄様には冗談が通じないなぁ」

「静かにして下さい」


「え~、高明も~? 珍しいじゃ~ん、俺に楯突くなんて」と言いながら体を傾け、高明の顔を見つける。

 そんな様子を見て和んでいると、馨子と正臣の目が合う。微笑まれた。宗臣とは別の意味で体が強張る。


「君、可愛いね」

「え?」


 馨子は正臣の意外な言葉に頬を染める。異性から褒められて悪い気はしない。化粧を頑張った甲斐があったというものだ。だがそれを良く思わなかったのは高明。


「お兄様、お止め下さい」

「ん? お兄様にそんな顔しちゃう~?」


 今まで正臣が見た事の無い顔をしていた。下手したら今にも殴りかかって来そうだ。だが正臣は変わらず飄々としている。


「心配すんなよ~。取って食ったりしないからさ~」

「当たり前です」

「ご執心だね~」


 いつも正臣のペースに持っていかれてしまう。とりあえず平静を装う。馨子へ目線を向けると、緊張しているのか下を向いていた。若しくは正臣に褒められて照れているのか――後者だとしたら気に入らない。


「正臣」

「はい」

「今日の主役はお前じゃない。慎みなさい」

「失礼致しました」


 今日の主役は馨子と高明だ。さすがに辰男も注意した。正臣も父に注意されると従わざるを得ない。こういう場は得意では無いが弟を立てなければならない事は理解している。つまらないと思いつつ静かにしている事にした。

 父が兄に活を入れてくれた事で高明の気持ちも少し晴れた。正臣を睨む事を止め、前を向く。


「花江はどうした?」

「ここへは来ておりません」


 辰男の問いに宗臣が静かに答える。

 予定では出席する筈だった花江がいなかった事で形容し難い感情が生まれる。高明の婚約は花江にも認めて貰いたいが花江が高明を溺愛している事も知っている。二人の婚約を認められないのだろう。


「そうか……おい、探して来てくれ」


 だが、花江が来なければ意味が無い。下女に指示すると、一礼して探しに向かった。その入れ替わりに今度は別の下女がお茶の入った蓋付きの湯呑の乗ったお盆を手にやって来る。

 辰男、雷蔵、馨子、高明、宗臣、正臣の順番にお茶を並べて行ったが花江がいなかった事で一つ余ってしまった。不思議に思っていると「適当に置いておいてくれ」と辰男に言われ、正臣の隣にそっと置いてから、また一礼して出て行った。

「一人揃っていないが、一応紹介を」と辰男が口火を切り、高明以外の兄弟を紹介していく。


「高明の隣に座っているのが長兄の宗臣です」

「本條宗臣と申します」


 宗臣が静かに頭を下げると、まつ毛の長さが際立った。高明に負けず劣らずの美男子だ。後ろ髪は借り上げており、前髪は真っ直ぐ切り揃えられていた。目は切れ長で威圧感を与える。先程馨子が強張ったのも無理は無い。


