第弐章


「婚約者、ですか……?」

「ああ、そうだ」


 高明は父親である本條辰男ほんじょうたつおに呼び出され、辰男の書斎に来ていた。辰男は家に帰って来るなり、高明を呼び出し、婚約者の話を切り出したのだった。


「早く決めて貰わねば相手も困るだろう」


 事前に数人と会ってはいるが中々決められずにいた。


「何か意見があるならちゃんと言え」

「あ、いえ……」


 高明の返答は煮え切らないものだった。

 辰男は椅子から立ち上がり、高明の前に移動する。


「どうした。私はお前の父だ。それに、ここには今私とお前の二人しかいない。素直に言ってくれ」


 優しい辰男の口調に、高明はそっと口を開く。


「――想い人が、います」

「何……? どうして早くそれを言わないんだ。どこの誰だ?」

「たかちほ家の娘です」

「たかちほ……? 聞いた事が無いが……」

「町で、見かけた娘です」

「町娘だと?」

「はい」


 財閥の人間であるにも関わらず、町娘を好きになる等言語道断だ。叱咤される事を覚悟した。


「どんな娘なんだ?」

「え……?」


 意外な返答に思わず呆気に取られる。


「どんな娘なのかと訊いている」

「あ、はい……その……とても優しく慎ましやかな女子かと……」


 よく分からないのでそれっぽい言葉を並べておいた。


「そうか。じゃあ、そのたかちほの娘を貰う事にしよう。明日にでも連れて来い。私も会ってみたい」

「あ、明日、ですか……?」

「何だ? 難しいのか?」

「あ、いえ……その、確認を、してみます」

「そうだな。私もあまり時間が取れない。だが、なるべく早く会っておきたい。都合をつけてくれ」

「……はい」


 高明は頭を悩ませながら父の書斎を後にした。



 ***



「俺の作品の何がいけないんだ!」


 大声を上げながら机を叩き、立ち上がる。


 あれから半年が経ち、雷蔵はやっと一作書き上げる事が出来た。家から一番近い出版社へ売り込みに来たのだが、今回も編集者の顔は苦い。それが雷蔵は気に入らなかった。

 編集者は儲かる仕事なのか知らないが、見た目もちゃんとしている。真っ白なシャツにベスト――洋服だ。

 今では洋服を着ている割合も多くなってきたが、まだまだ貧困層には手が届かない代物。そんな物を着ているのも気に食わない。

 作家にはなりたいが、どうもこの編集者という立場の人間を好きにはなれなかった。その編集者が、自分の作品を評価してくるのだから余計に腹が立つ。雷蔵はここへ来ると毎回の様に怒鳴っていた。


「う~ん。何かありきたりというか、パッとしないって言うかね~」

「毎回それじゃぁねぇか!」

「だって、毎回そうなんですもん」

「かぁー!! 俺の作品の良さが分からないなんてどうなってんだ!」


 雷蔵は目元を左手で覆いながら尻餅を付く様に椅子に座り直した。


「もっとボキャブラリーを増やすべきですね。基本ですよ?」

「ぼきゃ……えぇ?」

「ボキャブラリー。単語を沢山覚えるんですよ。貴方の作品は、そうだなぁ……子どもが書いたみたいなんですよ」

「子どもぉ!? 俺が子どもだってぇーのか!?」

「少なくとも文に関してはそうですね」

「ああ! そうかぃ! じゃあ、もういい! 新しい作品が書けたらまた来てやらぁ!」

「はいはい。もっと本読んで勉強して下さいね~」


 雷蔵は編集者に見送られながらガニ股で足を広げ、荒々しく帰って行った。

 編集者はベストを直しながら一つ息を吐き、自分の仕事に戻って行った。



 ***



「ぼきゃ……なんとかかぁ」


 啖呵を切ったのはいいものの、ちゃんと落ち込んでいた。

 トボトボと歩いていると、本屋の前まで来ていた。ふと立ち止まり、一冊の本を手に取って見る。パラパラと捲る――と店から親父が出て来た。


「うちは立ち読み禁止だ!! 読みたいなら買っていけ!!」

「わ、悪かったよ!!」


 門前払いを食らってしまった。雷蔵は急いで本を元に戻し、そそくさと立ち去る。

 買う金があるなら買うに決まっている。

 滅入った気持ちが抜けず、フラフラと歩いて、その内橋の上まで来ていた。


「はぁ~あ~」


 欄干に肘を付き、川のせせらぎを聞きながら大きな溜息を吐くと、橋の上を歩く人達から注目を集めるが、そんな事今の雷蔵には関係無い。それに何より、雷蔵の目は川へ向いている。周りの視線に気付く事すら無かった。

 今度こそ自分の作品が認められて作家になれるものだと思ったのに。原稿用紙の入った封筒を目線の高さまで持って来て凝視する。

 こんな事では今回も馨子に顔向けが出来無い。帰り辛い。


「もっと本を読め、か……」


 編集者の言葉を思い出す。

 昔は沢山本を読んでいた。だが、今では生活苦の為に全て売ってしまったので一冊も残っていない。勿論、新しく買う金も無い。本を沢山読める環境があれば、作家になれるのか?


