第伍章


 櫻子はその日、本当に店を閉めた。

 定食屋の戸に『本日は勝手ながら休みとさせて頂きます。店主櫻子』と一筆書き、馨子と一緒に高明が待つ高千穂家へ向かった。

 緊張しながら高明の風貌を想像したり、高明と馨子の関係を考える。そこに自分が首を突っ込むのは場違いかもしれないがそれでもそうしなければ落ち着かなかった。

 馨子に続いて階段を一段ずつ上る度に緊張が高まる。

 建付けの悪い扉が開き、中へ招かれた。


――その背中が見える。


 學制服を着ていて、胡坐をかいている様だった。うなじ程の長さの黒髪、頭の小ささからか背中が広く見えた。


「只今」


 馨子の声で我に返る。足早に畳へ上がり、父親に寄り添うその姿は正しく親子。それが羨ましかった。自分だってこんなに馨子を思っているのに――


「櫻子さんが来て下さったよ」

「はぁ!?」


 憎たらしい人物と目が合った。


「その反応は無いんじゃないですか? 雷蔵さん」

「あ、いや、それは……済まん」


 思いっきり睨みつけられると雷蔵は顔ごと視線を逸らした。どうもあの目は苦手だ。


「そ、それで……本條さんは……?」


 そっと目の前の背中に視線を落とす。その顔を早く拝みたくて気持ちが急く。その気持ちに比例して高明の顔を覗き込む様に体が傾く。

 高明は正座に戻り、体ごと振り返って背後に居る人物を確認した。


「私だが」


――美男子がそこにいた。


 幼さの残る顔に、切れ長の大きな目。巷であまり見かけない二重はその目を更に強調している。すっと通った鼻筋に整った唇の形。こんな美男子は見た事が無い。櫻子は慌てて畳に上がり、高明に向けて三つ指を付いた。


「本條様!」


 突然の櫻子の行動に、三人とも目を見開く。取り分け雷蔵は目ん玉が飛び出んばかりだった。まさか櫻子がここまでするとは予想もしていなかったのだ。


「馨子――ちゃんは、とてもいい子です。仕事もしっかりしてくれるし、何事にも真面目で、純粋で、笑顔が愛らしくて、お客からも大変好かれ、うちの店は馨子ちゃんがいなければやっていけない程です」


 自分でも何を言っているのか判らない。唯、馨子と婚約してくれた事が嬉しかった。だから将来少しでも可能性のある婚約破棄を懸念して必死だった。

 本題を思い出す。何を言いたいのかと言うと、たった一つだった。


「馨子ちゃんを、どうか、どうか、幸せにしてやって下さい」


 目をぱちくりさせながら、馨子が「櫻子さん……?」と呟く。

 高明が声をかけようとすると――


「みっともねぇなぁ」

「はぁ?」


 雷蔵の声が聞こえて櫻子の声が一変した。


「高明にそんなものは必要ねぇ。コイツは俺が見込んだ男だ。だから婚約も許した。見くびって貰っちゃあ困る」


 まるで自分を安心させるかの様に雷蔵が堂々と言い放った。

 こんな雷蔵は初めて見たかもしれない。この十年、屑は屑なりに父親を務め上げてきたという事なのだろう。櫻子は少し雷蔵を見直した。


「雷蔵殿の言う通りだ」


 今度は声変わりをしたばかりの低い声が聞こえて来てそちらを向く。端正な顔は無表情ながらも説得力があった。


「馨子は私が誰よりも幸せにする」


 櫻子は視界が歪んでいくのが判ると頭を伏せた。


「有り難う御座います」


 馨子はそんな三人を傍観していた。唯々驚きながら。

 櫻子が自分の為に頭を下げている――何故? 自分は唯の給仕ではないか。

 それに元から気になっていたのは雷蔵と櫻子の距離感だ。その距離はまるで宇宙と深海の如く遠い――と思っていたら今は目と鼻の先程の様な……不思議な感覚がしていた。

 最後に高明を見る。はっきりと聞いてしまった。自分を幸せにしてくれると。上気していくのが判った。

 高明が馨子へ視線を送る。馨子の肩が跳ねた。


「心配はいらない」


 自分は婚約を破棄しようとしている。なのに高明はどこまでも真っ直ぐだ。こんな風に異性から思われた事は無い。どうしていいのか判らないのが本音だ。


――高明と結婚するべきなのか?