「た、高千穂馨子です」

「高千穂雷蔵だ」


 馨子は緊張していたが、雷蔵は年下だからか特に気にせず自己紹介した。


「宗臣は、年は二十一で、陸軍の一等兵をしております。優秀なので昇進も近いでしょう」

「それはすげぇ! 若ぇのによく出来たお子さんだ!」


 辰男は嬉しそうに礼を言ったが、当の本人である宗臣は軽く頭を下げただけだった。


「その隣が、次男の正臣です」

「ど~も~。本條正臣です!」


 宗臣とは正反対に明るく自己紹介したのは正臣。


「元気がいいな! やっぱ男は元気じゃなくっちゃな!」

「でしょう~? おじ様分かってるぅ~」

「正臣君! 君とは気が合いそうだ!」

「そうですね~。仲良くしましょう!」


 二人は机という垣根を超えて手を取り合った。

 馨子は又か、と思いながら溜息を吐きつつ下を向いた。


「俺の事は雷蔵って呼んでくれて構わねぇよ!」

「じゃあ、俺の事も正臣って呼んで下さい!」

「分かった、正臣!」

「宜しくです、雷蔵さん!」


 今度はハイタッチ。


「これはこれは。仲良くして頂けるのなら幸いです」


 辰男も二人のやり取りを微笑ましく思った様だ。


「唯、正臣。高千穂さんが年上だと言う事は忘れるなよ」

「はぁい」


 一応釘は差してみたものの返って来たのは生返事。


「いいんですよ! 友達だと思ってくれ、正臣!」

「いいんですか? じゃあ、友達で!」

「正臣」


 今度は宗臣に注意された。


「駄目みたいです~」

「そうかぁ。そりゃあ残念だなぁ」


 二人して宗臣に潤んだ瞳を向ける。宗臣は罰が悪そうに咳払いをした。


「適度な距離感を保て」

「いいみたいです~」

「よかったよかった!」


 今度は二人して満面の笑みで体を揺らしていた。


「父さん」

「駄目みたいだ」

「結局~?」


 最終的には馨子の言葉で雷蔵が折れた。


「正臣」

「紹介ですね。黙ります」


 辰男が目線で叱責すると、さすがの正臣も黙った。


「正臣は、年は十九で陸軍の二等兵です。この様に明るくお調子者ですが、軍人としての腕は確かです」


 辰男の説明に雷蔵が目を煌めかせる。


「正臣、お前すげぇんだな!」

「まぁね~」

「正臣、高千穂さんと仲良くするのはいいが、言葉遣いには気を付けなさい」


 辰男が再び注意する。


「これは失礼を」

「気にすんな気にすんな! 友達だろ?」

「そうですよね!」


 調子に乗る二人に、「「正臣」」と辰男と宗臣、「父さん」と馨子の三人が同時に注意した。

 二人は縮こまりながら謝り、そこから口を閉じた。


「もう一人、長女の花江がおりますが、どこへ行ったのやら……その内、下女が連れて来るでしょうから、申し訳無いですがお待ち下さい」

「判りました」


 馨子は慎ましく頭を下げたが、雷蔵は気に入らなさそうに口を尖らせていた。



 ***



 結局花江がその場に顔を出す事は無かった。下女が家中探し回った様だが、どこにもいなかったらしい。家のどこかに隠れているのか、出かけてしまったのか――使用人は誰も知らなかったそうだ。


「そういう女なんだよ。俺ぁ最初から疑ってたね」

「父さん、止めて。失礼過ぎる」

「ふんっ」


 雷蔵は廊下で会った時の事をずっと根に持っていた。

 ちなみに今は、辰男、宗臣、正臣は軍の仕事で席を外す事になり、高明は見送りに行っていた。

 大広間には高千穂家の二人しか残っていない。


「それにしてもどこに行ったんだろうね? 何か事件に巻き込まれてなければいいけど……」

「事件?」


 雷蔵が眉間に皺を寄せながら馨子を見る。


「だって、最近よく聞くじゃない? 財閥のご子息が何かの事件に合ったって……誘拐とか、そういうの」

「俺ぁそんなんじゃあねぇと思うな。単に性格の問題だと思うぞ、ありゃあ」

「又、そんな失礼を……」


 どこまでいっても花江を疑い続ける雷蔵に嫌気が差して、話しているのも億劫になってくる。


「待たせた」


 そこへ高明が戻って来て、二人に声を掛けた。

 雷蔵が大袈裟に体を震わせる。


「お、おお、高明! は、早かったな!」

「そんなに早くは無いと思うが……」

「そ、そうか?」


 雷蔵は口笛を吹いて誤魔化した。そんな雷蔵を横目に見ながら、馨子は呆れるばかり。


「皆出かけてしまったが、私が家の中を案内しようと思う」

「おお! そりゃあ楽しみだ!」

「いいんですか?」

「構わない。父からもそう頼まれている」


 馨子と雷蔵は嬉しそうに顔を見合わせた。

 くして、本條家の住居紹介が始まったのだった。

 本條家の構造としては、現在三人がいる場所が母屋で、更に離れもあるらしい。母屋に本條家の人間が住み、離れに使用人が住んでいるとの事だった。今回はその母屋を紹介して貰う。


