第参章


 その姿を認めた瞬間、馨子も雷蔵も圧倒された。

 キリッとした瞳。貫禄のある立ち居振る舞い。さすがに大将を務め上げるだけはある。それだけの雰囲気を放っていた。

 だが、一人――高明だけはすくっと立ち上がり、頭を下げる。

 二人も慌ててそれにならった。


「座ったままでいい」

「はい」


 そう言われるが、高明は辰男が座るまで立ったまま待っていた。

 辰男は立ち尽くしている雷蔵と馨子に気付き、笑顔で話しかける。


「どうぞ、お座り下さい」

「は、はひ!」


 雷蔵の声が裏返った。さっきまでの飄々とした態度はどこへやら。


「し、失礼します」


 馨子も恐縮しながら、再び座り直した。自分の一挙手一投足に緊張が走る。礼儀作法なんて習った事が無い。どこで失礼が起こるか判らなかった。怒りを買ってしまえば、二人ともタダでは済まない。変な汗が背筋を伝って気持ち悪かった。


「そう緊張なさらず。気楽に話しましょう」

「へ、へぇ」


 雷蔵は右手を後頭部に持って行き、媚びる様に笑顔を繕っている。これは大丈夫なのだろうか、と馨子は冷や冷やしながら辰男の様子を窺っていた。


「貴方がお父様ですか」


 今の所、問題は無さそうだ。


「はっ! それがし、高千穂雷蔵と申す者であります!」


 後頭部に持って行っていた手を敬礼に変え、元気一杯に自己紹介をした。

 どんな言葉遣いだ……と馨子の顔が真っ青になる。


「たかちほとは、どの様に書くのでしょうか。初めて聞いた名ですので」

「はっ! 高いに数字の千、稲穂の穂と書きます!」

「なるほど。いい名ですね」

「はっ! 有難き幸せ!」


 たまらず馨子がバシッと敬礼している肘の部分を叩く。雷蔵も目が覚めたのか、敬礼を止め、顔を赤くしながら縮こまった。

 馨子は口元に手を当てながら、笑って誤魔化す。


「ほほほっ。父は緊張しておりまして……失礼しました」

「お気になさらず、お嬢さん。貴女が、かおるこさんですか?」

「はい。高千穂馨子と申します」

「いい名ですね。お父様が名付けられたので?」

「いえ、女ぼ――妻が……」


 一応、丁寧であろう言い方に変えてみた。


「そうですか。素晴らしい名だ」


 いつの間にか初めて見た時の威圧感は無くなっていた。意外と気さくな様だ。


「私の自己紹介がまだでしたな。本條辰男と申します」

「いやぁ、素晴らしい名ですな!」


 雷蔵が一生懸命持ち上げる。


「何、辰年生まれの男だから、辰男という単純な名で」

「いやいや、男らしくて素晴らしいです! 正しく相応しい名かと」

「いやはや、あまり褒められると照れますな」

「いやいや……ははは」


 馨子が様子を窺うと、雷蔵が見た事の無い程汗みずくだった。


――あの雷蔵が緊張している。


 さっきまで『俺も昔はガキ大将やってたんだ!』等とほざいていた雷蔵はどこへ行ったのか。ほとほと呆れる。


「馨子さんもご立派に育てられて、高千穂さんも素晴らしいお父様ですね」

「いやぁ、俺が育てたというよりは妻の教育が良かったというか……」


 そりゃあ、自分が育てたとは言い難いでしょう、と馨子は思う。今はどちらかというと馨子が雷蔵の母親をやっている気分だ。


「いやいや、子は両親揃って育てるものですから。お母様も素晴らしいのでしょうが、高千穂さんもとても素晴らしいですよ」

「ははっ……」


 居心地の悪い事。そんな妻が出て行く程呆れられたとは言えない。


「そちらさんも、高明――」


 馨子が青い顔をしながら、瞬時に雷蔵を見た。


「――さんも、素晴らしい方で! さぞかし奥様も素晴らしいお方なのでしょうなぁ!」


 さすがに辰男の前で呼び捨ては言語道断だ。

 馨子は胸を撫で下ろす。


「うちは妻が病床に伏しておりまして……私も仕事が忙しく、寂しい思いをさせるばかりです……」


 まさかの地雷を踏んでしまった。


「い、いやいや! うちも、父一人子一人の家庭ですから!」


 慌てて庇う。


「そうですか……それはご苦労をされましたな」

「い、いえ……」


 自業自得とは言えない……。

 そんな様子を見ながら馨子は呆れ、小さく息を吐いた。顔を上げると、高明と目が合う。猫が驚いた時の様に体が跳ねた。とりあえず、微笑んで誤魔化してみる。


――こんな調子で大丈夫だろうか。


「私達ばかりで盛り上がっても何でしょう。二人の時間を設けなければ。本日はその為に来たのですから」

「そ、そうですね!」


 馨子の体が再び跳ねる。もう既に雷蔵と馨子の体力は瀕死だ。だが、馨子は助けを求める様に雷蔵へ視線を送る。机の下で「しっしっ」と手で合図された。馨子は心の中で盛大に溜息を吐く。


「はい……」

「では」


 馨子と高明が立ち上がり、二人で座敷を後にする。


――気付く。


 雷蔵は今、辰男と二人きりだ――余計に緊張した。

 馨子を追い出すんじゃなかったと後悔した。


「さて、大人同士ですな」

「は、はい。そうですね」


 話しかけられる度に緊張が走る。


「どうです? 一杯」


 辰男が口元でお猪口で飲む仕草をする。


「おお! それはいいですなぁ!」


 やっと雷蔵の表情が明るくなり、辰男も安堵した。



 ***



 馨子と高明は料亭の日本庭園をゆっくりと歩いていた。何せ長時間の正座により、馨子の足が痺れていたから。


「大丈夫か?」

「はい……」


 不自然な歩き方を見て高明が心配してくれるがそんな理由は格好がつかない。恥ずかしくて言えなかった。


「少し先に座れる場所がある。そこで休もう」

「そうですね」


 助かった、と一安心。

 高明が言う通り、日本庭園の中に異質な空間――といっても嫌なものでは無く、蔓が伸び花が咲いている神秘的な場所があり、そこに長椅子が置いてあった。確かにここなら座って癒されそうだ。

 高明が胸元からハンカチを取り出し、長椅子に置くと、そこに座るように促される。

 絶対に高級品だ。自分が座ってもいいのかと思いつつ、座らないのは無礼だと思い、そっと座った。ふぅと息を吐く。


「疲れたか?」

「え? あ、いえ……」


 本当は疲れている。だが、言える訳が無い。


「父は見た目は怖いかもしれないが中身は気さくだ。もっと肩の力を抜いてくれ」

「……はい」


 それは確かに雷蔵とのやり取りを見て判った。

 だが、やっぱり財閥の人間と関わった事が無い分、緊張はどうしてもしてしまう。

「私と――」と高明が切り出す。


「私といる時も、もっと普段通りにしてくれると、嬉しい」

「え?」

「緊張してる様だから」

「あ、そう、ですね……」

「敬語も止めて欲しい」

「え!? さすがにそれは――」


 無礼だと思ったが高明は間髪入れずに言葉を被せる。


「今後、結婚という事になれば、もっと距離が近くなる。今から近いものにしておきたい」


 不思議に思う。高明は本当に一町娘の自分を娶ろうとしているのか? 何故?


「あの……」

「何だ?」

「何故私を婚約者に?」


 家でも訊いたが、やっぱり納得がいかない。

 もう一度訊いてみる事にした。


「私を、憶えていないか?」


――何を質問された?


 憶えているとは――過去に会った事があるという事か?