 だがそれにはやっぱり自信の無さが付きまとう。


 身分違いの二人は本当に幸せになれるのか――?


 高明の視線を受けながらも不安は募るばかりだった。



 ***



 三人が本條邸へ行く事になり、櫻子は帰る事にした。

 馨子と高明に一言謝罪してから高千穂家を後にし――雷蔵とは口を利かなかった――店の裏へ回る。店を休みにしたからたまには昼からフミと一緒に過ごそうと思ったのだ。馨子の婚約の事も伝えねばと戸を開け、中へ入る。フミはちゃぶ台でお茶を啜っていた。


「フミさん、帰ったよ」

「あれ、櫻子。店は?」

「臨時休業したんだ」

「何かあったのかい?」


 フミは不安そうな顔で櫻子に訊く。


「ええ、まぁ。でも、悪い事じゃないの」

「――そうかい」


 櫻子の嬉しそうな声に、フミも穏やかに返した。

 視力が落ち、無意味になった眼鏡をかけ直しながら、櫻子の様子を窺う。


「馨子の事か」

「え、何で判ったの?」

「あんたが嬉しそうな時は馨子の事ばかりだからねぇ」


 見抜かれていた。


「反対に怒っている時は雷蔵の事だ」


 これも見抜かれていた。


「あの人の名前は出さないで」

「もう許してやんな」


 フミの優しい言葉が響く。自分でも判ってはいる。雷蔵がこの十年どれだけ必死で馨子を守って来たのか。


――だが後悔もある。


「許すって言ったって……」

「雷蔵の事じゃないよ」

「え?」

「あんた自身の事さ」


――この十年の事。


「雷蔵はもう許してるんだろう? 馨子もあんたに懐いてる。だったら問題無いじゃないか」


 この十年。自分は逃げ続けて来た――雷蔵と馨子から。


――雷蔵の妻であり、馨子の母親である自分から。


 子育てに疲れ、夢見る夫に愛想を尽かし、実家へ逃げ帰った。

 それなのに夫はずっと実家へ文を寄越す――やり直そう、と。何度も、何度も、何度も。

 そしてここへやって来た。

 十年の歳月を経て成長した娘は立派に育っており、その姿をこっそり陰から見て涙した。

 雷蔵は十年もの間家族を取り戻そうとしていた。馨子を一人で必死に育てながら。

 そんな雷蔵に劣等感を感じ、会っては憎まれ口を叩いてしまう。素直になれない。こんな状態で本当に「自分が母親だ」と馨子に告げられるだろうか。

 そんな不安から馨子には赤の他人だと名乗り続けている――騙し続けている。

 いや、本当に騙しているのは自分自身かもしれない。

 高明に会いたいと言ったのも、自分の娘の婚約者がどんな人間なのか見ておきたかったからだ。

 自分の様に家族を――馨子を捨てる様な男であれば認めるつもりは無かった。だがそんな想像を覆す人間だった。自分よりも遥かに若いのに。


「馨子には強い味方が出来たの。私は、もう――」


 櫻子は目を伏せる。

 だがそれをフミは許さない。


「諦めるのかい?」

「え?」

「そりゃあ諦めるのが楽に決まってるさ。でもね親は一度親になったら止められないんだよ。死ぬまで親、死ぬまで子――いや、死んでも、かもしれないねぇ」


 フミは数十年前に起こった鬼との大規模な戦争で夫と息子を亡くしている。だからこそ家族の大切さが判るのかもしれない。


「――私は、馨子の親として相応しくない」

「言っただろ。親は親。子は子。相応しい相応しくないは関係無いんだよ。強いて言うならそれを決めるのは馨子だろうね」


 自分が母親だと告げて馨子は自分を受け入れてくれるだろうか。また昔の様に「母さん」と呼んでくれるだろうか――。

 櫻子はまた苦悶するのだった。



 ***



「早まったが丁度いいかもしれない。行こう」


 櫻子が店を休みにしてくれた事で大幅に時間が出来た。その分辰男も顔合わせに時間を割けるだろうと予想した。忙しい身ではあるが過去の大規模な戦争により、最近は鬼の出現率も激減した。軍としての仕事もそれに合わせて減っている。それに加え、辰男は末息子の高明に対してかなり甘い。高明の為なら仕事も調整してくれる。高明としては元から足を向けて寝られない存在ではあるが最近ではそれに拍車をかけていた。特に馨子との婚約に関しては心底頭が上がらない。高明としてはもっと難航するものだと思っていたのに、こんなにも早く馨子と婚約出来たのだから。高明の性格上表には出ないがかなり感謝していた。