「だが両親や兄姉の部屋に勝手に入る訳にはいかない。紹介出来る部屋は限定される」

「俺ぁ全然構わないぜ!」

「私も問題ありません!」

「そ、そうか」


 二人の迫力に圧倒される高明。

 高千穂家ははっきり言って貧乏だ。だからこそ財閥の家がどんなものなのか興味があった。


「では、最初に書庫へ行こう」

「書庫!?」


 雷蔵が一番求めていたものだ。瞳を爛々とさせる。


「父の自慢の書庫なんだ。国内外問わず、沢山の書物が揃っている」

「是非見せてくれ!! 俺ぁ、将来作家になりたいんだ!! 書物には興味がある!!」

「作家に? そうか。それは創作の刺激になればいいが」


 雷蔵の嬉しそうな顔を見て、高明も安堵する。辰男からすれば自慢の書庫だが、雷蔵と馨子が興味を持ってくれるか不安だった。雷蔵の好意的な反応に助けられ、二人を案内する為に廊下へ向かう。下女が障子を開け、三人で廊下へ出ると又歩かされる。だが今回は雷蔵の顔が終始明るかった。馨子もそんな雷蔵を背中越しに見ながらこっそり嬉しそうにしていた。

 暫く歩くと地下への階段がある場所まで辿り着いた。高明は何の躊躇も無く階段を下りようとするが雷蔵と馨子の足が止まった。


「おい、高明」

「どうした?」


 雷蔵に呼び止められて足を止めて振り返る。

 地下への階段へ目をやると、どこか陰鬱とした空気が漂っていた。

 雷蔵は臆病風に吹かれて高明に確認する。


「そ、そこを、下りるのか?」

「そうだ」


 馨子は悪寒がして雷蔵の着物を握りながら、おっかなびっくりその背に隠れた。


「いやぁ、そのぉ……大丈夫、か?」

「大丈夫だ」


 雷蔵と馨子は顔を見合わせる。


「本当か?」

「本当だ。この下に書庫がある」

「だったら行こう!」

「父さん!」


 書庫と聞くと、先程までの恐怖はどこかへ行ってしまった様だ。軽快な足取りで高明よりも先に階段を下りて行った。

 だが馨子はまだ両手を胸の前で組んで、祈る様な顔で立ち竦んでいた。


「馨子」


 高明に声を掛けられたかと思うと、手を差し出される。


「大丈夫だ。私がついている」


 馨子は隣にいる下女に視線を向け「大丈夫ですよ」と優しい声を掛けて貰いながら自分にその言葉を言い聞かせる。

 そして、そっと手を取った。高明はしっかりと握り返してくれる。その体温に安心した。


「高明ー! 先が見えねーぞー!」


 雷蔵は一階の灯りが届く所までしか階段が見えず、暗闇の中を行くか考えあぐね、高明に向かって声を張り上げた。


「行ってくれ」


 下女に命ずると、階段の傍に用意してあった蝋燭を手に雷蔵の元へ急いだ。


「私達も行こう」

「はい……」


 馨子としては『地下の世界』が『未知の世界』であり、恐ろしいものに感じられ、下りて行くのは嫌だったが、知らない場所に一人取り残されるのも嫌だった。今頼れるのは繋がれている高明の手一つ。絶対に離さないと言う様に先程よりも力を込めて握る。

 高明は馨子を横目で見ながら頬を染めていた。馨子から手を握られたのはこれが初めてだったから。馨子は全く気にしていない様だったが――というよりも、それどころでは無い、が正しいかもしれない。高揚する気持ちを表に出さない様に努めながら二人一緒に階段を下りて行った。

 数分かけて地下に着くと先に下りていた雷蔵と下女が待ちわびていたと言わんばかりに手を振って来る。

 蝋燭一本の小さな灯りだけかと思っていたが、引き戸の両隣にも蝋燭が備え付けられていて、そこに下女が手元の蝋燭の火を分け与えたらしく、思っていたよりも暖かな灯りがともっていた。その様子に馨子も少し安堵したのか高明から手を離し、再び胸元へ戻す。高明は少し寂しく思ったが表情には出さない様に努めた。


「高明! 待ってたぞ! 早く開けてくれ!」

「ああ」


 目の前には地下にも関わらず大きな木造の引き戸がそびえ立っていた。馨子はそれを見上げながら呆気に取られている。こんなに大きな場所にどれ程沢山の書物が収納されているのか不思議に思った。

