七、八発殴った頃には人混みが周囲にできざわめきが広がり始めていた。淑枝（としえ）が九発目の拳を凪沙（なぎさ）に打ち込もうとした時、その腕の動きが止まる。淑枝の腕を誰かが掴んでいるのだ。淑枝よりはるかに背が高く筋肉質のその青年は黒いシャツを着たやせ細った青年を従え不敵に笑った。

「どんなご事情かは分かりませんが衆人環視の下で暴力はいけません。立派な暴行罪と傷害罪だ」

　淑枝が血走った眼でその男、桐吾（とうご）を睨み、冷たい言葉で突き放し、桐吾に負けない力で腕を乱暴に振りほどく。

「おんしらにゃ関係ないき」

　桐吾はその刺すような目つきにも臆することなく、底の知れない笑みを浮かべ続ける。

「いえ、実はちょっとした知り合いなんです。袖触れあったも何かの縁。初めは事の成り行きを見守ろうと思っていただけなのですが、この状況はさすがに正視に堪えませんでね」

　その時愛玲奈（あれな）が凪沙（なぎさ）の胸に飛び込んでくる。

「凪沙っ、凪沙凪沙凪沙っ！」

　凪沙も愛玲奈（あれな）を硬く抱き締める。周囲が更にどよめく。

「ここでは人目があります。人のこないところへご案内しましょう」

　桐吾たちは三人を寒風吹きすさぶ送迎デッキへと連れて行った。曇天模様を突いて旅客機が轟音を立て離着陸を繰り返している。

　この寒さでは送迎デッキにほとんど人などいない。この空港の屋上の隅で愛玲奈（あれな）を抱き締める凪沙は母と対した。

「見ての通りわたし達は愛し合っている。だから鷺宮（さぎみや）との縁談には乗れない」

　愛玲奈（あれな）はまだ泣いてうわ言のように誰へともなく謝るばかりだった。

「ごめんなさい。ごめんなさい私…… やっぱり私、ごめんなさい……」

　桐吾たちは三人からはるか遠く離れた場所で飛行機の離発着を眺めているばかりだった。

「ほいたら、おんしらぁはこれからどうする気なが？」

　憮然とした表情の淑枝が少し皮肉っぽい声で問うと、青あざだらけの凪沙が答える。口の端から血がにじみ出ている。

「ここで二人で暮らす。死ぬまで」

「死ぬまで…… またそねえこと言うちゅうが…… ほんまに……」

　死という言葉に反応した淑枝は自然と愛玲奈を見る。藤峯（ふじみね）家にようやく授かったひとり娘の愛玲奈（あれな）は病弱で幾度となく死線を彷徨っていたことは村中の誰でも知っていることだった。

　淑枝は凪沙をひと睨みする。

「なんぜこんなことになっちゅうがや」

「初めて会ったのが中一で、最初わたしは愛玲奈のことが嫌いだった。散々悪態もついた。だけど何度も面倒を見ているうちに……」

「情でも移ったがかよ」

「うん…… そう……」

　震えすすり泣く愛玲奈（あれな）を抱き締め直して凪沙はぼそぼそと答える。

「元から女が好きやったがぜ？」

「女も男も好きになったことはない。愛玲奈（あれな）だけが好きだった。中一の頃からずっと……」

　愛玲奈（あれな）を抱き寄せる凪沙の長くてつやのある髪が風に流される。

「ほいたら、もう七、八年にもなるがぜ……」

　淑枝は深い溜息を吐いた。顔に疲労の色が浮かぶ。今の今まで娘の深層を知り得なかった自分が情けなく思える。

「あんな学校、高い金払うて行かせんかったらよかったちや」

　淑枝の白いため息が風に流され消えゆく。二人の通った中高一貫校は地元の名門で、金持ちの藤峯家ならいざ知らず、凪沙のような貧しい家庭では学費の捻出に相当の苦労があった。

　無表情の淑枝は凪沙に言葉を投げつけた。

「ほんなら？ おんしら、愛し合いゆうがか」

　凪沙は力強く即答した。

「愛してる」

　続いて愛玲奈（あれな）も鼻をすすりながら答えた。

「愛してます。心から」

　うんざりとした表情の淑枝は二人にくるりと背を向ける。長い沈黙の後、誰に聞かせるでも無く呟いた。

「ほじゃけんどな、われの言いゆうこともまっこと分からんでもないがよ。われの言うとおり、藤峯の旦那さんの人となりは、必ずしもえいとは言えん。しかも、大事な時に山へ盛り土をしたり、田んぼに要らん客土を入れて、わやにしたがやき。あの頃から藤峯は傾き始めちょったがよ。その責任は、確かにいとさんじゃのうて、旦那さんが取るべきやっちゅうがは、言いようによっちゃ、まあ確かに理屈は通る」

　淑枝は俯く。

◆次回　最終話　死