2月|読んだもの

 

若きウェルテルの悩み(1774年/ゲーテ 著 高橋 義孝 訳 新潮文庫)

光の皿 影の匙(灰崎千尋 カクヨム)

フルーツパーラー(川谷パルテノン 京都文フリにて入手)


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若きウェルテルの悩み(1774年/ゲーテ 著 高橋 義孝 訳 新潮文庫)

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叶わない恋をした男が自死に至るまでを書いたお話であることだけは知っていた。だから読みながら、どのようにして彼の心理や、そこへ至るまでの生活なり顛末が描かれているのだろうと思いつつ読んだのだが、あったのは、人間的に極めて不器用な、たくさんの考えが頭の中でいっぱいになるのに、その発露方法ないし発散法法の術を知らない、繊細で純粋で生真面目な(ものに実直すぎるゆえの疲弊と、移入のしすぎがある)ある青年の吐露、不器用なりの自己行動についての記述と認識だった(認識はするものの、それに対する対応の術をしらないお話)


いまでいうならこの、ウェルテル氏の心理や苦悩・精神的な苦痛については、しかるべき医療機関などで治療を受けるべきである、という感想を抱く側面があるだろう。実際わたしも、彼の、婚約者が存在するのに取り憑かれたようにその女性を好きになり、所有したいという願望さえもを友人の手紙の中で告白してゆくさまには、小説的なおもしろさを感じつつも、人間性格的な面での引いた感覚があった。単純な言い回しをあまり用いたくはないが、ストーカー的性質を有しているほどの「取り憑かれ」であったと思う。


宗教画的な描写がされるほどの衝撃的な一目惚れからはじまり、彼女の住処への往来と会話、趣味の共有(どうしようもなくセンスが合う)などを行い、遊びをし、こどもたちの面倒をみ、彼女に気にいられようとするが結局、彼女には彼がいる。どれだけ友好を築いてもそれ以上になることは決してない。だから彼女は尊き存在であり、家族のようなものであり、兄姉のようなもの。恋愛感情を抱いてはいけない。大切にしなければならない。―――と自分に言い聞かせるが、言い聞かせれば言い聞かせるほど、嘘をつくことになり、苦しむ。あってはならない現実であり心理に苛む。自分は知り合った時点で以後の存在で、彼女の横の彼の座へ決してゆくことはできない。抱きしめることはできない。所有することはできない。性的な劣情をぶつけることができない(*1)。当時代ないし社会の男性的な性質側面が出ているとも思いつつ、欲望とそのやりとりの中での発露の出し合いつまりは、「境界を混ぜる」という危険行為を行使できうる関係性、お互いがお互いのために行う一方通行でない行動。


この、ロッテとウェルテル氏の云々はそも、はじめから最後まで「ない話」をしている。夢であり妄想であり妄執。非・現実的な成就願望ばかりが書かれている(何故ならば吐露の手紙であるから)。けれども当人は、それをわかりつつ、「本当にそうなったらいいのに」と、目の前の相手のことをみず、妄想の中にある彼女と景色ばかりをみる。「別地で暮らしているときに仲良くなりちょっと合うかも、と思った女性に君の面影をみた」などと手紙に書いて送ってしまう。結果、自覚的であるにも関わらず、思考が欲に引っ張られ困る。ギャップが埋められず苦労をする。アイドル的な存在とそうでない自分があるとして、自分とその人は「境界が明確にあるからこそ成立をする相互関係だ」となるからこそ=リスペクトが生じるとわたしは考えるが(人間が人間と関わるとして)、そこを無視し、行き過ぎた欲望や、当人の感受性由来で抱いた感覚や言葉を伝えるのでなく「ぶつけられたら」どうなるか、がこれである(*2)