「高明! 今回も何か買ってくれんのか?」

「父さん!」

「勿論。買いたい着物があれば言ってくれ」

「それは楽しみだ! な、馨子!」


 どこまでも図々しい雷蔵に馨子は厭味ったらしく大きな溜息を吐いた。


「馨子も遠慮するな――もう、婚約者だからな」


 不覚にもときめいてしまった。かぶりを振って誤魔化す。こんな風に流されていては婚約だってこのまま受け入れてしまいそうだ。そんな馨子の葛藤も知らず、雷蔵は呑気に話しかけて来る。


「今度はどんな柄がいいと思う? 馨子」

「知らない」

「どうした? 何か怒ってんのか?」

「父さんが図々しいからでしょ。着物だったら以前買って頂いた物があります。これで充分」


 馨子は部屋の壁に飾る様にして置いてある着物を指差した。

 折角高い着物を買って貰ったのだから変に折り目を付けてはいけないと衣桁いこうにかけていた。


「大事にしてくれているのだな」


 高明がそっと口にする。表情を読み取れないが嬉しそうに見える気がする。


「そりゃあもう! 馨子なんか毎日の様に眺めて――」

「父さん!!」


 さすがに馨子も恥ずかしかったのか、雷蔵の口を塞いだ。


「毎日眺めているのか?」

「え……」


 馨子の顔が見る見る内に赤くなる。

 あの日から毎日眺めているのは事実だ。この着物を見ていると高明を思い出して満ち足りた気持ちになり、心が穏やかになるから。

 だからと言ってそれを本人に言う訳にはいかない――とても恥ずかしくて、言えない。

 だが、高明は返答を求める様に馨子を見続ける。


「えっと……その……まぁ……」


 高明に凝視されると頭が真っ白になる。誤魔化し方が判らず曖昧に答えてしまったが結果的に肯定してしまった。雷蔵から手を離して膝の上に戻し、縮こまる。

 そんな馨子の隣で雷蔵が「ぶはぁ! 死ぬかと思った!」と大袈裟に深呼吸した。

 だが二人にはそんな煩い雷蔵すらも目に入っていなかった。


「嬉しい。買った甲斐があった」

「いえ……有り難う御座いました」


 慎ましく頭を下げる。

「何だぁ?」と雷蔵はニヤニヤしながら二人を交互に見ていた。


「いい雰囲気じゃあねぇか! さすが婚約者だな!」


 今度は何も言わずに腕を引っ叩いた。雷蔵は「何でぃ。事実だろ」と不服そうに口を尖らせる。


「あの、着替えたいのですが……」


 馨子は話題を変えた。恥ずかしさもあったが高明の貴重な時間をこれ以上無駄にする訳にいかなかったから。


「そうか。では外で待っていよう」


 高明が立ち上がる。馨子も見送る為に次いで立ち上がった。

「父さんは着替えてて」と雷蔵に告げ、二人で外へ出ると扉を閉めて二人きりの時間を作る。何故か高明と二人きりになりたいと思った。だからといって何を話していいのかは全く判らなかったが。

