第陸章
馨子と雷蔵は度肝抜かれていた。
勿論本條家が財閥だと言う事は百も承知だ。それなりの家なのだろうと思ってはいたが想像以上だった。
高千穂家とは比べ物にならない平屋だ。門はどこまで続いているのか先が見えない程大きく、良質な木材で建てられていた。その存在に圧倒される。以前行った料亭よりも遥かに広い。
「父さん、本当にここって――家?」
「家……なんだろうなぁ……」
二人は高明に聞こえない様に小声で話していた。
暫くすると中から門が開き、一人の男性が出て来た。
「誰?」と馨子が雷蔵に小声で訊く。
「兄ちゃんじゃねーか?」
「本條さんのお兄様? それにしては似てない気がするけど……」
二人が様子を伺っていると男性が高明に頭を下げる。
「お帰りお待ちしておりました。高明様」
「予定より早くなった。父は?」
「書斎で書を」
「そうか。二人を案内してくれ」
「はい」
男性が馨子と雷蔵に近寄って来る。目が合うと朗らかに微笑んでくれた。
「お待ちしておりました」
「こ、これはこれは! 本日はお招き頂き、有り難う御座います!」
男性に頭を下げられて、慌てて二人も同じ様に頭を下げる。雷蔵は叫びながら九十度に頭を下げ、馨子は雷蔵に続いて上品に頭を下げた。
「お顔をお上げ下さい。唯の下男ですので」
「「下男!?」」
「はい」
雷蔵も馨子も同時に叫びながら同時に顔を上げた。
男性――本條家の下男は人が良さそうに微笑んだ。
見た目はどう見ても質の良い着物を見に纏った好青年だ。下男というにはあまりにも綺麗な見た目だった。格式の高い家は使用人も段違いなのだと思い知らされる。
「こちらへどうぞ」
「は、はい!」
手で方向を示されて雷蔵は元気に返事をし、下男の後に続いて門の中に入る。
「下男がいる家なんて本当にあるんだね」
「おっどろいたぁ」
また小声で話しながら下男と高明の後ろを歩く。
二人からすれば使用人がいる家なんて想像出来無かった。まるで夢を見ているみたいだ。だがまだまだ序の口だった様だ。庭を見て、これまた仰天した。
「料亭みたい……」
「料亭よりも広いんじゃねぇか?」
左右に広がる森の様な庭に目を奪われながら歩いていると馨子が高明にぶつかり、「ぶっ」と声を上げ、雷蔵が馨子にぶつかり、「うおっ」と声を上げた。
「大丈夫か?」
「あ、はい」
鼻を押さえながら顔を上げると高明が見下ろしている。どうやら高明の背中では無く胸元にぶつかってしまったらしい。
真っ赤な顔で慌てて飛び退いた。「おっと」とそれを更に雷蔵が飛び退く。
「し、失礼を!」
「気にするな」
高明は気にせず前に向き直り、下男が開けた扉の中に消えて行く。どうやら玄関まで辿り着いた様だ。その扉も立派な物だった。さっきまで高千穂家で過ごして貰った事が恥ずかしい。
「ねぇ、父さん」
「何だ」
「私達、凄く失礼な事をしてしまったんじゃ……」
「言うな」
二人で顔を見合わせながら後悔していると、声をかけられる。
「どうぞ」
下男に言われて体を震わせた後、馨子と雷蔵は思わず愛想笑いをしていた。
「これ以上の失礼は無いようにしなきゃ」
「そうだな」
馨子の言葉に雷蔵も頷き、高明の後に続いた。
高千穂家の何倍もある玄関に度肝を抜かれる。目の前にはその先を隠すかの様に大きな
「これが気になるのか?」
雷蔵の視線を追って、高明が衝立に視線を向ける。
「ああ、いや! うちには無いもんだから見入っちまって! わりぃなぁ、ははっ」
雷蔵は右手で後頭部をかきながら、左掌を左右に振る。
隣で馨子は雷蔵を庇う様に高明に話しかける。
「綺麗ですね。椿の花でしょうか?」
「そうだ。うちには椿の模様がよく使われている。母が好きらしい」
「素敵ですね」
馨子が微笑む。
「馨子も花は好きか?」
「それなりに」
「どんな花が好きなんだ?」
「え?」
急に問われると直ぐには出て来ない――だが花と言えば一つだけある。
「――櫻が」
「そうか。着物も櫻柄だな」
「はい」
今自分が着ている着物に手を添える。