言葉はあればいいわけでなく、やりとりがあってこそ受け取れる。ひとりがひとりとして、抱いているものそのすべてを伝えたからといって、コミュニケートが成就するわけではない。やりとりを無視した成立はよっぽどのことがないとありえない。不用意にものをぶつける行為は、人間がやりとりを行う中でどうしても発生しうる事案だが、けれどもそれは、ある程度実地が効くもので、いきなりむずかしいことにかかって死ぬ、のではなく、ちょっとしたやりとりで失敗をして、成功をして、なあなあになって、という中でわかってゆくものと思う(シミュレートがあるにしても、最後は必ずアナログな動作実施になるのが、これらで生じる困りであり、実施のむずかしさと感じる。どうしても筋肉的な性質がある)


が、ウェルテル氏はそうでない。すべてに100で挑み、100かそれ以上の受け取りが起きる。不器用なのである。これら由来で彼は、社会に対する不得手がある。が、どうにか生き延びている(困りもあるが、社会的な自分を行うことが一応可能な人間あるし、基本好かれやすい方のため)。けれども恋愛はそうではなかった。自己内での不和が起こりやすいものだった。叶わないものの前に限界を迎え、けれども得たい(ないしは助かりたい)と思ったため相手に「死」をぶつけるに至った。良悪抜きに、覚悟をもってなにかをするのはこうした危うさがつきものと思う(*3)


彼が、このどん詰まりから抜け出すには彼女を諦めるしかない―――ということは実はなく。極端でなくてもいいはずである。ふわっとして、なにもなくても。が、彼はそうできない。それが彼の良さであり、危うさであり、自己矛盾を解決するために死へ向かう必然であった。どちらかにしかゆけないと彼は思う。選ばなければならないと彼は考える。わたしは進まねばならないと。選ぶことにこそ意味があり、価値がある。帰結をつけねばすすめない。すべてに手をつけて、組みかかって、一喜一憂し、たくさん喋る。あらゆるものに興味があり、そのすべてを自分ごととして愛しく思い悲しくなる。ゆえに情緒が不安定になる。ものを真正面から捉えすぎる。自分の中で。自分の世界で(*4)


せめて世界が壊れるとき、そこにあるべきは「そうしたかったがそうできなかった」という不条理でないといけない。外的要因でないといけない。不条理故に自分は苦悩し、殺されてゆくのだとならねばならない(極端な書き方で恐縮だが)。抱き自体は悪ではないし、内面というのは基本的に嫌悪されるもの。だからそこが不器用だと、人間の社会として生きる場合に衝突や諍いが起きやすい。動作を行えば非難があり、最悪の場合には罪となる。けれどもそれらが罪となることで、社会の側は存在できるし、大半の人間は人間として生活を行うことが出来る。


「していいこと/してはいけないこと」というものがあるからこそこの世があるが(宗教が、苦悩する自分とけれどもと、世へのアプローチを説くように)、はじめから終わりまで自分が属しうるものでない人間であったとき、それを見据えねばならないとき、どうすればいいのか。生きれば良いのか。人間が人間として存在し関係を築くことのむずかしさ。最初からそれらが思考フォーマットとして自分の中に備わっているわけではないこと。学ばねばならない側面がある自己と思考と方向の云々。(*4)


ここには止めるものがいない。助けがない。我々は傍観者、覗き込むものでしかなく、彼は、彼の触れたもの、見聞きしたものによってどんどん視野を狭窄にさせ、そうして、最後にこうなる。「所有すべき権利はぼくにあり、彼女を縛り付けている婚約者の男は悪者であり、彼女の表情や、わたしに対して行ってくださった事柄をみればそれがわかるし『もう逢わないで』とわたしに云うのも婚約者の力が及んだために云わされているのだ。だから彼女はおれを愛しているのだ。それを受け取るためにぼくは死ぬ。死んで彼女とひとつになる。そのことを彼女には手紙で伝える。彼の世界はあくまで彼のもの。彼の中にしかない。自分の世界を中途半端になどできない。だから登場人物たる他者を巻き込む。納得のために」―――250年は前の時代に、いち人間としての不器用さと極端な発露を描ききっている。それがすごいと思った。よい小説だった(*5)