 高明は引き戸へ近付き、辰男から託されていた鍵を開けながら話す。


「父は収集家でもあり、取り分け書物に対しては感心が強いんだ」

「そうか! そりゃあ、俺と一緒だな!」

「雷蔵殿も書物を持っているのか?」

「む、昔持ってた、かな、ははっ……」


 誤魔化すように笑ったが高明は左程気にしていなかったのか「そうか」としか返って来なかった。

 鍵が開き、引き戸が開か――なかった。


「ここを開けるにはコツがいるらしい。父は直ぐに開けられるのだが、私は下手なんだ」


 高千穂家の玄関よりも建付けが悪く、高明は苦戦していた。


「俺に任せろ!!」


 雷蔵が着物の袖を捲くって高明がほんの寸分だけ開けた隙間に手を通し、けたたましい音を立てながら引き戸を開けた。「よし!」と雷蔵は満足そうに腕で額を拭う。


「素晴らしいな」

「だろぉ? こういうのは大人に任せるもんだ!」

「感服する」

「いいって事よ」


 先に下女が入り、蝋燭を頼りに書庫の中央まで来ると吊るされている蛍光灯を点けた。何度か点滅してから本来の明るさを取り戻すと書物の山が現れ、雷蔵の瞳はより一層輝いた。


「おおー!」


 感動、その一言に尽きる。

 年甲斐も無くはしゃぎながら書庫の中を走り回り、高明に声を掛けた。


「これ、全部読んでいいのか!?」

「全部は厳しいだろうが……時間が許す限りなら」

「いいんだな!? ありがてぇ!!」

「落としたり汚したりしない様に細心の注意を払ってくれ」

「勿論だ!」


 とは言いつつもその視線は書物へ向いている。本当に聞こえているのかは怪しい。

 高明は馨子へ視線を向けた。


「どうした?」


 高明が異変に気付いて馨子に問う。


「あれは何ですか?」

「あれ?」


 馨子の指先を辿ると、その先には蛍光灯があった。


「蛍光灯の事か?」

「けいこうとう……?」

「電気だな。蝋燭より高いから一般家庭にはまだ無いかもしれない」

「……そうですか」

「それがどうした?」

「いえ……」


 問われた所で自分自身が判っていないのだから説明出来無い。唯既視感を感じていた。


「何か思い出したのか?」

「え?」


 そうなのだろうか? 蛍光灯を見て何を思い出すというのだろう?


「違うと、思います」

「……そうか」


 結局違和感の正体は判らなかった。


「おお! すげぇ! こんなのもあんのか!」


 雷蔵の声が聞こえて来て、視線を向ける。子どもの様な笑顔が輝いていた。思わず吹き出してしまう。先程までの沈んだ気持ちが雷蔵のお陰で晴れた。


「どうした?」


 高明が訊いて来る。


「いえ。あんなに嬉しそうな父は久し振りに見たので」

「そうか」


 馨子の顔が先程とは打って変わって明るくなっていた。昔の事を思い出して貰えないのは悲しいが、この顔を見れただけ良しとしよう、と思った。馨子と目が合う。


「何か?」

「いや……馨子は読まないのか?」

「私は字が読めませんので……」

「そうか。悪い」

「いいえ」


 雷蔵が作家を目指しているとはいえ、字の書き方を習う時間も無ければ読み方を習う時間も無かった。そんな時間があれば定食屋で働いている。働いたら腹が減る。腹が減ったら少量の食料を食べる。食べたら眠る。馨子が送っているのはそんな繰り返しの生活だ。


「うちへ来たら学べばいい」

「え?」

「女高にも通わせて貰えるだろうから」

「女高に!?」

「姉も通っている。馨子だって通わせて貰える。難しい様なら私から頼む――馨子が望むのなら」


 働かずに學校へ行けるのならそれ程嬉しい事は無い。

 だが首を横に振る――本当にこれでいいのか?

