第四十二話 いきなりの決着 -1
一日一緒にいて真理恵の嬉しそうな顔を見ていた。
喋らない間も真理恵のベッドに載せた自分の腕に頭をころんとして真理恵を眺める。
「やだ、どうしたの?」
ちょっと照れている真理恵が可愛らしい。
「可愛いから見てんの」
「ひょえっ!」
「なんだよ、それ」
「だって恥ずかしいこと言うから」
「世界一可愛いって言ってんだけど」
「ひょ、ひょ、」
「やめろよ、その『ひょ』っての。どっから出てきたんだよ」
「どっからって……口から……」
「この口か!」
手を伸ばして抓ろうとしてやめた。
「華くん?」
「やめとく。今はマリエを大事にしないと」
「今だけ?」
「……ずっと、だけど」
「なんで拗ねてんの?」
起き上がって困った顔をする。
「あのさ、母親って子どもが出来たら夫より子どもを取るって言うだろ?」
「そう? かな……」
「なんで? 俺はマリエの中で二の次になるってこと?」
真理恵がくすくす笑う。
「なんだよ」
「華くん、変! まさなりさんとゆめさんはそうやってきたのに」
背筋が伸びた。思っても見なかった、本質的に自分が両親に似ていることなど。
「ね? 分かった? つまりね、まさなりさんもゆめさんも寂しがり屋ってことなんだよ。私が『子ども』『子ども』ってなったら寂しいって思ったんでしょ? それってそっくりだと思うけど」
自分がいるのに父と母は互いを求め合った。華よりも自分の思い人を。
「分かったって言いたくない」
「不貞腐れちゃった?」
「……そうだと思う」
「考えてね、後でいいから。私たちは違う形でもいいと思わない?」
「違う形?」
「私は、華くんも大事。赤ちゃんも大事。どっちがって言うんじゃなくて」
「それ、出来そうかな!」
「がんばらないでそうなりたい」
「頑張ってくんないの?」
「華くんを今のまま好きでいるように頑張る私がいいの?」
しばらく考える。
「頑張らなくていい。俺も頑張らない。人を好きでいることに頑張りは要らないよな」
「良かった! それって思う気持ちに嘘が入るってことだしね」
「俺さ、マリエと結婚して本当に良かったって、改めて思うよ。マリエの前じゃ頑張らなくていいんだよな」
「うん!」
少し顔が曇る。真理恵は敏感にそれを感じ取った。
「ジェイはさ、頑張らなくていい相手っていないんだよな」
「本当にそうなのかな……」
「だって」
「時々感じるんだよね、ジェイくんは誰か好きな人がいるんじゃないかって。そんな顔する時があると思わない?」
ジェイの様子をあれこれ考えてみる。
「いや、そんなこと感じないよ。第一その相手がいない。今なんかそういう人がいたらお互いにそばにいるはずだろ? 相手に甘えて寄りかかりたいはずなんだ。でもあいつは家と会社を往復するだけだし、いざって時にすがるのは課長だし。とても女の子とつき合ってるとは思えない」
「そうかなぁ。でも感じるんだけどな、ジェイくんが満たされたような顔をする時があるって」
幾ら考えても分からない。前につき合った子に振られたと言っていた。それから色恋の話はさっぱりだ。だいたいあのつき合ったという中身も、あの様子じゃセックスもしてないだろうと思う。
(下手するとテトリスを一緒にやっただけだったりして)
そこまで考えてあることに引っかかった。
(あいつ……まさか童貞じゃないよな……)
けれどジェイとセックスは無縁の様に思える。女性と抱き合うイメージが湧かない。
(考えてもしょうがないか。今は裁判でいっぱいいっぱいだよな)
しばらく経って珍しく柏木が真面目な顔でやってきた。
「華、つき合ってくれ」
「え、やだよ。俺奥さんいるんだから。柏木さんとつき合うなんて勘弁!」
「ばっ、ばかっ! 誰もそんなこと言ってないっ!」
「ムキになっちゃって。なに?」
「いいから。4階に行こう」
この忙しい中をなんだよと思いつつ華は柏木の後から階段を下りた。
「で、なに? あ、俺お茶がいい」
「なんで俺が買うこと決定なんだよ!」
「あっそ。じゃ。仕事あるから」
さっさと立った華を見て柏木は自販に走った。
「ほら! やる!」
「ありがとう、先輩!」
飲みながら柏木を見る。自分のスポーツドリンクを蓋も開けずに手の中でころころと転がしていた。
「ねぇ、何かあったの?」
「え? あ、そうだった。ジェイのことさ、どうなってんだよ」
「どうなってるって……裁判」
