2025年

1月|観たもの

 

戦慄怪奇ワールド コワすぎ!(2023年/78分)

機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-(2025年/81分)

ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ(2023年/133分)

ザ・クリエイター/創造者(2023年/133分)


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戦慄怪奇ワールド コワすぎ!(2023年/78分)


同時視聴でみた。コワすぎシリーズに終をもたらすための映画だったと思う。イチモツ抱えた子供たちのためにさまざまな大人が戦う、力を貸す、支えてやる、みたいな事柄が主。筋立てがあるというよりは、人物と状況を用意してTRPGを回したらこういう動きになり決着に至った、それ基にして撮ったらこういう映画ができた―――的なつくりだったと思う。個人的には「コワすぎ」シリーズよりも、「オカルトの森」に近い味だと感じる(こちらもお話の組みがだいぶTRPGのリプレイぽいため)


工藤さんという人物を令和の時代にどう扱うか、がひとつ焦点だったと思う(これだけが主でないが)。今回の工藤さんは劇中敵の正体由来もあり、悪的な欲望の部分が弱くなった工藤さんだった(悪部が増長された存在=別世界の工藤さん→シナリオ上のラスボスであったため)。このあたりは、工藤さんそのものが二分している故こうなっていると感じる(劇中でも「善的な欲と悪的な欲」と言及されていた通り。擬人化された工藤さん版良心回路と悪魔回路、みたいなものだろうか)。かつまた年が開いているので、監督さんの話組の仕方が変わっているところも多分ある(当時の勢いで書けた話と、いまだからこそ書ける勢い、というもの)。ただどちらにせいま書けるものを書いておられるのは間違いない、と思う。ちなみに今回の映画の好きなところは、ゲロがしっかり映されるところと、やたらキャラが濃いサポート役の能力者のおじさんだった。


落とし前をつけるための作品は、畳むための向き合いが発生するので好みがわかれがちな気がする。別作品の名前を出してあれだが、トムホ版のスパイダーマン3で思ったことがすこし近い。が、同一ではない。これはマルチバースというか、作品と作品を跨いで構成された作品をやるうえでどうしても発生するやつなのだが、バースとしてのお祭りないし落とし前をつけるために、それまで「トムホ版」として組まれていたお話の世界が少々どこかへいったような気がしてしまう。作外の云々が介入してきてその世界の主題に大きく絡まり、解決にも関与してくるのはどうなんだろう、みたいな心理の云々である。仮にそれらが、曲がりなりにも作品としてきっちりやられていたとして、実直にお話を組んでくださったことを嬉しいと取るか、それらはあくまでも過去、打ち切りもあるとはいえ「終わり」はしたものなのだから、いまのおもしろい話をしてくれ、となるか。むずかしいが、シリーズが続けば続くほど発生する事象と思う。


前段の云々で考えると、この映画はそもそも立ち位置が「過去に出た云々にけじめをつけるもの」なので、関連物をみていないとわからない箇所がたぶんある。けれどもそれでよいし、わからないを有しつつみるのが映画体験のひとつであるとも感じる。数年越しに終わりを製作しシリーズにぶつけるとこうなる、をしっかり体験できたと思う。と考えると立ち位置的にはシンエヴァみたいなものなのだろうか。諸々よぎったことを書いた。たのしくみれたので、よし。


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機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-(2025年/81分)


話題になっていたので、ネタバレを踏む前にみた。結果あったのは、「もしシャアがガンダムを奪取していたら」というIFからはじまる架空戦記もののガンダムだった。パンフによれば『高い城の男』を発想の起点としているらしい(ジオンが勝利した世界だからそらそうではある)。個人的にはたのしんだ映画だったが、人によっては前半部で怒る方もいるのではないか、とも思った。


以下、みた直後に書いたメモを置く(まとまりがないかもだが、所感自体はわかると思うので)

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ジークアクスをみた。寝て起きていまの実感としては、ぼくとしては別にブチキレとかそういうのはなく、この体でいくための示し以上も以下もない映像だったな、という感想以上も以下もなかった。そもそもこの分数で、この項をドラマとしておもしろくするのは難しくて、できても断片映像として諸々がフラッシュ描写される、とかになると思う。でも今回は先行劇場版で、せっかくならということで映像化されていたんだと感じる。その結果としてはちゃめちゃにブチ切れる人が発生するのもあるだろうな、という映像が発生している。のだけれど個人的には、「まあギレンの野望とかその手の合間に流れる説明パートのアニメ映像みたいなもんだよな。それもIFの」と思ったので納得があった。


個人的にやはり、一日経っても気になっているのは絵よりも音声のほうで、これはたぶん、後半の竹さん絵の座組として存在する演者さんというか、「竹さんの絵で動くときにベストな演者さん方」がいる中で、「旧アニメ準拠の作画をしたシャアやドレンさん、キシリアさんなどの面々」にお声をあてていたから、「身体から出る声としておかしくなかろうか」みたくなっていたのだと思う。外画吹き替えなどであることだが、骨格的にあっている声とそうでない声が発生するときがあり、今回のこれは事故的にこれが発生していた気がする。面子の中だとマクベさんはまたちょっと別になるが(杉田智和さんが寄せていたのもおそらくある)。録るときにどういう演出がはいったかわからないので、その辺は手元にあるパンフレットを読んでみてなんとなく把握できるところは把握できたらいいなと思う(お声として、地味にいちばん気になっているのはオペレーター面々というか、モブ的に出ていた方々のお声。音域が近すぎるというか、声の形が似すぎている気がした。シャアとかほかの面々にしても、違和感というか、結果的にだれがだれの声として発生しているか聞き分けにくくなっているのがだいぶネックだと感じる。プランが謎っちゃ謎)


これらから考えても、「あくまでも我々がつくりたいのは後半二話部以降からのもので、冒頭30分はおまけ以上も以下もないですよ」というのが見て取れるような気がする。あくまでも鶴巻監督の座組(脚本に榎戸洋司さん、キャラデザに竹さん)は後半にあって、庵野さんが深くかかわるとしても冒頭の云々だけですよ、というような(TV放映版のアニメに参加されるにしても、やって一部コンテのみで主導になることはないですよ、という)。それを事故的に示すためにも公開した、みたいなことを考えるのは深読みしすぎだが、せっかくなら、ということでやってもらってそこで区切り、にするにはちょうどいいところで、ちょうどいいからこそ怒りポイントになるなんらかだったのだと思う。事故る前提のパートを任せる、という意味では適任なのかもしれない(事故るにしても事故り方があるだろうが!全力で死ににいってくれ!半端に死ぬな!………というのも勿論あるやろなと思いつつ)


面白くするのが難しいパートをアニメ化するためにやることの一個の手なのかもしれない。冒頭で個人的にすきだったのは、明らかに竹さん絵のシャリアブルさんがやってくるところと、キシリアさんの横にいるイケおじだれやねんあんたら。ポケモンにいた気がするぞあんたら、になるところ。いけおじシャリアブルさんがあの空間に介入してきてわいわい当時の絵的なシャアさん(ただしお声は明らかに竹さん絵に合わせるためにいらっしゃりそうな演技プラン方向の方。ほかの面々も)と話しているのがまあなんとも奇妙だった。だからなんというか、冒頭は奇妙なので、逆に、初見でしっかりジークアクスを楽しみたい方にとってはだいぶ邪魔なのでは、という気すらしてきて。個人的には先行公開版をどう勧めたらいいのかわからない代物になっているっちゃなっている。後半二話だけを、そこ始動でみれる形にどこかできちんとなってほしいものだが、配信サイトにくるとしていつごろなのだろう。ジークアクス。


見直しせずいろいろざっっくり書いたが、なんにせ後半がすきだったので(前にも書いたが、省略がだいぶすごいアニメ。なのでそこも含めて冒頭との相性が悪い。脚本的には示し方法として「隠す/匂わせる/異変があったらしい、と察させる」もののはずだから)もろもろ決定したらしっかり追っかけていきたい。あと最後に書くすが、マリガン中尉が冒頭映像パート出ずっぱりだったのが変なツボにはいってる。状況考えるとたぶんそらそうなんですが。


追記

ただ、冒頭のこの感じは、「なんも知らん子がみたら一応興味が発生する謎パート」になってるっちゃなってるのかもしれない。後半との相性別として初代をみたいとか、興味が湧くやつに一応なっているのだろうか。そのへんの判断はいまのぼくにはできないので、そういう子がいたら感想を聞いてみる、くらいしかたぶんできないが。


追記2

クアクスのパンフ二冊を読み終えた。結果的に一年戦争パートをもう一回見返したくなったのだけれど、行けて来月(お金がありません)。パンフ内座談会でも言及されてたが、劇場公開版でこの構成をベストとした理由というか、前半の台詞回しの趣向をもうちょっと探りたい(榎戸さんから、時代劇的な様相、などの言及というか指摘はある) 。前段が完全に庵野さんなのをひとまず理解した。後段は完全に榎戸さん 。