 高明はいつも優しい。それは本條家の人間皆がそうだ。馨子を快く迎えようとしてくれている。だが身分が違い過ぎると気付く。それは馨子の中で劣等感になっていた。本條邸に来たのは間違いだったのかもしれない。


「私は、その……」


 破談を言い渡さなければ――。


「雷蔵殿」

「何だ?」


 馨子が言い淀んでいると、高明は雷蔵に声を掛けた。


「次の部屋へ行きたいのだが――」

「俺の事は気にせず二人で行ってくれ!」

「そうか」


 高明は下女に「雷蔵殿を頼む」と託してから、馨子へ向き直った。


「行こう。連れて行きたい部屋がある」

「……はい」


 破談の話は頃合いを見て切り出そう、とその時は諦め高明の後を着いて行く。


「手を」

「え?」

「暗い所は苦手なのだろう?」

「何故……?」


 高明に苦手だと話しただろうか、と不思議に思っていると――。


「先程もそうだった」

「あ……そうですね」


 階段を下りる前の事を思い出す。そういえば――馨子の顔が真っ青になる。


「私、失礼を!」


 高明の手を握ったまま暫く離さなかった事を思い出し、後悔した。慌てて頭を下げる。


「違う」

「え?」

「嬉しかった」

「嬉しい……?」

「馨子と手が繋げて――私を頼りにしてくれている様で嬉しかった」


 意外な言葉が返って来て二の句が継げず。唯々驚くだけだった。そんな馨子の前に高明の手が再び差し出される。


「手を取ってくれ」


 馨子はじっとその手を見つめている――本当にいいのだろうか?

 煮え切らない馨子の手を高明がそっと取り、半強制的に手を繋ぐ事になった。


「嫌なら離してくれ」


 嫌と言える勇気は無かった。


「無言は肯定と取る」


 馨子は何も言わなかった。手を振り解こうともしなかった。

 高明はそのまま馨子の手を引き、二人は階段を上って行った。


――暖かい。


 自分の手を包み込む、大きな骨ばった手を見つめながらそんな風に思っていた。これが、人の暖かさ――何かを思い出せそうな気がした。

 昔――遠い昔に、こんな風に暖かい手に包まれて歩いた事が無かったか? 雷蔵か? 母か? それとも――。

 視線を上げる。


「昔、どこかで会いませんでしたか?」


 ふと、そんな言葉を口にしていた。

 一階に上がった所で高明の足が止まる。そして振り返った顔は驚きに染まっていた。


「思い、出したのか?」

「え? あ……」


 そういえば、料亭で高明のした話を思い返す。昔会った事があると言っていたのは高明だ。


「思い出したんだな?」


 高明に両肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。


「い、いえ……はっきり思い出したという訳では……」


 自分でもよく判らない。何故そんな風に思ったのか。何故訊いてしまったのか。


「そうか……」


 逞しい手が力無く放れていく。

 自分がした事は、高明を傷付けただけだ。

 だが、気になる事があった。


「その……私と出会ったのは十年も前の話なんですよね?」

「……そうだ」


 馨子の意図がいまいち読めず。とりあえず質問に答える。


「何故憶えているのです?」


 人の記憶とは曖昧なものだ。余程の事が無い限り忘れてしまう様に出来ている。なのに高明は未だに十年も前の事を憶えている。それが不思議でならなかった。


「それは……」


 珍しく高明が口籠もる。

 馨子が返答を待っていると背後から声が聞こえて来た。


「高明」


 聞いた事のある声だ。

 振り返るとそこにいたのはあの洋服を着た女性。


「お姉様」


 高明が花江を呼ぶ――そうだ。高明の姉だ、と馨子は姿勢を正す。


「どこへ行っておられたのです? 顔合わせにお越し頂けませんでしたが」


 高明が珍しく怒気を含んだ声で花江に問う。馨子はそっと高明を盗み見た。表情には余り出ていないが微かに眉間に皺が寄っている。


「あら、怒っているの? 御免なさい。準備に手間取ったの」

「準備? 廊下でお会いした時には既に整っていた様に見えましたが」

「男性には判らないでしょうけれど、女には女の準備があるのよ。ねぇ」


 馨子へ怪しげな視線を向けて同意を求める。だが高明が間に割って入った。


「約束も守れない様な準備なら必要無いかと」

「厳しいわね。いつもは優しいのに」


 高明に近付いて、そっと手で頬をなぞる。その手を取って、下ろす。


「高明……?」

「女性が男の私に気安く触るべきではないかと」


 花江の顔が気色ばむ。


「そう……そんなにその子がいいの。わたくしよりも」

「はい」


 高明の迷いの無い返答に花江は拳を作る。


「では」


 馨子の手を引いて花江の横を通り過ぎる。花江はその場に佇んでいた。馨子はそんな花江の背中に同情を向ける。


「あの、いいんですか?」

「馨子が気にする事では無い」

「でも……」

「見せたい物がある」

「見せたい物……?」


 いつまでも花江の話をするつもりは無いと言う様に話題を変えられた。

 そして次の言葉に耳を疑った。


「私の部屋へ来てくれ」

「え……?」


 部屋へ行くとはどういう事だ? ――何かするという事か?