――そんなに夢を追いかけてはいけないのか?


 もっと環境が整っていれば許されたのか。今の困窮した生活を呪う。


「どこかから泡銭でも沸いて来ねぇかなぁ」


 そう、呟いた時だった。


「鬼だ―――!!!」


 誰かの叫ぶ声が聞こえた。

 慌てて声のした方を向く――赤黒いオーラを纏った異形が橋の向こうにいた。

 明らかに人間ではない。確かに鬼だ。


「あれが……鬼……」


 殆ど家から出ない雷蔵は初めて鬼を見る。

 どすどすと足音を鳴らし、額からは二本の角が生え、口元には大きな牙が見える。

 人々はそんな鬼を目の前に、恐怖し、取り乱し、慌ててその場を走り去って行く。

 だが、雷蔵はその場から動かなかった。

 寧ろ、このまま鬼に殺されるべきなのではないかと感傷的に思っていた。

 生きていたって夢は叶わない。唯の穀潰ごくつぶし。馨子はもう立派に育っている。自分がいなくたってやっていける――


 目の前に鬼が立った。


「俺ぁ、ここで終わり――」


 だが、その目の前に影が立ちはだかる。

 腰から刀を抜き、鬼の前に突き付けた。


「逃げろ」

「え――」


 顔を上げると自分よりも背の高い人物が立っていた。少しだけ振り返ったその顔は、自分よりも若く見えた。年は馨子と同じ頃だろうか――見覚えのある顔だ。


「あんた、この前の!?」


 思い出す。馨子に話しかけていた軍人だ。

 その軍人――高明は學生帽を深く被ると、鬼に向き直る。


「何が目的だ」


 刀を突き付けつつ、鬼に話しかけている。だが、鬼が話す訳が無い。


「殺生はしたくないが、今直ぐこの場から去らなければ、容赦無く斬る」


 鬼はその言葉を聞いて煙の様に姿を消した。

 高明は刀を鞘に納め、雷蔵に向き直る。


「何故、逃げなかった」

「いや……」


 雷蔵は下を向く。


「たかちほかおるこ」

「――え?」

「彼女は、貴方の大切な人なのだろう? だとしたら彼女から見ても貴方は大切な人だ。貴方が死んでしまっては、彼女が悲しむ」

「ふんっ。馨子は強い子だ。俺がいなくたって生きていける」

「生きていればいいのか」


 顔を上げて高明を見る。


「彼女が生き延びたとしても貴方がいなくなれば悲しみが生まれる。それは彼女の中から一生消える事は無い。それがどれ程辛い事なのか彼女の立場になって考えてみて欲しい」


 雷蔵の頭の中には去って行った妻の姿が思い起こされていた――あんな思いをするのは、もう嫌だ。

 自分が死んだら馨子に同じ思い――いや、それ以上の重荷を背負わせるのか。

 雷蔵の目に涙が溢れる。自暴自棄になっていたと自覚する。


「まさかこんな子どもに説得させられるたぁ、情けねぇ」


 溢れて来る涙を拭い、しっかりと高明を見た。


「軍人さん! 俺ぁ、あんたに何か恩返しをしなきゃならねぇ! 何でもいい! 言ってくれ!」

「何でも……?」


 高明は断ろうと思ったが、馨子の姿が過ぎった。


「では、一つだけ――」



 ***



「馨子!! 馨子―――!!!」


 外から自分を呼ぶ騒がしい声が聞こえて馨子は顔を顰めた。


――いや、待て。


 この雷蔵の声は今までに聞いた事が無い程に嬉しそうだ。しかも今日は出版社に原稿を持ち込みに行くと言っていた。もしかするともしかするかもしれない――。

 馨子は姿勢を正す。雷蔵の作品が認められたのならこれ程嬉しい事は無い。一緒になって喜ばなければ。それにこの苦しい生活からも脱却出来るかもしれない。そう思うと馨子の頬が緩んだ。