「父が迷惑を……」ととりあえず雷蔵の無礼を詫びる。まだ熱が冷めない。高明の顔を直視出来ず、視線は足元に落ちていた。


「迷惑とは思っていない」


 高明が馨子の右頬にそっと手を添えると、左頬に口付けされる。

 それは一瞬の出来事で高明の唇が離れていくのを寂しく思った。

 手が勝手に高明の学制服を掴む。

 高明は少し目を見開いた。


「どうした?」


 問われて、ようやく自分が何をしたのか気付く。

 寂しいと思ったままに――離れて欲しくないと思ったままに体が勝手に動いてしまっていた。


「し、失礼を――!」


 馨子は慌てて学制服から手を離す。だがその手を高明が取った。


「失礼では無い。幾らでも私を求めてくれ」


 高明の熱を帯びた瞳が馨子を捉えて離さない。

 繋がれた手をそっと握り返した。高明も握り返す。


「今度――」


 高明の唇が形作る。


「二人で出掛けよう」

「二人で?」


 意外な言葉に嬉しさが込み上げる。


「行きたい所を決めておいてくれ」


 手が離れていく――高明は淡々と階段を降りて行った。


――それはまるで夢の様な時間だった。


 こんな一瞬でも満ち足りた気持ちになるのだから二人で出掛けたらもっと幸福だろう。想像すると、自然と口角が上がる。繋いでいた手を引き寄せてそっと胸元で抱いた。


「馨子――!! ちょっと手伝ってくれ!!」


 夢の様な時間から雷蔵の声で現実に強制連行された。

 引き戸を開けて怒鳴りつけながらその怒りを畳みにぶつける様な足取りで近付いて行く。


「いい大人が着物ぐらい一人で着れないの!?」

「だってよぉ、これ、どうなってる? いい着物ってもんはこの帯もいいもんだからよぉ、ちょっと、これ――兎に角困るんだよ!!」


 雷蔵は両手で帯を持ちながら引っ張りつつ、腰元を見ようとしているのかきりきり舞いしている。

 呆れながらも雷蔵の手から帯をふんだくると手際良く仕上げ、思いっきり腰を叩いて「出てった出てった!」と雷蔵を乱暴に追い出し、引き戸を閉めた。


「おい!! これが親にする事かい!!」

「着替えるんだから入って来ないでよ!」


 雷蔵は「ったく」と吐き捨てると猫背を酷くして両手を着物の裾に突っ込んで階段を降りて行った。

 馨子は雷蔵が出て行った戸を睨んでいたが方向転換して顔を上げると穏やかな表情になった。その視線の先にあったのは高明から貰った着物。そっと触れる。高明の体温を思い出す様だった。

 衣桁から外し、抱きしめる。そこに高明の体温は無い。でも寂しくは無かった。高明を感じられたから。

 これを着て、これから高明と一緒に本條邸へ向かう事を考えると胸が躍る。そこで我に返った。早く着替えなければ高明を待たせてしまう。それに何よりまた会いたい。早く会いたい。

 馨子は着替えに取り掛かった。



 ***



「馨子はまだかい」


 雷蔵が呆れながら溜息を吐く。

 今、雷蔵と高明は定食屋の前に並んで立っていた。道行く人から「親子?」「似てないねぇ」等と白い目で見られ、その度に雷蔵は両腕を組みながら威嚇していた。


「似てなくて悪かったなぁ!! これでも将来義理の親子になるんでぃ!! 文句言ってくんな!!」


 不機嫌が絶好調。


「おっかしいなぁ。馨子はどちらかというと人を待たせるような女とは違うんだが……」


 呟きながらも右足は大忙しで地面を踏んずけている。

 確かに雷蔵の支度を手際良く済ませた割には遅い。


「女性はめかし込むものだ。心配いらない」

「いや、だからぁ! そういう女じゃないんだってぇ」


 高明の擁護にも楯突く始末。


「どこまでも失礼な男ね」

「ああ!? ――げっ」


 背後から聞こえてきた声に眉間の皺を濃くしながら振り返ると櫻子が立っていた。


「心底失礼」


 櫻子の態度に雷蔵の怒りが静まっていく。反対に櫻子の怒りが増した。


「いや、これは――」

「本條様の仰る通り、女は粧し込む生き物。それに婚約者の家に行くのだから父親と一緒に出掛ける時とは訳が違うでしょうに」

「な、なるほど……」


 櫻子は雷蔵の前を通りながら憎まれ口を叩きつつ定食屋の鍵を開ける。


「店、開けんのかい」

「いいえ。仕込んだ物が痛むからフミさんと一緒に食べようと思って取りに来ただけよ」

「そ、そうかい」


 どこかぎこちない雷蔵を見て高明は不思議に思う。この二人は知り合いの筈なのに何故か微妙な距離感があった。赤の他人の筈なのに言葉等無くともどこかお互いの心根を察し合っている様な。そんな不思議な距離感。

