第二の鑑定 戻ってくる手毬 1-1
明治三十九年五月。帝都東京。
神田小川町の中津川工房で、雪緒は冷たいお茶を飲みながら新聞をめくっていた。
季節は初夏。窓を開け放った昼下がりの長屋には、心地良い風が吹き込んでくる。もうすぐ長雨の時期を迎えるが、ここ数日はからりと晴れて気分も爽快だった。新聞をめくる手も軽やかである。
財政的に決して豊かとはいえない中津川工房だが、新聞は毎日購読している。しかも、有名どころを二紙。
いい絵を描くには、ものの仕組みや歴史など、いろいろなことを知っておいた方がいい。特に、新しい知識をつけるためには新聞を読むのが一番だ。
これが、雪緒の師匠である中津川の持論だった。弟子としても異論はないので、新聞のために多少懐を痛めるのもやぶさかではない。
折角お金を払って購読しているのだから、しっかり読もう。
もったいない精神と向学心の両方を抱きながら、雪緒は毎日新聞に目を通す。今日もふむふむと目を走らせていると、長屋の戸が控えめに叩かれた。
「はーい。どなたですか?」
新聞から顔を上げて声で応じると、からからと戸を開けて、誰かが入ってきた。
「俺だよ、こんにちは!」
「甲斐さん! こんにちは。いらっしゃい!」
その長身が土間に姿を見せただけで、空気が一気に爽やかになる。
甲斐はいつものようにきっちりと洋服を着込み、片手に風呂敷包みを携えていた。よく日焼けした肌に白い歯がきらりと光り、笑顔が眩しい。相変わらずの二枚目だ。
「新聞を読んでいたんだね。難しい漢字がたくさんあるのに、偉い偉い。勉強熱心な子は好きだよ。雪緒くんが女の子なら、求婚したいくらいだ」
雪緒の散切り頭に、甲斐の大きな手がぽんぽんと優しく置かれた。
求婚という言葉は十六歳の少女である雪緒の感情を少し高ぶらせる。が、甲斐の振る舞いはあくまで十三歳の少年に対するものだ。
雪緒が胸の高鳴りを抑えて微笑んでいると、甲斐は言った。
「俺、今朝はまだ新聞読んでないんだ。何か面白い記事あった?」
「えーと、今日はやっぱり、例の『三人組の窃盗団』の話題が多いですね」
雪緒は手元にあった新聞を甲斐の方に広げて見せた。
「ああ、あの、大きな屋敷ばかりを狙う窃盗団か」
半月ほど前まで、帝都では手荒な窃盗事件が相次いでいた。三人の賊たちが屋敷に侵入し、そこに住む者を縛り上げ、金目のものを根こそぎ盗っていくのだ。犯人たちはまだ捕まっていない。
集団窃盗という派手な事件ながら死人や怪我人はなく、被害にあった者は賊徒たちの様子を警察や新聞社の探訪たちに朗々と語った。
話が広まれば当然、警察を含めてみんなの監視の目が強くなる。そのせいもあってか、窃盗団自体はここ半月なりを潜めていた。代わりに、被害者たちの刺激的な体験談が連日紙面を賑わせている。
「ありがとう。あとで俺も読んでみるよ。えぇと、今日は一臣はいるかな?」
甲斐は微笑みながら首を傾げた。きちんと短く切り揃えられた髪がさらりと揺れて、爽やかさをますます引き立たせる。
「先生はお昼ご飯を食べてからすぐ寝て……いえ、絵の構想を練っています。今呼んできますね!」
雪緒は踵を返そうとした。その時、背後でぎしっと床板が軋んだ。
「……何だい、朝から騒がしいなぁ」
「せ、先生!
中津川が、長屋の奥にある自分の部屋から出てきて、ぼーっと突っ立っていた。
手入れされていない癖っ毛はぼさぼさ。着物も袴もだらしなく引っかけるように着ていて、舶来物の銀縁眼鏡が半分ずり落ちている。全くをもって、いつもの中津川一臣だ。
「眠そうだな、一臣」
甲斐は端正な顔で苦笑した。
「眠そうじゃなくて、眠いんだよ。寝てたけど何だか家の中が騒がしいから目が覚めた。誰かと思ったら誉か。ふぁー……」
弟子がせっかく師匠の面子を守って『絵の構想を練っている』と言ったのに、これではぶち壊しである。金輪際庇ってやるもんかと心に決め、雪緒は土間に立ったままの甲斐を振り返った。
「甲斐さん。上がって座ってください」
「うん。じゃあちょっとお邪魔するよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます