第一の鑑定 血の涙を流す少女の肖像 4-4
ずっと一緒に暮らしたい。
その言葉には、切実で揺るぎない想いが込められていた。きっと、よし香の正真正銘の気持ちなのだろう。
雪緒は少し顔を曇らせた。先ほど中津川と「英一がよし香を追い出そうとしている」という話をしていたせいか、よし香の言葉が重たくのしかかってくる。
話をしているうちに、最後の瓶が開いた。大量の液体を撒いたので、鉢の土は大雨が降ったあとのようにびしょびしょに濡れている。
「終わったわ。あの日も寝る前にやっぱりこうやって栄養剤を撒いたの。お父さまはたっぷり使うようにと言ったから、その通りにしたわ。これで、この部屋はあの日とほぼ同じになったはずよ」
「空になった瓶はどうしますか?」
雪緒が床にまとめて置かれている空き瓶を指差すと、よし香はそれらを手早く屑籠に放り込んだ。
「この籠ごと玄関の隅に置いておくわ。明日の朝、お梅さんが片付けてくれるから」
「そうですか。じゃあ、あとは時間が経つのを待つだけですね」
すると、よし香は少し心配そうな顔つきになった。
「やっぱり部屋の中が少し暑いわね。暖炉の火を消したのは寝る前……確か夜の十一時過ぎだったのだけど、そんなに長く火を焚いていたら暑くて寝られなくなってしまうんじゃないかしら」
その気遣いだけで、雪緒はとても嬉しくなった。からかうだけの中津川とは大違いだ。
「大丈夫です。先生はあの日となるべく同じにしろと言っていたので、ぼくも十一時になるまでは火を消さないでおきます」
「そう……? 無理しないでね」
「はい」
襦袢一枚になって、布団を掛けずにいれば大丈夫だろう。
それに、今夜は少なくとも夜中の二時までは寝ないでおいて、絵を監視するつもりだ。
「じゃあわたしはこれで。雪緒くん、頑張ってね。ああそれから、ぜひうちのお風呂にも入っていって」
「あっ、はい! ありがとうございます!」
よし香は空の硝子瓶が入った屑籠を片手で持つと、あいた方の手を振ってゆっくりと身を翻した。
去っていく華奢な背中を見ながら、雪緒は思わず破顔していた。
山本家には内湯がある。
実は、ここに泊まることになって、一番楽しみにしていたのが入浴だった。なぜなら、普段の雪緒の『風呂事情』は、とても厳しいからだ。
明治に入り、あちこちにこの山本家のような洋館が建てられたが、帝都の大半を占めているのはまだ昔ながらの棟割長屋だ。そういった長屋には個別の風呂など無く、住民は江戸時代と同じように銭湯に通っている。そのため、帝都には無数の銭湯があった。
雪緒たちが暮らす中津川工房の近くにももちろん銭湯はあるが、ここで問題なのが、雪緒が十三歳の少年を演じているということだ。
銭湯は男女別なので、男の着物を着たまま女湯に入ることはできない。そんなことをすれば、番頭台にいる怖いお爺さんに首根っこを捕まれて追い出されてしまうだろう。
かと言って、初めから女物の着物を着て工房を出るわけにもいかない。もともと近所の者にあれこれ変な噂を立てられないための変装なので、少女の姿で出入りしているところを誰かに見られてしまったら元も子もないのだ。
つまり、どう頑張っても中津川工房からは銭湯に通うことができない。
そんなわけで、雪緒はいつも長屋の土間で入浴を済ませている。入浴と言っても、大きな桶に沸かした湯を張って、それで身体や髪を洗うだけだ。
これがなかなか辛い。まず狭い桶の中では身体を洗うのも一苦労だ。冬場は特に大変で、いくら戸を閉め切っても長屋特有の隙間風が吹き付ける。湯がすぐに冷めてしまうのも難点だ。
その点、内湯なら広くて快適だろうし、個人の邸宅は脱衣所が一人で使えるので、男装がばれてしまう心配もない。
手足を伸ばして風呂に浸かれるのは久しぶりだった。考えただけでわくわくしてくる。
よし、お風呂を借りて、さっぱりして、今日は寝ないで絵を見張ろう!
雪緒は握り締めた拳を一度高く突き上げ、自分に活を入れた。
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