「初対面だと思いますが……?」


 馨子の返答に高明は落ち込む様に俯いた。


「そうか……憶えていないか……もう十年も昔になるからな……」


 その呟きをやっぱり不思議に思う。

 十年前と言えば、二人とも六歳だ。その頃に一緒に遊んでいたとしても、十年も経てば見た目も変わる。何故、高明は自分を選んだのだろう。


「十年前にお会いした事が?」

「そうだ。一緒に遊んだ。二日程だったが……思い出したか?」


 二日間だけしか遊んでいないのなら、尚更憶えている訳が無い。


「いえ」

「そうか……」

「どうして本條さんは私を憶えているのです? 十年前から比べると成長して随分見た目も変わりましたが……」

「匂いだ」

「匂い?」


 初めて声を掛けられた時もそんな事を言っていた。


「そんなに臭いますか?」


 また自分の手の甲を嗅ぐ。

 今回は仕立てて貰った着物だから、臭うとすれば自分自身の臭いだと思うが――。


「そう言う事では無い」


 では、どう言う事なのか――。


「人それぞれ、匂いがある。昔、一緒に遊んだ女の子と馨子は同じ匂いなんだ」

「……それが?」

「だから、馨子がその子だと思った――その女の子と同一人物だと」

「それはどうでしょう……十年経っていますからね」

「根本的な匂いは変わらない。私の中では馨子があの子だ」


 あまりにも自信満々に言うものだから馨子は何も言えなくなってしまった。

 せめて馨子が十年前の事を憶えていれば、又話は違うのだが……さすがにそれは無い。

 それにしても十年も憶えているという事は、高明の中でその少女はよっぽど大切な存在なのだろうか。


「その子は本條さんにとって、どんな存在なんですか?」

「特別な存在だ」

「特別?」

「――初恋だ」


 馨子は目を丸くした。

 確かにそれは特別なものだろう。その少女は幸せ者だ。こんなに素敵な人に愛されて――少し羨ましく思った。

 だが――。


「勘違いです」


 馨子からすれば自分がその少女である確証は無い。

 それに、今の自分は高明と釣り合わない。唯の貧乏な家の町娘なのだから。


「本條さんには他の――もっと素敵な女性が似合います。それにその女の子はきっと私ではありません」

「馨子――」


 高明は引き止めようとしたが馨子は立ち上がる。


「戻りましょう」


 そして、馨子は高明に背を向けた。


 馨って来たのは、馨子の匂い――。


「君が、あの子なのに――」


 高明はどうしても馨子を諦め切れない。だが、馨子があの時の少女だという証拠も無い。匂いなんて不確かなものでは彼女を引き止められない。


――諦めるしかない。


 高明はやるせない思いを抱きながら馨子の後を追った。



 ***



 座敷に戻った二人は絶句した――特に馨子が。


「戻ったか、二人共」


 辰男は何か紙を持っている。

 その前には酒を飲み過ぎて机に突っ伏しながら寝ている雷蔵がいた。


「父さん!」


 馨子はさすがに声を上げる。駆け寄って揺り起こそうとするが中々起きない。寧ろいびきをかいている。目の前には酒瓶が数本転がっていた。


「お酒なんて飲んだ事無い癖に……申し訳御座いません」


 三つ指を付いて、辰男に頭を下げる。


「いやいや。雷蔵さんとはいい話が出来ました。ほら」


 辰男は嬉しそうに手に持っている紙を机の上に滑らせ、馨子に見せて来る。


「高明と馨子さんの婚約について承諾して頂きました。これで安泰ですな」

「え……」


 まさか――。


 ゆっくり辰男を見上げながら、恐る恐る口にする。


「もしかして、私と高明さんは正式に婚約者になったという事でしょうか……?」

「はい、その通りです」


 満面の笑みが返って来た。

 先程断ったばかりだと言うのに、まさかの強制的に婚約が決まってしまっていた。

 高明は一安心したが馨子は納得がいかなかった。

 酒に飲まれて署名してしまったのだろうか。父が憎くて仕方が無い。


「いでででで!!」


 雷蔵が痛みで目を覚ます。馨子が雷蔵の足を思いっきりつねったのだった。


「――ありぇ?」


 今度はまだ夢心地の雷蔵の背中をパシッと叩く。


「しっかりしてよね、父さん!」

「おう! 馨子! 俺ぁ、いつでもしっかりしてうよ?」

「舌も回って無い癖に何がしっかりしてるよ」

「――何か怒ってりゅ?」


 馨子はもう一度雷蔵の足を抓った。


 こうして、高明と馨子は――強制的に――婚約者となったのだった。



 ***



「父さん」

「はい」

「貴方は何をやったか判っていますか?」

「はい」


 あれから雷蔵と馨子は自動車で送って貰い、五畳一間の家に帰って来ていた。

 雷蔵は馨子の対面に正座をしながら俯き、叱られていた。


「何で酔った勢いで署名しちゃうのよ!!!」

「本当に済まん!!!」


 馨子が叫んだ瞬間に両掌を付き、カタカナのコになるような格好をしながら頭を畳に擦りつけた。


「私、本條さんからの申し出断った直後だったのに!! 間が悪過ぎて気まずいったら無いじゃない!!」

「だから、本当に済まんって!!!」

「謝って済む問題じゃないでしょ!! 婚約しちゃったんだから!!」


 馨子の怒号は外まで響いていた。道行く人の中には何事かと辺りを見回す者もいる。

 雷蔵は顔を上げた。


「で、でも、これでお前も財閥の一員になる事を約束されたんだぞ? 将来安泰じゃあねぇか! 今までみてぇに食いっぱぐれる心配もねぇ! 鬼からも護って貰える! いい事尽くしじゃあねぇか!」

「本気で言ってるの?」

「済みません」


 当分馨子の機嫌が直る事は無さそうだ。


「はぁ……何か疲れた。もう寝る」


 馨子が呟きながら背を向けると、雷蔵はやっと解放されると安堵して息を吐いた。だが、勢いよく振り返った馨子に思いっきり睨まれ、また姿勢を正す。


「はあ~あ~」


 大きくて厭味ったらしい溜息が響く。


「私はね、父さん」

「な、何だよ」


 馨子が雷蔵の前に再び座り直す。


「昼間、嬉しそうに帰って来たから父さんの作品が出版社にやっと認められたのかと思って、盛大にお祝いしてあげようと思ったの」

「そ、そうかい……」

「それが、いきなり婚約者って……はぁ……もう溜息しか出ません」

「……本当に済まん」


 馨子がそんな風に思ってくれていたとは露程も思っておらず、さすがに反省した。


「でも、高明はいい奴だ」

「え?」

「俺の事を助けてくれた」

「……何の話?」

「鬼に襲われそうになった」

「え!?」


 そんな話は聞いていない。高明も話していなかった。


「そこへ颯爽と高明が現れて、俺を助けてくれた! あいつはいい奴だ! 信用出来る!! 馨子の婚約者としては申し分無い!! いや、高明以外は有り得無い!! だから、俺も婚約を認めた!!」


 さすがに、情けない考えが過ぎった事は言わなかった。


「そう……それは、お礼を言わないとね」


 まさか、雷蔵の命の恩人だったとは。これに関しては恩を感じざるを得ない。

 婚約者になったからには、またいつか会う事もあるだろう。その時に礼を言う事にした――ついでに破談も考えて貰う様に説得しなければ。

 先が思いやられる。


 こうして、馨子のとんでもない一日が終わりを告げていくのだった――。





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