前段は庵野さんだが、現場総括とか最終手直しはあくまで鶴巻さんが行う(庵野さんのコンテ含めて)などを読めたのは良かった(鶴巻さんの企画なのでそらそう)。遊べるとこは遊ぶが、邪魔しないよう立ち回ってはると感じる 。かつ読んだ結果、TV放映版の構成がなにをどうやってくるか、わからなくなった 。座談会自体の雰囲気は良くて、せっかくだからのお祭りでこうやったんだなと汲み取った(歪さのあるものを手に取ることが大事、みたいな) 。ガンダム小説版の話題がわりと出てきてたんで(榎戸さん鶴巻さんあたりからから)、やはりどこかで読もうと思った(めっちゃ大事てわけでもないだろうが) 。


インタビュー読んだ感じ、収録自体はもう全部終わってるのかもしれない。なんにせよ謎(少なくとも榎戸さんの脚本はぜんぶ上がってそう)


ある時代の動向の再解釈/再描写が行われている作品に対する違和としてあるのは、「あなたの史観に同意できない(歴史上人物の映し出し方/側面の切り出し方など)」みたいなものと思うので、楽しめる人は楽しめるが、駄目な人はもうそらそうだよな、あかんよな、となる。場合によってはこうみえるときもあるんじゃないかはありつつ、その人はそんな人じゃない(そう捉えた/別の史観との衝突)が出るので。作劇のむずかしさを感じた。距離の話だと思う。



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ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ(2023年/133分)


前々から気になっていたのでみることにした一作。偏屈な教師のおいちゃんと、賢いが神経質で、世の中への反抗心に満ちている学徒青年(母とはいろいろもめているし、思うところがたくさんある)と、息子を戦争で失った食堂のおばちゃんが、なんやかんやあって学校でクリスマスから年越しの間のおやすみを学校という同じ空間で過ごすことになるお話。個人的にはとてもすきだったし、みてよかった。いまの映画のスタイルからすると、もう中々みなくなった構成なり絵作りをしていて、それがただなぞっただけでなくしっかり組まれているのがよい。


いまの映画は本題にはいるまでの導線がとにかくスムーズに行われるが、この映画は三者の話になるまで(教師、生徒、食堂のおばさん)に3,40分はかけている。かつ学生の彼の同級生ないし、序盤で一緒に、学校内で過ごすことになった彼らの描写がわりとある。この場面に出てくる或る学生の男の子がまあとにかく、口を開けば出るのはなんらかの差別か罵倒、言葉が悪いかもしれないが典型的なおバカの学生、という描写で示される。モルモン教の子や、イケてる陽な男の子や、アジア系の子もいる。当然バカの子は、自分より下のものを馬鹿にしたいので、モルモンの子とアジアの子にワイワイ云う。それで自分が上だと考える(その際二人を半ば庇うのが主、という図になる)これら学生パートがしっかりあったあと三者の生活がはじまり、ロードムービー文法で彼らの抱えるものや内面の開示、それによる理解と成長が描かれてゆく。


昔懐かしい話組で、いまの人からすると退屈かもしれないし、下手をすると人物に対して身入りできなくなるかもしれない(とにかくバカの子が強烈なので)。しかし「人物それぞれに不器用なところがあり、けれども生きていることを示す」にはこれらシーンが必要で、これらをオミットすることは結局、映画のジャンク化を恐らく招く(それでよいときも、もちろんある)。いまだからこそこの構成、お話をするのが大事なんだ、という気概を個人的には感じた。かつまたこの映画は、フィクションとしての映画でありつつ、監督の青年時代の云々が半ば私小説的に反映されている作品でもあるらしい。と考えるとかなり納得の内容であり構成であると思う。


映画は日常を撮るのがいちばん大事で、スペクタクルはそれらを撮ってればあとからついてくる、みたいなことをぼんやり感じた。こういう映画が現在ない、というわけでは決してなく、あえてで古い様式の絵と構成、音を用いて(※1)一冬を共に過ごすある学生と先生のお話に130分つかっていいのだと。もので示しているのがよかった。語りたい場面がたくさんあるが、しみじみして、諸々うまく話せなかったのは久しぶりの感覚だった。


