第一の鑑定  血の涙を流す少女の肖像 5-3

 あれ、違う。あの時と違う。あの時先生は、こんなこと言わなかった……!

『雪緒くんはなぜ僕に弟子入りしたのかな。……六十過ぎの老人に人生を捧げるより、うだつの上がらない画家の下働きをしてた方がましだと思ったからだろう?』

 そんなことない。そんなことない!

 ――先生の絵が好きだ。先生の傍にいたいから、今の場所を選んだ。自分の意思で!

「……せんせ……い」

 そこで目が開いた。

 今まで見ていた光景はすべて消し飛び、木の板を張り合わせた天井が目に入る。二、三度瞬きをして、雪緒はようやく、自分が夢の世界から戻ってきたのだと認識した。

 夢で良かった……。そう思いながら、汗だくの身体をゆっくりと起こす。

 異変に気が付いたのはその時だ。

「……あっ」

 雪緒は息を呑んだ。

 寝台のすぐ横に、あの少女の絵があった。絵の中の少女は泣いていた。……真っ赤な血の涙を流して。

 すぐに中津川に知らせなければ。そう思った。だが、寝台を降りたところで雪緒の足は止まってしまった。

 胸が苦しい。頭がギリギリと締め付けられるほど痛い。立っていられない。

「なに……これ、苦し……」

 雪緒は胸を押さえてしゃがみ込んだ。手の平に、ほんの僅かな脂肪の感触が伝わる。

 暖炉に火を入れていたせいで暑く、襦袢のまま寝ていた。少年に変装するためのさらしも、今は巻いていない。

 なのに、胸は締め付けられるようにどんどん苦しくなる。もう、呼吸さえ難しい。

「先生……助け……て」

 もがきながら、床を這うようにして部屋のドアを目指す。だが、少しも動けないまま、雪緒はとうとうその場に倒れ込んだ。

「――雪緒くん!」

 意識が途切れる寸前、雪緒の身体は誰かに抱き起こされ、揺さぶられた。

「雪緒くん、大丈夫か?! 僕が分かるか! 雪緒くん!」

 薄い襦袢を通して伝わる骨ばった手の感触と、名前を呼ぶ声が、薄れかけた意識を現実に呼び戻す。

「先生……」

 ぼさぼさの癖っ毛の隙間から、銀縁眼鏡と茶色の瞳が雪緒を見つめていた。

 ……ああ、これは夢じゃない。本物の先生だ。

 そう思った途端、雪緒は中津川の胸に取り縋るようにして叫んでいた。

「先生、先生、大変です! 絵が、絵が……!」

 一刻も早く絵の異変を伝えようと思った。だが、まだ頭がぼんやりして、同じ言葉しか出てこない。

「雪緒くん。ちょっと落ち着こうか」

「早く、早く調べて……。先生、早く!」

「大丈夫だから、雪緒くん。落ち着いて」

 雪緒を支える手に、少し力が籠った。半分抱きしめられるような形になり、中津川の体温がほんのりと伝わってくる。

「……とりあえずこの部屋を出よう」

 中津川は雪緒の身体にふわりと何かを掛けた。寝台の足元に畳んであった雪緒の着物だ。それで雪緒をくるむと、今度は両手を身体の下に差し入れて難なく持ち上げる。

「先生……」

 中津川の腕に身を任せながら、雪緒は呟いた。

「何だい?」

「好きです」

「――はぁ?」

 一瞬、中津川の身体が、雪緒ごとびくりと震えた。

「先生の絵が……好きです」

「……ああ、絵か」

「本当に、大好きなんです」

「……雪緒くん、少し黙っていなさい。あんまり動揺させると、落とすよ?」

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