*1

と書くとかなり道具的に相手をみていることになるが、願望所作としては人形へ向けたものが近い。人形は理想であり、相手を高く見積もることになる(想像と現実が介入するため)。とはいえ人間がなにかに憧れたり恋慕をする場合には、大なり小なりこの要素が発生するのは必然である。それがあるから踏ん切りがつくし行動もする。現実を知るからいいとも云えないが、現実を知らないと妄想も出来ない。が現実とはなんであろうか。混ざっているのが人間の景色であり孤独、それが常であり一個体の実情、孤独があるからものをみる、時としてみすぎる、と漠然だが思う。


*2

これには例外があり(ある、と取れる場合があり)、受け手が浮ついていられるよう、期待や欲を弄ぶ方向性の動作構築がある場合もある。境界で遊ぶ行為は、リスクリターンが強まるため実施難度が高まる。とはいえあくまで、これらは、金銭があるから生じる動作の延長が基本であり、無償でそうした行為をすることはよっぽどのもの好きか、なにかに騙くらかされているか、奉仕的な存在ないしは、それを受ける対象側が特異であるという、なにかになると思われる。


かつまたこれにより云えるのは、「対象側が特異である」ということを意識的に行う方もいるということ。対象心理につけ込んだ一種詐欺的な行為であるが、元々の発生源は金銭関係ですよね、その延長上のモノである以上、そうなれないなら終わりですよね、というのが、ここへ埋没したときに困る矛盾であると思う。最初から最後まで埋まっている、というのが大事になりそう―――など云々をメモしておく。


なんにせ基本は、これら動作を行う状態に所属していたとしても、「=であるならば人の懐に這入り込んでもよい」「=であるならば対象の人格心理感情を無視した動作行使をしてよい」などという方向へ向かうのはとても危ない。けれども仮に、自己がその当人であったとして、なんらかの介在なくそれに気付くことが果たしてできるのか。状況的には実は当人もそれら自己心理に当惑しており、助けが必要な状況があるのではないか、という心理が発生しうる。


人間にとって自己心理が、人間を活かすこともあれば、どれだけ厄介なものになり人を死に至らしめるか。良くも悪くも、人間動作として発生するバグみたいなものが執着と思う。人間は存外すぐバグるので、それを診ていただくというのは、どこまでもアナログな実施であるが、あらゆる人間に補助としてあるべき機構と感じる(ここへつけ込んで良くない介在を行うものもあるのだが)。辿り着くことのむずかしさが、どうしてもあるのは否めない(人間一個体として社会に属するのが苦手であるからこうなるし、助けを求めるのに苦心があるからこうなりうる、というもので。小説と関係の無い云々ばかり書いてしまった。申し訳ない)


*3

覚悟の側には常に死があるため。けれどもそれらは大抵、やわで、言い聞かせのための方便が多い(それでもよい)。ただ半端にそうなると、不安定な自身に振り回され自重に耐えかね破滅する。破滅するならまだよいが、それに至れずに終わるのが殆ど。生き延びるとすれば異様に運がよかったか、舐めているゆえのフカシだからか、極めて柔軟な存在か、終わったことに気付いていないか。常にすべてに全力なら、どこかその人はかならず死ぬ。超人的である代償で(個人的見解)


*4

教えられることは殆どない。自然に身につくものも居ればそうでないものもある。ならば自ら学びにゆくしかないが、果たしてそう落ち着けるのか。他者としての己を見据えられるのか。自分は自分であるはずなのに、なぜ自分であるはずのものを直さねばならないのか。生きることの容易でなさを読みながら思った(不器用ゆえの困りが徹底的に描かれていたため)


*5

今回はかなりうだうだ書いたが、これらをはじめから円滑に行える人間がどれだけいるのか。自分も自分でやはりこういうもので、たまたま生き延びているだけではないか。いまも昔も人間はこんなものでだから人によっては刺さるし、嫌悪するし、断罪する。話題にして見解を得る。そっとしておくのが苦手で。


小説のシーンとしては、彼女への一目惚れの際に、形容としての言葉が沢山ありつつも最後には「天使、かな―――」と極端にシンプルな感嘆になるところがすきだった。そのあたりの語感のバランスというか、寄り添いがよかったのだと思う。


