第一の鑑定 血の涙を流す少女の肖像 5-2
ある裕福な侯爵がなぜか雪緒を見初め、嫁に欲しいと言ってきたのである。
華族の結婚は、たいてい家柄が良い方から順に片付いていく。零落寸前である井上家の娘に良い話などあるわけがないとみんなが思っていた。……雪緒本人でさえ。
そんな折、身分が段違いに上の、侯爵家からの縁談が舞い込んだ。しかも、成婚の暁には侯爵家が井上家に援助や出資をするという。
井上家にとって、これはまたとない好機だった。それまで『一人で身を立てろ』とさんざん言っていた玄一郎は、手の平をくるりと、それはそれは見事に返し、雪緒に言った。
『今すぐ嫁に行け。お前が黙って嫁いでくれれば、井上家は安泰なのだ』
その日を境に、雪緒は水場から遠ざけられ、裁縫道具はすべて捨てられ、女学校も退学させられた。
当然、絵を描くことも禁じられた。それまで励んできたことが何もかもすべて、一瞬でなくなった。
相手の侯爵は雪緒より四十歳も年上の、六十近い老人だという。会ったことも見たこともないその人物が、雪緒のすべてを奪っていく気がした。侯爵という地位を利用して。
今まで家事をこなしながら必死に絵の先生を目指してきた。それで身を立てる覚悟もしていた。それなのに、玄一郎は勝手に雪緒の進む道を閉ざそうとする。
勝手に雪緒の幸せを決めて、見ず知らずの人のもとへ嫁げなどと言う。……零落しそうな家と、名ばかりの爵位を守るために。
今まで一人で生きていけるように頑張ってきたのは雪緒だ。縁談が舞い込んでも、実際に嫁ぐのは雪緒なのだ。なのに……。
『結婚なんて絶対にしない。私の人生を、誰か他の人に決めさせたりしない!』
夢の中で、半年前の雪緒が叫んでいる。
半年前の雪緒は、髪の長い少女だった。その髪を振り乱して、家を飛び出した。
走って、走って……。夢の中に続く道はどこまでも真っ暗だ。だがやがて、道の先に何かが見えた。
――あ、海だ。
最初は本当に、海まで走ったのかと思った。波しぶきの音や、潮の香りさえ感じたような気がした。
だがそれは本物の海ではなく、一枚の
『わあ、すごい』
夢の中の雪緒が立ち止まって呟くと、男はひょいとこちらを向いた。
ぼさぼさ頭のその男に向かって、雪緒は懇願していた。
『あの、良かったら、私に絵を教えてください!』
これは先生と初めて会った時の光景だ。
夢を見ながら、雪緒はそう思った。
家を出て、彷徨っている時に中津川の絵を見た。あの時中津川が描いていた絵は、今もまだ描きかけのまま、彼の作業部屋に立てかけてある。
それから雪緒は中津川の前で髪を切り落とし、強引に弟子入りをして……。
『きみ、本当に絵を描く気があるのかな』
しかし、夢の中の中津川はそう言って不敵な笑みを浮かべた。
『結婚したくないから、逃げているだけだろう』
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