 それに馨子を「幸せにしてくれ」と言ってきた時の反応――。


「貴女は、馨子の母親か?」


 そう思った途端に訊いてしまっていた。

 櫻子と雷蔵は二人して高明を見上げたまま思考も動きも止まっていた。

 櫻子の手元から鍵が落ち、金属と地面が擦れる事が響くと二人共我に返る。


「な、なな何を仰って!!??」

「そ、そうだぞ! 高明!! 馨子がこんな女の娘な訳ねぇだろ!!」


 慌てて弁解したが櫻子は雷蔵の言葉に引っかかる。


「こんな女が――何ですって?」

「あ、いや、ちょっと言葉の綾というか――」

「貴方は昔からそう。どこか女を見下している節がある!!」

「そんなら言わせて貰うがなぁ!! お前だって昔から――」

「昔から?」


 痴話喧嘩に水を差すと二人はやっぱり肩を跳ねさせて口を噤む。


「昔から親交があるのか? やっぱり馨子の――」

「「だからそうじゃない!!」」

「母親ならしっかりと挨拶をしたい」

「「しなくていい!!」」

「息がぴったりだな」


 核心を突かれて二人は再び口を噤む。

 言葉を待つ様に高明は二人を交互に見るが二人共視線を逸らす。二人は気まずくなって変な汗をかいていた。

 兎に角この場から逃げなければ――。


「あ、私、店に用があったんだった!! 失礼します、本條様」


 櫻子は慌てて鍵を拾い、定食屋の中に秒速で入って行った。


「あ! おまっ! ズルいぞ!!」


 雷蔵の言葉も虚しく、その戸は勢いよく閉められ、中から鍵がかけられる音がした。この中に逃げ込む事は出来無い。

 高明と二人だけの時間は櫻子がいた時よりも苦痛に感じられた。


「ちょっと馨子の様子でも見に――」

「馨子には言わないのか?」


 逃げようと思ったが捉まった。


「二人が言い辛いなら私から――」

「これは俺達の問題だ!! 余所様が口出しするんじゃねぇ!!」


 雷蔵は声を荒げつつも真剣な顔で振り返った。


「済まない。だが私は馨子の婚約者だ。全く関係が無いとは思えない――思いたくない。先程言ってくれただろう。将来は親子になるのだと」


 高明の無表情の中に愁いを見付ける。


「それは、そうだな……でもまだ馨子には言えねぇんだ。内緒にしてくれ」

「やっぱりそうなのだな」

「――ああ」


 雷蔵は観念した様に腕を組みながら定食屋の戸に背を預けた。

 その時階段を降りてくる音が聞こえ、馨子が顔を出した。


「お待たせ!」


 雷蔵と高明は驚いた。馨子が化粧をしていたから。

 いつもより発色のいい肌に、赤く塗られた唇。髪は結われ、かんざしが刺さっていた。

 こんな姿は雷蔵でも見た事が無い。


「か、馨子!? 何だそりゃあ!?」


 雷蔵が素っ頓狂な声を上げる。


「え? 化粧だけど……変?」

「変っつーか、落ち着かねーっつうか――どこでそんなもん買ったんだ!? 化粧なんて高級品買う金ねぇだろ」


 化粧を買う金が無いのは誰のせいだと思っているのか。馨子は一瞬引っかかったがそんな事より、今はこの化粧が自分に似合っているのかいないのか。それが気になっていた。


「前に櫻子さんからいらない物を貰った事があったの。使い方は一応教わってたんだけど使った事が無いから何度も失敗して時間かかっちゃって……お待たせして申し訳御座いません」


 馨子は高明の様子を窺いつつも視線が定まらない。高明は無表情な分感情が読み取れないとあり、反応が少し怖かった。

 中々高明の声が聞こえてこない。危惧している通りになるのではないかと俯く。


「――似合っている」


 そっと見上げると高明が笑っていた。それを受けて馨子の表情は一瞬驚いた後徐々に明るくなる。


「初めてにしては上出来だな」


 雷蔵もそう言ってくれるが、これは褒められているのか?


「ありがとう……」


 とりあえず礼を言っておいた。


「行こう」


 高明が手を差し出すと馨子は頬を染めながらそっとその手を取った。

 二人は歩き出す。

 雷蔵は二人の背中を見てから定食屋に視線を向ける。


「お前の言う通りだな。馨子はもう立派な女だ」


 そう呟いてから二人の背中を追った。

 定食屋の中では聞き耳を立てていた櫻子が雷蔵の言葉を受けて得意げに微笑んだ。


「そうでしょ?」


 そう呟くと櫻子はやっと厨房へ足を向けた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る