「止めとけ止めとけ櫻なんか。碌でもねぇ」
雷蔵は着物の袖に両腕を通しながら、馨子から顔を逸らす。そんな雷蔵を馨子は睨みつけた。
「何? 櫻子さんの事を言ってるの?」
「さあな」
二人に漂って来た不穏な空気を絶ち切ったのは、下男だった。
「宜しければ、お上がり下さい」
「これは済まねぇ……コホン」
「し、失礼します……」
もう少しで人の家だという事も忘れて親子喧嘩を勃発させる所だった。
二人は顔を真っ赤にしながら下駄を脱ぎ、歩き出した高明の後に続く。その後に下男が続いた。
ふと気が付くと、高明の前に一人の女性が立っていた。馨子も雷蔵も今度こそ高明の家族だと思っていたが――。
「ようこそおいで下さいました」
「こ、こちらこそ、ご招待有り難う御座います!」
頭を下げられて、又馨子と雷蔵は下男にしたように頭を下げる。
「どうぞ、お顔をお上げ下さい。唯の下女ですので」
「「下女!?」」
又違った。本條家には何人使用人がいるのだろう、と不思議に思いながら顔を見合わせる二人だった。
「行こう」
そんな二人に高明が声をかける。
下女に続いて歩き出す高明の後を、二人は圧倒されながら着いて行く。
馨子は高明の背中を見ながら悩んでいた。
――やっぱり、自分は相応しくない。
こんなにも立派なお家柄の高明と唯の町娘の自分が結婚なんて許される訳が無い。
だがいつの間にかそれを否定する気持ちが生まれている。この気持ちが何なのか未だに分からないが婚約破棄をしようとしていた気持ちに水を差している事は確かだ――
「ぶっ」
又高明の背中にぶつかった。
何故か足を止めていたらしい。
又やってしまった、と後悔しながら鼻を押さえる。
「大丈夫か?」
「あ、又失礼を……」
「いい。少し見せてみろ」
「え?」
馨子が鼻を押さえているのを見て心配した高明が距離を詰めて来る。
馨子の手を取って鼻から放し、確認する。少し赤くなっている様に見えた。
馨子はそんな高明に胸を高鳴らせながら、目を見開いていた――やっぱりとても綺麗な顔をしている。
まじまじと見た事は無かったが、この距離だ。視界には高明しか映っていない。少し背伸びでもすれば唇がくっついてしまいそうな距離に、心臓が口から飛び出そうな程高鳴っている事に気が付く。
「ご、ご心配無く……」
慌てて顔を背け、高明を視界から消す。だが暫く心音は治まらなかった。
「……そうか」
視線を逸らされて寂しく思う。
「高明」
その時、上品な女性の声が聞こえて来た。その声には怒気が含まれていた。
下女はその女性の傍らにおり、複雑そうな表情を隠すかの様に頭を下げている。
高明はその女性が目の前に来た事で足を止めたのだった。
馨子の視線がその女性を認める。
揃えられた前髪、背中まで伸ばされた艶のある黒髪が格の違いを見せつける。その女性は着物では無く洋服を身に着けていた。あれは何と言ったか――
「その子が婚約者?」
考えていると馨子を一瞥した女性が眉間に皺を寄せながら高明に問う。
「はい」
高明が堂々と答える。
その女性――花江は高明のその様子が気に入らなかった。眉間の皺が更に濃くなる。
「お姉様にも後でご挨拶をと考えておりました」
「そう」
短い返答でも分かる。不機嫌だと。
花江の反応は予想していた。動ずる事は無い。
馨子を守る様に背に隠し、花江を見据える。
「父に用がありますので――」
「あら、私には用が無いのかしら? 寂しいわね」
その場を去ろうとしたが、花江はそれを許さない。
「貴女、お名前は?」
距離を詰め、馨子が見える場所まで来ると声を掛ける。
「え……」
その顔はさっきまでと打って変わって笑顔だった。
その不気味さを感じ取って、高明が再びその背に馨子を隠す。
「お姉様、先を急ぎますので」
「あら、いいじゃないの。少しくらい」
「お父様は直ぐに軍へ出向きます。面会の時間が無いのです。失礼――行くぞ」
下女に話しかけると高明は歩き出す。下女は花江に一礼してから高明の前を歩く。
高明の後を追わなければと馨子も花江に一礼してから、その場を去った。