彼はどこまでも純粋だったし(他者からみて怖いくらいに)、人をみ、人をみていなかった。自分をしっかり信じていた。許せなかった。極端であることを抜きにして、人間誰しも側面としてこういうのがあると思う。ヒトは動物であるはずが、生きるには性質が酷だ。だから安定して長生きできるが、悩んで死にも近付きやすい。もちろん生を悲観せず、せめて楽しむこともできるが(たのしむとはなんだろう)


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光の皿 影の匙(灰崎千尋)

https://kakuyomu.jp/works/16818093093393144986


閉ざされた空間の中で、食物として成長してゆく少年少女と、それを食べて愉しんでいるお父様方のお話だった。内の世界と外の世界で、半ば理不尽な戒律の中、なにかに準じてゆくさまを描いた作品は、思春期特有の心理感情が増幅されたり、未知へ向かうことの達観と不安が色濃く描かれたりする。この小説もそれが主のようでその実、思春期と食が接続し、三者が三者なりの結論を見いだすことそれ自体が、この空間をつくったものども―――お父様方の食を育み、愉悦を増やすという図になっている。その図式がよいと思った。


悪夢を喰う貘みたいなものすごいグルメの上位生命体があり、それが滅びかけていた地球人類を助け、自分の求めるおいしさの探求を行うための施設をつくり、すまわせる。家畜として生を育んでもらう―――SF的なお話ではあるが、云ってみれば人間だって、こういう風にして食物となるものを育て、いただいている。動物や穀物、植物、それをどう育て、どう調理し、どういただく場の雰囲気、順序を組み、最良の食体験にしてゆくか。


お父様方もそれに同じで、ただただ徹底して興味があるのだ。なにかを食し、味わい、愉しみたいだけなのだ。なのでそのためには時間や次元すら司ってしまう。どんどん実ってゆく存在に最高の状況でスパイスを提示し、それがなにをどう選択したか、そのパターンのすべてを食べ、愉しむことで幸福を得る。感想を言葉にし、しみじみとする。はたからみるとその光景は「○○狂」と言われるものではあるのかもしれないが、彼らにとっては食を愉しむこと、それ自体が生きることなのだ。そのための最良を尽くしている。実直だからこうみえるだけで、決して悪意はない(食として育てられた側が一個人としてどう感じるか、思うか、惑うことになるかは別で、けれどもそれ自体が食に生きる)。作者さんの食へのこだわりや所感が、これら状況を通すことで出力されている(と思われる)お話だったと思う。「凝る」というのを傍からみてなんらかのものとして抜き出すと、得体がしれぬものとなり不気味さが生じおもしろさになる、のかなと個人的には感じた。


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フルーツパーラー(川谷パルテノン 京都文フリにて入手)

https://parthenon.booth.pm/items/6508815


京都文フリにて購入。以前大坂文フリでいただいたサンプルが一冊の書籍になったもの。冒頭にはパルテノンさんがプレイされている格闘ゲーム、ストリートファイター6のキャラクターであるリリー氏への謝辞が載っている。以下は感想。



アメリカのシャーペン

クラスの男の子がなくした「アメリカのシャーペン」をめぐるお話。一悶着が抜き出されてままそこにある印象を受けた。中学生か小学生かはわからないが、集団内でトラブルが発生するときは大抵こういう、なにかに思考をとらわれた人間の動揺由来という気がする。個人的にすきなのは全体を通して、いつでも介入できるようでひたすら傍観しているさまがあること。主観人物の彼が眺める光景は、常に人物の身体性とか思考性を引いてみており、洞察力があるのだが、そのままにする。はいってゆかない。解決を有しているのに、状況をみすぎてものを言い出せなくなることはままある気がする。空転をコミカルに書いて、それがどこへ向かうのだろう、というところで終わってゆくのがよかった。なにかがなにかになることでなく、浮つくことを書いていると感じた。