※1 当時の映画らしさを構築するのにとことんこだわっているらしく(もちろん、フィルム撮影でないデジタル撮影物を加工している故のブレのなさとか、そういうものももちろんあるのだが)、限りなく当時制作されていたらこうなるだろう、を節々でやっていた。特によかったのが、みるまえから気になっていた「劇伴諸々がモノラル」という云々。実際映画をみると、このあたりがものすごくよい効果を発揮していた。ものが綺麗に、クリアになればよいものになる、新しい方式を用いれば良化する、みたいなことはほとんどない。考えなしになってはいけない。安易になってはいけない。技術が発展、発達しても、人間性能はそのままなので、どこかで必ず限界がくる。けれどもできる限りを務める。開いてゆく。そうするしかない。もちろんこの世には、開かれていない凝りゆえの作品、観賞するには少々難解な作品もあるし、あっていい。正解はないが向き合いはある。いつまでも悩む事象だろう。


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ザ・クリエイター/創造者(2023年/133分)


変、としか云いようがない。いろいろな感想があるし、個人的にはすきなのだけれど、どこをどう好きと話したところで「なにを話してるんだろうわたしは」と正直なる。そういう映画―――というか、「俺の好きなものはこれだ」をひたすらやっている映像集、みたいな味。主軸自体はシンプルで、「ベトナム戦争を下敷きとした、東南アジアを舞台に繰り広げられる仏教ものSF」という様相がある。ただ宗教的な側面については正直、劇中の雰囲気を盛り上げるためのガジェットにすぎない。あくまでもキリスト教ないし創世記めいたなにかが、話組としてある、というか、なんにしても混ざり合っている。混ざりすぎている。変である。


そのあたりについて自分なりに咀嚼してぼんやり申し上げるなら、「重い題材を扱っているようで、結局やりたいのはエンタメ」「要素がすべて撮りたいものの犠牲物になっている」「ごっこ遊びがしたいだけでは」「東洋の書き方はどうなのか」とは一応書ける。書けるが、これらについて言えることは「そらそうだろ」にしかならない。というのがなんとも悩ましくあり、楽しくもあり。困る。仏教的なものを書きたいかというとそうでなく、ベトナム戦争について実直になにか示したいか、というとそうでもない(核爆発とAI攻撃のお題目につての云々など、体制打破的ではあるが、エンタメを書くゆえのものが主)。ここにあるのは、8、90年代映画ないしはコミック、アニメのことが大好きだった少年がそのまま大人になり、なんらかの映画を撮った状態、つまりはギャレス監督が好き放題にやっちまった景色だけがある。「○○のあれ」だとか「○○のこれ」があるならもう、良しなのだ。たのしいひとはたのしいし、怒る人は怒る。そういう組み(日本でいうなら庵野監督作品の凝りとかテンションがたぶん、近いと思う)


地下へはいるための仏像ガジェット、合間合間にはいる日本語表記の謎フォント、用法はそれなりに正しい。と思ったら急にプラカードに「もういや遊牧民」と書いてあり、犬が投げ込まれた爆弾を咥えて敵のほうへ持っていく。のはまだちょっと納得できるが、そのへんの猿が急に、戦車に張り付いた爆弾の起爆スイッチを押す。おかしい。深夜テンションで脚本を書いたとしか思えない。脱出ポッドのくだりはあまりにも脱出ポッドのくだりに実直すぎて変な笑いが出てくる。かつ急に防衛システムが触手で攻撃をしてくる。「エイリアン的なあれをしたかったんやなあ」すぎる。困る。怪獣映画めいた演出もはいる(これはよかった)。渡辺謙ロボが大活躍して最後は己の身を挺して死ぬ。かと思いきや生きていた。びっくりした。死んでてくれよそこはと思った。………などなど、シーンをあげるときりがない。


なぜこうなったかを妄想して思ったのは、ギャレス監督は低予算映画でまず話題になり、そのあとうわーっとゴジラを撮り、うわーうわーと疲弊しながらローグワンを撮りきって、そこで一旦静止する。7年間が空く。その新作がこれである(もちろん正確に書けば、おそらくコロナ期の頃から云々を取り始めておられるのだろうが)。だから詰め込まれたというか、リハビリの側面があると思う。「おれはこういうものがすきだし、撮りたかった」というような。勝手すぎる想像だが。いろいろ書いたが個人的にはすきだし、肯定したい一作。


※1 これが8、90年代ごろに製作されていたら、たぶん90分~100分尺の映画として撮られ、当時の特撮感満載の、低予算だがすきなひとはしっかりいるタイプの作品になっていそうな気がする(というかたぶん、ベストがそう)

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