雷蔵は花江が気に入らないのか、睨みつけながら馨子の後を追ったが視線が交わる事は無かった――花江は馨子を睨み続けていたから。
角を曲がり、高明が馨子の隣に立つ。
「大丈夫か?」
「何がです?」
「――いや」
だが馨子は全く気付いていなかった。それ所の胸中では無かったというのが正しいだろうが。
「何か、失礼がありましたか?」
「何も無い。気にするな」
「……はい」
高明はいつも自分を想ってくれている。それが苦しい。だが嬉しい――不思議な感覚だった。
下女は背後の足音が止まったので待っていたが、二人の様子を見て再び歩き出した。高明と馨子と雷蔵がそれに続く。
「なぁ、まだか?」
歩けども歩けども辰男の書斎に到達しない為雷蔵が弱音を吐く。それ程本條邸は広かった。
「いい加減俺ぁ疲れた」
「父さん。失礼」
馨子が雷蔵を睨む。
「済まない。もう着く」
「そうか。茶の一杯でも出してくれ。喉が渇いた」
「図々しいったら――」
「判った。直ぐに用意させる」
馨子が雷蔵を叱ろうとしたが高明は雷蔵に寄り添った。
「そりゃあ、ありがてぇ」
雷蔵の笑顔にわざとらしく大きな溜息を吐く馨子。高明には頭を下げた。
「ご迷惑を……」
「気にするな。私もこの家は広すぎると思っている」
「だろぉ~。金持ちってぇのも考えもんだな」
「父さん!」
叫びながら鬼の形相で振り返った。
「わ、悪かったよ……」
さすがの雷蔵もたじたじだった。その後に、次いで「まるでアイツみてぇじゃねぇか」と呟いた。
「何か言った?」
「なぁんも」
お道化て見せつつ誤魔化された。
「いい親子だな」
「どこがです?」
高明の言葉に不思議そうに返す馨子。そんな馨子に高明は微笑んで見せた。その笑顔に見惚れた。
「どうした?」
「え……あ、いえ……」
高明に声をかけられて我に返ると、更に恥ずかしさを自覚し、視線を落とした。
そうこうしている内に下女が足を止め、「着きました」と一室を掌で示す。
高明が「開けてくれ」と言うと、下女が膝を付いて障子を開けた。
中では辰男が書を認めていた。馨子と雷蔵は意外に思う。先程高明が辰男には軍の用事があると言っていなかったか。だから時間が無いのだと。それともこの後に用事があるのだろうか。だが問う事は出来ず。お互い目を合わせただけで終わった。
先に高明が入り、その後に馨子と雷蔵が続いた。三人が室内に入ると下女が障子を閉める。
「お父様、雷蔵殿と馨子を連れて参りました」
高明の声に気付き、半紙から顔を上げる。
「そうか。早かったな」
立ち上がって、一番に雷蔵の元へ向かった。
「よく来て下さいましたね」
「あ、これはどうも丁寧に……こちらこそ、ご招待有り難う御座います」
三度目の正直だ。さすがに今回は問題無い。
「いえいえ。うちに嫁いで貰うのですから、一度見ておくべきかと思ったまでです」
「え――うちに嫁ぐ?」
それは初耳だった。愛想笑いが驚きに染まる。
「ええ。結婚した暁にはうちで生活をして貰おうと考えておりますが……何か問題がありましたか?」
そしてその驚きが喜びに変わった。
「い、いえ! 滅相も無い! 有難いお言葉です!」
隣の馨子と距離を詰め、本條親子に聞こえない程の小声で話しかける。
「なぁ? 俺の言った通りだろう? ここに住んでいいんだってよ。これで貧乏生活とおさらばだな、馨子」
「そういう言い方は止めて」
馨子は不機嫌で返した。
辰男はそんな馨子の前に移動して来る。
「馨子さんもよく来て下さいました」
「お招き有り難う御座います」
雷蔵とは違い、慎ましく頭を下げる。
「本日は随分お綺麗ですね」
「え?」
「馨子さんはお洒落がお上手の様だ」
「とんでもない……」
辰男に笑顔で褒められると頬を染めた。
先程、高明にも褒めて貰ったが初めてした化粧を褒めて貰えるのはこんなにも嬉しいものかと再度思い、化粧を教えてくれた櫻子に又感謝する。
「さて、こんな狭い所ではゆっくり出来ますまい。大広間へ向かいましょう。うちの家族にも紹介したいので」