オーパーツ

重苦しさがあるようで最後には軽快になる。突然の父との離別は悲しいものがあり、人間が人間との関わり合いを思うのもその人が亡くなってからという、普遍的な後悔の人間心理がある。いなくなってから現れたものが謎の発行する物体で、その物体を中心として話が転がるのがおもしろかった。転がるというか、景色がみえるという感じ。遺品ではあるのだろうが、カメラなどをみて故人を思うのとはすこし違う質感がある。SF短篇的な風味を個人的には感じた。奇異な遭遇をした物体に愛着が湧いてゆくまでの顛末は、未知の物体でありながらも、拾ってきた生き物を巡る小咄たちという風味でよかった。カラスと格闘をする人がすき。こういう抜け感がそれぞれの人物にあるのがよかったと思う。すきな一篇。



同伴者

サンプルで読んだ覚えのあるお話。娘の門出を思い返す事柄から一変、コロナ禍で会えていなかった時期を経て会ったら、娘の側に「何者でもない人」がいる。初読時も思ったことだが、芸人さんのコントのネタを小説として読ませてもらった感覚がある。何者でもない人がひたすらになにものでもないものだから、母と娘はどこまでも平行線の議論を辿る。このあたりがかなりコントのときのボケとツッコミぽく感じた。レンタルなにもしないもののように、なんらかの同伴があるほうが、上向く人生や行動もあるのかもしれない。具現化されたイマジナリーフレンド、みたいなものだろうか。なにものでもない事柄から逆に、ではなにものかであるとはなにかという問いに至り、最終的にストンと、母が何者でもない人を家へ招くという終わりからしても、彼は人間というよりも、人間空間に漂う概念の擬人化みたいなものかなと感じた(なんかそうなるものだし、あるもの)。世にも奇妙の導入を読ませてもらったような、そんな感覚のあるお話だった。



一夏

しみじみよさが湧いてくる一作。海外の短篇を読んだような後味があったと思う。男がある動作に参加することになって、それによって自身の過去、人生の分岐点を回顧し、それが現在の動向と繋がり、気付けばすこし不思議な、現実とも非現実とも取れる事柄に接続してゆく。8ページほどの短篇なのだが、かなり色々な味わいのあるお話。さきの短篇もそうだったのだが、パルテノンさんの小説は文の息がとても長く、それによって生じる思考の流転感が、今回の一篇にはとても合っていた。一息にものを喋り続けるとどうしても早口気味になることがあるのだが、パルテノンさんの小説はリズムがいいので読みやすい。この文章の組まれ方からコント的な味へと繋がったり、世にも奇妙的な風味になったり、今回のように一夏の不思議な体験としてのお話語りになったりする。それがよさと思う。カブトムシを一緒に探すだけのお話だが、みえる景色が優しくて、生活を感じられてよかった。



縞馬(しまうま)

シンプルなお話だった。コント番組などで、しっかりめのお話を一本やったあとに、すごく短いシュールなひとつのやりとりだけのなんらかが閑話休題的に挟まるやつめいていたと感じた。膨れ上がる話題とそれへの返答という、会話がただ切り出されているだけなのだが、これがここにいらっしゃるからほかの話題が立ちやすくなる。そういう掌篇だと感じた。小劇場的なものかもしれない。



魚影

誘拐された女の人の視点からお話がはじまり、誘拐をした男の視点になり、という風に事態が紐解かれてゆく。その紐解きが変にこんがらがって「こんな景色のところに来ちゃいましたけどどうすか」みたいな顔をしてこっちに問いかけてくる。そういう味がする一篇。途中にすべてをみていた犬がすこし喋って、去って行く。あってもなくてもいいくだりなのだが、それが一方その頃として真顔でやってくるのがよい。想定されるものから外れてゆく日常の端っこが極めて戯画的にみえてしまった。そんな味がすると思う。非現実的な現実、現状というか。ラストが存外爽快なのがすき。