 いや高明は何か渡したい物があると言っていた。それが高明の部屋にあるだけだ。馨子は自分が何を考えたのかを恥じて顔を染めた。寧ろそれを期待してしまった自分がいた事を恥じたと言っても間違いでは無い。


「な、何かご用が……?」

「贈り物を用意した」


 それなら今着ている着物だけでも充分だが――他に何をくれると言うのだろう。


「な、何かを下さるのですか?」

「そうだ。気に入って貰えるかは判らないが……」


 何を用意したのだろう? あまり高級な物であったら断らねばと思いつつ、高明に手を引かれるまま廊下を歩く。


「ここだ」


 とある障子の前に立つと躊躇無く引き戸を開けて中へ入り、馨子の手を引いて中へ入れると障子を閉めた――二人きりの空間が出来上がる。それに気が付いた瞬間、馨子は手を離し、り足で高明から距離を取った。

 だが高明は気にする事無く、棚へ向かう。その引き出しから何か小さな小箱を取り出し、馨子の元へ戻って来た。馨子は距離が近くなるのを恐れて後ろへ数歩下がる。


「これだ」


 声をかけられて、その足は止まった。

 思ったより小さな物に、あまり高価な物では無いのかと安堵する。


「何でしょうか?」


 馨子はそっと指で摘まむ様にして取ると、上から見たり下から見たりして小箱を凝視した――だが何も起こらない。


「開けてみてくれ」


 高明は馨子の様子がおかしかったのか、口元に手を当てながら微笑んでいる。

 そんな様子を怪訝に思いながら馨子は『これは開ける物なのか』とやっと気付いた――だがどこをどう開けるのか判らない。


「どこを?」

「そうだな。私が開けよう」


 高明が手に取ると箱の半分から上が開いた。中に入っていたのは――


「指輪だ」

「指輪?」

「婚約指輪を知っているか?」

「いえ……」


 そんな物があるのかと不思議そうに見続けていると――


「え!? 婚約……!?」


 やっと気が付いた。


「そうだ。いづれは夫婦となるのだから必要だろう?」

「そんな……頂けません!!」


 慌てて高明に両手を差し出し、その分距離を取る。


「……馨子? どうした?」


 馨子は下を向いたまま苦しそうな顔をしている――実際苦しいのだ。胸が張り裂けそうな程に。


「婚約は……破棄、して下さい」


 高明が目を見開きながら眉尻を下げる。


「何故だ? 父も雷蔵殿も認めて下さった――」

「お二人が認めても、私は認めません」

「何故……?」


 高明が小箱をぎゅっと握り締める。


「私が買った着物を毎日の様に眺めていたのは嬉しかったからだろう? 私を思っての事ではないのか?」

「それは……でも釣り合わないと思うんです」

「そんな事気にする必要は――」

「気にします!」


 馨子は顔を上げた――その瞳から涙が溢れる。


「軍人である立派なお父様、お兄様がいらっしゃって、女高に通う素敵なお姉様もいらっしゃる……字の読み書きすら出来無い私とは、住む世界が全く違います」

「字の読み書きながら、嫁いでから習えばいい」

「そういう問題ではありません! 嫁いでからも私の過去は変わりません。貧しい生活をしている私が急にこんな――立派な一族の一員にはなれないと思います」

「それは違う」

「違いません!」

「私もそうなのだ!!」


 馨子の声量を上回る声が返って来て、思わず高明の顔を見上げる。だが、怒っている様ではなさそうだ。


「私も、そうなのだ」

「どういう事です……?」


 馨子は高明の言葉に耳を疑った。


「私は、本條家の人間では無いのだ――」





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