馨子と雷蔵の中では『狭い所』という言葉が引っかかっていた。この書斎だけでも高千穂家より広いと言うのに……価値観が合わないとはこの事を言うのだろうか。
「唯、申し訳御座いませんが、妻だけは同席出来ず……」
「そんなの俺等は気にしません。大事にしてくだせぇ」
雷蔵が慌てながら両手を左右に振る。
「有り難う御座います。今日は息子と娘――高明の兄姉だけの紹介ですが、ご容赦下さい」
そこで雷蔵の顔が
「姉ちゃんだったら会ったぞ。なぁ、高明――君」
もう少しで呼び捨てしてしまう所だった。冷や汗をかく。
「……はい」
「そうですか。それは話が早い」
辰男は微笑んだが雷蔵は再び花江を思い出して眉間に皺を寄せた。
「俺ぁ気に入らねぇなぁ。わりぃけど」
「父さん! 何て事言うの」
「本心を言ってるだけだ」
馨子に注意されてもこれだけは譲れなかった。
「何かありましたか?」
「そりゃあもう嫌味ったらしい女だった」
「父さんってば! 済みません、そんな事はありませんでした。笑顔の素敵なお姉様でした」
「あの笑顔は嘘だ」
「父さん、もう止めて!」
「ふんっ」
それでも雷蔵は悪びれる素振りを見せなかった。
そんな様子を案じて、辰男は高明へ視線を向ける。
「何があったんだ、高明」
高明は複雑そうに辰男に向き直り、頭を下げた。
「先程、廊下で花江お姉様とすれ違い、少しお話しを……」
「そうか……」
辰男が危惧していた事が現実になったらしい。辰男から見ても花江が高明を溺愛している事は判っていた。何かしら無礼を働いたのだろうと容易に想像出来た。
雷蔵に向き直り、頭を下げる。
「うちの娘が無礼を……」
「いや、別に、本條さんを責めてるんじゃねぇ――です」
さすがの雷蔵も冷静になって来た様だ。
腕を組んでいたのを解いて顔の前で両手を合わせる。
「俺も言い過ぎました! 済みません!」
「いえいえ、雷蔵さんを不快にさせたのはうちの娘ですから。兄弟の中で唯一の女でね。甘やかし過ぎた自覚はあるんですよ……」
「そんなこたぁねぇ――ありません! 辰男さんは立派な父親だ! 俺が大人気なかったんです! 済みません!」
雷蔵がその場に土下座して再び謝る。
それを見た辰男が慌てて傍らに座り込み、雷蔵の背を支えた。
「顔をお上げ下さい――では、お互い様という事で」
「いいんですか?」
雷蔵は顔を上げて、右腕を目元へ持って行く。
「馨子はいい義父に恵まれたなぁ」
まだ結婚してません――と馨子は心の中で突っ込む。
「高明もだ。良かったな」
「はい」
だから、まだ結婚してないって――と馨子は再び突っ込んだ。
「さあ、立って下さい、高千穂さん。大広間まで案内致します」
「有り難うごぜぇます!!」
もう一度額を畳みに擦り付ける。
雷蔵は辰男に諭されながら歩き出し、下女が開けた障子から廊下へ出て行く。
それを見送っていた馨子に高明が声をかけた。
「行こう」
馨子の前に高明の手が差し出される。この手を取っていいものか一瞬迷ったが取らないのも失礼だと思い、そっとそこに自分の手を乗せた。高明の顔を見上げると微笑まれる。だが顔を逸らしてしまった。下を向いたままの顔は真っ赤だ。
高明が不思議に思いながら馨子を見下げると耳まで真っ赤になっている事に気付く。
「気にするな」
「……はい」
気にするなと言われたら余計気になるのが人間だ。
二人は手を繋いだまま雷蔵と辰男の後を追う様に書斎を後にした。
廊下に出ても二人の視線は交わる事は無く。だが二人共頬を染めていた。
***
そんな二人を陰から見ていたのは、花江だった。
――気に入らない。
先に高明を好きになったのは自分だ。
それなのに高明は自分に見向きもせずにみすぼらしい町娘にご執心。
何とかして邪魔出来無いものか――。
だが自分以外の家族はこの結婚に賛同している。味方はいない。
一人で彼女を追い出すにはどうすればいいのか――。
花江は一人、思案するのだった。
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