第一の鑑定 血の涙を流す少女の肖像 5-1
『……雪緒。聞いているのか、雪緒』
誰だろう。ぼくを呼ぶのは。
『いい加減に観念して、嫁に行くんだ。お前が嫁に行ってくれさえすれば、この井上家は救われる』
えっ? 厭だ! そんなの絶対厭だ!
何でぼくが犠牲にならなくちゃいけないんだ!
『言うことを聞きなさい。この縁談で家が助かるだけではない。お前自身、一生安泰の身分になれるのだ。
目の前の顔を見て、懐かしさと怒りが混ざった複雑な感情が込み上げた。
同時に、雪緒は理解した。――ああ、これは夢だ。
風呂を使ってからよし香の部屋に戻ってきて、襦袢一枚になり、暖炉の火を消したところまでは覚えている。恐らくそのあと、絵の監視をしながら寝てしまったのだろう。
今見ているのは夢だ。それは間違いない。なぜなら、目の前にいるのはもう二度と会わないと決めた人物だからだ。
雪緒の前に立つその人物は、文明開化の風を全く無視して、紋付をしっかりと着込んでいる。頭髪こそ短くしているが、豊かに蓄えた髭と恰幅の良い身体つきが、江戸時代の武士さながらの威厳を感じさせた。
雪緒は半年前、この父から……そして井上家という重圧から逃げるように家を飛び出した。もう二度と家の敷居を跨がないと決め、以来、家族の誰とも会っていない。
井上家は一応、特権階級と言われる華族の範囲に入っている。だが実際は裕福な暮らしから程遠い位置におり、このままでいけば儚く散り行く立場にあった。
一言で華族と言っても、ピンからキリまである。
御一新のあれこれで、それまで黙っていても領地から年貢が入ってきた時代は終わりを告げ、大名や貴族だった者たちも、自らの手でお金を稼いで生活をしなければならなくなった。
みんなそれぞれの力で生計を立てたが、当然上手くいく者といかない者が出てくる。井上家はもとが弱小大名だった上に、残念ながら『上手く行かない方』に属してしまったため、困窮を極めることとなった。
だが、たとえ稼ぎが少なくても、華族として爵位を保つ以上、使用人の数や家屋敷の普請具合、子女の教育など、あらゆる面で体裁を整えていなければならない。そうでなければ爵位は剥奪され、特権を受けられなくなるのだ。
ゆえに、家計は余計圧迫された。
落ちぶれた華族を差して『零落華族』と言うが、井上家はまさに、零落一歩手前だったのだ。
雪緒はそんな井上家の二人目の子供として生まれた。上には兄がいる。
当主の玄一郎は、雪緒がまだ幼少の頃から『一人で身を立てられるようになれ』とさんざん言った。零落寸前の家では跡取りである兄を一人前にするのが精一杯で、末娘の面倒まで見ていられなくなると踏んだらしい。
将来兄に面倒を掛けないように。一人で生きていけるように……。
雪緒はへっついで飯を炊くことや、板を使って洗濯することを覚えた。華族なら、普通は使用人がやってくれることだ。だが、自ら水場に降り、毎日身体を動かした。いつか井上家から外に出て、一人で暮らしていけるように。
幸いだったのは、玄一郎が学業を重んじたことだ。
家事炊事を身につけろと言う一方で、一人で生きていくには学問も必要だと女学校に通わせてくれた。
雪緒はそこで、絵を描くことの楽しさを知った。
女学校を出たあとは学費の安い師範学校へ進み、絵の先生になる。
これが人生の目標となり、雪緒は毎日、華やかなお嬢さま方を横目で見ながら勉強に励んだ。家事や炊事もこなした。
そんな日々に亀裂が入ったのが、半年前だ。
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