「馨子!!」


 建付けの悪い扉が珍しく勢い良く開いた事で、馨子の予想を色濃くさせた。


「父さん! もしかして――」

「お前の婚約者が決まったぞ!!」

「――はい?」


 聞こえたのは予想の斜め上だった。肩から力が抜けていく。


「……何言ってるの?」

「だから、婚約者が決まったんだよ!!」

「はぁ……私が莫迦だった」

「速く、速く入ってくれ!」

「え?」


 誰か連れて来ているらしい。一体誰が――


「失礼する」


 馨子は目をひんむいた。


――そこにいたのは、名を訊いてきた若い軍人。


 その姿を認めるなり、馨子は直ぐ様その場にひれ伏す。


「何してんだ、馨子」

「も、申し訳御座いません! うちの父が無礼を!」

「はぁ? 俺ぁ、何の無礼もしてねぇよ」


 では、何故軍人の彼がここまでやって来たのか。

 高明は靴を脱ぎ、畳へ上がって、馨子の前に片膝を付く。


「顔を上げてくれ」

「で、ですが……」

「いい」


 馨子は、そっと頭だけを上げた。


「普段の様にしてくれ」

「さ、さすがにそれは……」


 馨子は再び頭を下げる。


「気にするこたぁねぇぞ、馨子」


 父さんはもっと気にして、と思った。


「こいつは馨子を嫁に貰いてーんだとよ」

「は?」


 今まで出した事の無い程間抜けな声が出た。思わず顔を上げる。

 そういえば婚約者がどうのこうのと言っていた――まさかその婚約者がこの軍人だとでも言うのか。にわかには信じられなかった。


「やっと、目が合ったな」

「え?」


 ふと気付く、ずっと見つめ続けていた。


「申し訳――」

「いい。そのままで」


 再び頭を下げようとしたが止められた。


「ですが、軍人さんに――」

「私はまだ軍人では無い」

「え?」


 小首を傾げながら相手を見る――軍人では無い?


「私の名前は本條高明という。将来は軍人になる予定だが、今はまだ學生だ」


 櫻子から聞いた通り本條家の人間だった。

 それにしてもまだ學生だったとは。確かによくよく見てみると學生服を着ていた。少し気持ちが軽くなる。


「私も好きに座る――かおるこも好きに座れ」

「は、はぁ……」


 名を呼ばれた事で、心臓が跳ねた。

 一度しか言っていない名をよく憶えていたなと不思議に思う。どちらかというと珍しい名だと思うのだが。


「訊きたい事がある」

「な、何でしょう?」

「たかちほかおることはどのような字を書くのだ?」

「あ、えっと……」


 雷蔵に視線を送る。


「馨子は字が書けねぇんだ」

「そうか」

「代わりに俺が書く」


 雷蔵が筆を取り、原稿用紙の裏に大きく『高千穂馨子』と書いた。高明はそれを見て微笑む。


「いい名だ」

「だろぉ~? あんたはなんて書くんだ?」

「筆を」

「はいよ」


 雷蔵から筆を受け取り、『本條高明』と馨子の名の隣に書いた。


「本條高明と」

「へぇ~、立派な名前じゃあねぇか」


 感心する雷蔵を馨子は怪訝そうに見ていた。あんなに軍人を嫌っていた割に気さくに話している。雷蔵が裏表の無い人間だと言う事は馨子が一番判っている。一体、二人に何があったと言うのだろう。


「馨子」

「あ、はい」

「突然で申し訳無いが、私と婚約して貰えないか?」

「え……」


――何が起こっている?


 確かに高明は珍しく自分を気に入ってくれた人だが、婚約を申し込んで来る程交流があった訳では無い。唯、名を訊かれた覚えがあるだけだ。なのに求婚?


――そんなに上手い話がある訳が無い。


「疑問に思うのは承知の上だが、私は本気だ。馨子が良ければ私の父に会って貰えないか」


 こんなにとんとん拍子に話が進むものだろうか。益々馨子は躊躇った。


「高明の父ってぇのは、軍の人か?」


 高明が頷く――と同時に馨子が驚き、雷蔵の膝を叩く。

 雷蔵はそんな馨子を気にしたが、高明の声が聞こえて来て直ぐに忘れた。


「軍の大将をしている」

「大将!? そりゃあ、立派だ! 俺も昔はガキ大将やってたんだ! 何か親近感が沸くなぁ」


 馨子がペシッと雷蔵の膝を再び叩くと「そんなものと一緒にしないで」と小声で忠告された。「そうか?」と雷蔵は悪びれていない様子。


「それから本條さんに対して失礼過ぎる。名前まで呼び捨てにして――」

「気にするな。いずれもう一人の父となる人だ。高明でいい」

「は、はぁ……」


 馨子の気も知らず、高明はもう結婚する気満々の様だ。心底困りながら助けを求める様に雷蔵の方を向くと自慢げな顔が向けられていた。馨子は先程よりも眉間に皺を寄せて雷蔵を睨んだ。