フルーツパーラー

ファンタジー的な世界を舞台としたお話でありつつ、語られる内容の主が、冒頭で言及された竜のお話の云々からすこし離れたところにある。けれども遠いようで、物事の関係としてみると接続を感じる、そういうお話。表題のフルーツパーラーは作中で主軸になる二者が入ったお店のことで、そこで二者が会話をしていると猟銃をもった女性が入って来、主人公は親友を失う。―――ファンタジックな世界のお話ではあろうが、ある町と、町のふもとで生じた事件と、それに関わる事柄によって被害を被るわたしたち、という図式で、おおきな事態から伝染してゆく怒りとか悲しみとかそういう、わたしたちのせかいにある伝播が描かれていると思った。山での云々はTVの向こうに映る人間同士の殺し合いや、どうしようもない災害であり、それはここにいるわたしたちと無関係のようで、そんなことはなく。自分もそれの影響により当事者になりうる、ならざるを得なくなる、現実を喪失し、他者へ矛先を向けざるを得なくなる。なにかを奪われるとはなにか、諍いとはなにか、世の中がおかしくなるとはなにか、を書いておられた気がした。理不尽に巻き込まれるときにあるものは身近なものの延長、というか。



頭角をあらわす

頭に鹿角が映えた男の子のお話。ジャンプラの読切短篇でありそうなお話だった気がする。パルテノンさんの会話感としてこれもやはりコント的なやりとりというかコミカルさがある。それがあって、かつここにバトル漫画的要素がはいりこんでくる。この緩急というかバランスがおそらくはちょうどよく、ダレずに読み進められる。一部ダイジェスト的に省略を行いつつ、終始二者のやりとりでお話組みをしているのが、コント的な軽さありつつモノを構築するときの大事さと感じた。すこし不思議、がよいのだと思う。



坂道

自転車に乗った女性が、坂道をどこまでも下ってゆくことになり、止まらなくなり、過去の自分の回想をし、回帰から現実に加速し続けて煙に巻かれる、そんなようなものを読んだ。自転車の速度と思考の回転がリンクしていて、これが一篇の良さになっていると感じた。過去回想でありつつも妄想が混じるという真偽不明の箇所もあり、現実逃避が現在の彼女の状況に関係しているようにも思った。逃避というか、どこかへ向かって走ってゆきたい、それが一気に加速をして、加速をし続けて、し続けた挙げ句にものすごい、自分でも思ってもみないほどのスピードを有してしまい、いざ逃避から戻ろうとしてももう戻れない。どこかへ吹き飛んでゆくしかない。そんなお話だったと思う。終盤の語呂遊び的な箇所は多少困惑したのだが、現状の加速という逃避からすら逃避したい、という心理の表れが彼女をこうさせている、と思った。せめて遊ぶ、というような。



バイバイバルキリー

最後の一篇。22ページあり、この本の中ではいちばん長尺の短篇になる。映画をみたあとに押し黙った彼と、彼とお話をしたい彼女。云わない、を共有したせいで互いに互いの解釈でその風景を判断してしまい、気まずさが流れはじめる。一方その頃、という風に、入った喫茶店ではコピーバンドの解散に伴う激しめの口喧嘩が勃発している。それを眺めることになり、結果見入りすぎたために、ずうっと話したいのに話せていなかった彼女は限界に至り、バルキリーになってしまう。けれどもそれによって彼はシンプルに言うべきことを言うし、彼女は彼女で伺うだけでなく素直に聴き出すこともしよう、という風な心理改革が生じる。コピーバンドも存続が決まって、負の感情が漂っていた場所が最後には好転した場に変わる。かつそして、彼女の中にあったバルキリーの人格は、実は彼女が幼い頃にやってきた死神だった。―――という風な組み立てになっている。ひたすら目の前に現れたものでお話を組んでおられて、けれどもそれが、振り返ってみるとお話になっている。それがここまでに読んできたものにあった魅力だったと感じた。ものを否定せずみてゆく、リアクションを返す、表す。保留する。大げさにしつつ、スンとなる。ゆえにコメディが成立するし、場合によっては悲劇性を有する。そのあたりの決定、確定をする裁量の部分がパルテノンさんの作品の魅力だと個人的には感じた。ものを書くときは眼前のものを掴み取り、いれこむけれども、最後のところでのめり込みすぎず、適度に離れて形をこうする、けれども前に出す、をやられていると思う。漠然だが。



わーっと読み、たのしんだ。購入してよかったと思う。

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