 だが、そんな馨子の睨みも雷蔵には効かず。「俺の事も雷蔵って呼んでくれていいからよ!」と高明の背中を叩く。「承知した。では、雷蔵殿と呼ばせて貰う」と高明も返した。


「で、その日取りってぇのはいつなんだ?」


 高明同様、雷蔵も乗り気だった。

 何で自分よりも雷蔵が乗り気なのか。馨子は納得がいかない。


「父の予定もある。出来れば――今日」

「「今日!?」」


 親子共々驚いた。


「それは、今直ぐにでも行かねぇと日が暮れちまうぞ」

「で、でも……」


 雷蔵が慌てる。

 だが、馨子はまだ気持ちが固まっていない。

 その時、高明が懐から茶封筒を取り出し、畳の上を滑らせた。


「これで、一緒に来て貰えないか」

「何だこれ?」


 雷蔵が手に取って中身を見る。


「さ、札束!!??」

「え!?」


 馨子が無理矢理雷蔵から茶封筒を分捕り、中身を確認する。確かに札束だった。しかも茶封筒一杯に。慌てて高明の胸に押し付ける。


「こ、こんなもの頂けません!!」

「だが、納得して貰えない様だった」

「行きます! 行きますから!!」


 もう自棄だった。


「――そうか」


 高明の安堵した微笑みに、胸が暖かくなる感覚がした。


「では、行こう。その身なりでは父も納得しないだろう。まずは呉服屋に行って――」

「「呉服屋!?」」


 そんな場所に行くのはいつぶりだろうか――もう思い出せない。

 雷蔵も馨子も顔を見合わせ手を取り合いながら心躍らせた。

 だが、現実を思い出す。


「でも、金が……」


 そう、高千穂家は極貧なのだ。

 だが、高明が頼もしい言葉を口にした。


「それなら問題無い。私が全て持つ」

「「えぇ!?」」


 二人は目から鱗。


「その格好では私も恥をかく」


 グサッ。


「それに父に婚約を認めて貰うには、それ相応の格好をして貰わねば……失礼だが今の格好では厳しい」

「「ですよね……」」


 仮にも財閥の婚約者になろうと言うのだから、こんな見た目では格好がつかない。馨子は自分の着物を見下ろした。高明の前にいるだけでも顔から火が出そうだ。


「だったらやっぱりもっと相応しい方がいらっしゃるのでは」


 馨子が切り出す。


「相応しいとは?」

「家柄もそうですし、見た目もそうです。私の様な一町娘では無く、同じ財閥出身のお嬢様をめとっては如何でしょうか」


 馨子は自虐的に言ってから下を向く。


「馨子がいい」

「え?」


 顔を上げると高明の真剣な表情が見下ろしていた。


「家柄も見た目も私には関係無い。君がいいんだ、馨子」


 そっと左手で馨子の右頬に触れる。左頬に柔らかい感触がした。


――何をされた?


「お、おまっ! おまっ! 高明!! 何してんだ!!」


 雷蔵の声で我に返った馨子は何をされたのかようやっと理解した――口付けをされたのだ。

 顔を真っ赤にしながら左頬を左手で覆う。


「言っただろう。私は本気だ」


 熱を帯びた瞳に馨子は更に頬を染めた。

 雷蔵は完全に蚊帳の外。納得がいかず、声を上げる。


「おま――」

「判りました」

「か、馨子!?」


 だが、その言葉を馨子が遮った。


「私を、本條さんのお父様に会わせて下さい」



 ***



 呉服屋で仕立てて貰った服はとても上等な品だった。

 上布で出来ており、今まで馨子が着ていた着物とはまるで別物のようだ。柄は好きな物を選んでいいと言われたが沢山有り過ぎて選ぶのに時間がかかった。吟味した結果櫻の柄にした。櫻子を連想させ、何だか心強い気がしたからだ。

 雷蔵は兎に角ド派手なものをと幾何学きかがく模様で敷き詰められた目が悪くなりそうな着物を選んだ。

 次に行ったのは 散髪屋。

 馨子は前髪も後ろ髪もきっちりと揃えて貰い、その上お団子に結って貰った。

 雷蔵も伸びっぱなしの髪の毛を短くして貰い、髭も全て剃って貰った。

 二人とも、数時間前とは比べ物にならない程見違えた。

 ちなみに、代金は本当に全て高明が持ってくれた。


「これなら問題無い。では、うちへ。父も待っている」


 そうだった、と本題を思い出す。この格好も全て高明の父へお目通りする為の準備だったのだ。雷蔵はいつも通りだが、馨子は緊張した。


「いやぁ、お山の大将さんがどんなお人なのか楽しみだなぁ。な、馨子!」


 馨子は飄々としている雷蔵に苛立ちを覚えながらも何も言わなかった。どちらかと言えば緊張が勝っていた。雷蔵にいつもの憎まれ口を言えない程に頭の中が真っ白。


「ここだ」


 高明の声がして見てみると、そこは料亭だった。

 てっきり基地の中にまで連行されるものだと思っていたが全く違った。馨子は少し安堵しながら胸をさする。

 どこまでも続く門。かなり大きな料亭だ。

 高明に続いて中へ入ると、日本庭園が広がっていた。鹿威しの音が響くと同時に馨子の体も跳ねた。


「な、何の音?」

「鹿威しだ。気にするな」

「ししおどし……?」

「風情があっていい音じゃあねぇか」


 この男は緊張というものを知らないのだろうか。

 引き戸を開けると直ぐに女将と仲居が出て来て膝を付いた。


「本條だ」

「仰せつかっております」


 高明が名乗ると女将が答え、仲居共々両手を付いて頭を下げた。


「行こう」

「おうよ」

「は、はい」


 高明は雷蔵と馨子に声をかけると靴を脱いで女将が案内するままに先を行く。

 雷蔵も無作法に靴を脱ぎ、そのまま高明を追いかけた。

 馨子はどうしていいのか判らず、右往左往していると「どうぞそのままお上がり下さい」と仲居に声をかけられた。

 とりあえず下駄を脱ぎ、振り返って揃えようとすると「お気になさらず。こちらでやりますので」と微笑まれた。


「し、失礼を……」

「いいえ」


 恥ずかしくなって一礼してから慌てて高明と雷蔵の後を追った。

 廊下を進むと先程見た日本庭園がより近く見える。鹿威しの正体も分かり、安堵した。


「ここです」


 女将の凛とした声の方を向くと、雷蔵の背中にぶつかった。


「どうした、馨子」

「何でも無い」


 鼻を押さえつつ、案内された座敷に入って行く。上の方に漢字が書いてあったが、馨子には読めなかった。座敷の名だろう。

 高明が一番に入り、雷蔵、馨子と続く。三人が中に入ったのを見計らって女将がまた膝を付き、一礼してから静かに戸を閉めた。


「父はもう直やって来るだろうから先に座って待っていよう」

「そうか。俺ぁ、どこに座ればいい?」

「そこへ」


 床の間の目の前を開け、机を挟んで反対側を掌で示す。


「ここか。よいしょっと」


 雷蔵は胡坐をかいて座ったが高明が注意する。


「申し訳無い。その格好では父に失礼になる。正座で頼めるか」

「正座ぁ!?」


 雷蔵は不満そうに声を上げたが今度は馨子が叱る。


「当たり前でしょ! 失礼があったら――」


 その先の言葉を飲み込み、高明の様子を伺う。愛想笑いをしてから雷蔵の隣に正座し、耳打ちした。


「軍のお偉いさんに失礼があったら私達の命なんか幾つあっても足りないんだから」

「違いねぇ」


 馨子の言葉に顔を真っ青にしながら座り直した。さすがに対面で会うとなると雷蔵も身を正す。それに雷蔵としては考えがあった。財閥である高明と馨子が結婚してくれたら生活は見違えるだろう。本だって沢山買えるに違いない。そうなれば作家の夢を叶えられるかもしれない――そんな身勝手な企みがあった。

 その為自分のせいでこの話が白紙になれば作家の夢も遠のく。軍の人間は気に入らないがこの機会を逃す訳にはいかなかった。


「わ、私はここで宜しいでしょうか……?」

「ああ」


 馨子は恐る恐る高明に訊き、座布団の上に座り直した。高明はその対面に静かに座る。

 暫く三人の時間が続いた。


 そして、現れた。大将を務める、本條辰男が――。





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