「分かってるよ、そんなこと! じゃなくってさ。……俺、あいつがここに転勤で来た時のこといまだに後悔してるんだよ。相田がここまで性質が悪いって思ってなかったし」
「じゃ、しょうがないんじゃないの? 誰も柏木さんが悪いなんて言ってないし思ってもいないよ。ジェイだって」
「けどな、あの時課長に言うべきだったんだ。俺だけだったんだから、知ってたのは」
思ったより柏木の思いが強いことに華は黙った。
「知りたいんだよ。今ジェイがどんな状態で正気を保ってるのか。一時期……酷かったろ、錯乱したりして。見てらんなくてさ……でも何もできなかった。いや、分かってるよ。なら今知ったとして何ができるかって聞かれたら結局何も出来やしない。証人の対象にさえならない。それがいやだとか言う話じゃなくて、俺がきっかけの一つでもあるのに何も責められなくてさ……」
「つまりさ、はっきり言うけど楽になりたいからジェイのこと、あれこれ聞きたいってこと?」
柏木の目に怒りが宿る。けれどそれはすぐに消えた。
「そうなる……か…… そう取られてもしょうがないよな。悪い。嫌な気持ちにさせたな」
立ち上がった柏木の通り過ぎようとする腕を掴んだ。
「せっかち。いいから座れば? 別に柏木さんを除け者にしようってんじゃないよ。気持ち……一緒なんだと思う。俺も後悔のしっ放し。ジェイを一人にしたって。見舞いに行った時に『誰も来てくれなかった!』って叫んだジェイの声が耳から離れないよ」
柏木は座り直した。
「今裁判はジェイに不利な状況に進んでるよ」
「なんで? だってこっちは被害者じゃないか」
「ジェイがマゾだって言い出してるんだ、相田の弁護士」
「マゾって、ジェイが?」
「だから今回のはジェイに誘われた相田が仕方なく誘いに乗って、それでちょっとプレイが行き過ぎただけだって」
「そんなバカな!」
「だから虚偽の告発ってことでジェイが訴えられてる」
柏木は言葉を失った。
横浜でも相田が異常だと言う噂は聞いていた。だがあくまでも噂でしか無かった。塚田が退職した後でも似たような噂が流れた。
『相田さんに喰われて辞めたんだよな』
『有名だよ、何度も抱かれたって。だから辞めたんだろ?』
その時にほとんど何も感じなかった。確かに時々昼を一緒に食べたり喋ったり。そんなことはあったが、そういう噂を否定してやるほどの友情を持っていたわけじゃない。
「俺さ……冷たいんだなって思うよ。あんまり人の痛みとか心情がどうとか、そういうのに関わらないできたんだ。特別どうってことじゃなくて…… 目の前で困ってる人がいればもちろん助けるけど、道路の向こう側で引っ繰り返った年寄りがいたからってわざわざ横断歩道を渡ってまでそばに行かないっていう感覚」
「言ってること分かるよ。誰だってそういうもんじゃないの?」
「俺には想像つかないよ。その時に道路を渡らないジェイがさ」
その言葉にズキっときた。
「あいつは行くよ。下手すると荷物持ってやってさ、病院に送ってさ、そして家族に連絡もしてやる。ジェイはそういうヤツだよ。だから……俺は後悔するんだ。こんなの初めてだよ。ずっとその意識が消えない。何も出来やしないけど……」
「さっきはごめん。俺が悪かったと思う。酷いことを言った」
「いいんだ。少し……気持ちが落ち着いたかもしれない。甘ったれてるだろうけど誰かに責められたかったんだと思う。これでいいなんて思ってない。俺に何かやれたらいいんだけどな。何でもいい、もしやれることがあれば言ってくれ。喜んでやるよ!」
みんなちゃんとジェイを見ている。
(お前は言うんだろうな、普通にしてるだけだよって。でもさ、お前の普通は『普通』じゃないってことだよ)
柏木と喋ったことが数日後に大きな波紋を広げるとは思ってもいなかった。
「公判延期って? 何かあったってこと?」
「分かんない。西崎さんから急に連絡があったんだ。面談するはずだったのに。次の公判はいつになるか分からないって」
「なんて言われた?」
「また連絡するって。今はまだ言えないんだってそう言われた。それに柏木さんの様子が変なんだ。俺を避けてる」
ジェイがそれとなく柏木に確認してみようとしたが、話を逸らされたり『今度話す』と言ってそばを離れるらしい。
次第にジェイの神経がピリピリと尖り始めた。裁判の進展が無い。西崎から連絡がこない。柏木の反応の理由が分からない。ジェイからゆとりがなくなっていくのが伝わってくる。周りもそんなジェイにどう接していいか分からずにいる。とうとう華はジェイを外の喫茶店に引っ張り出した。
「焦れるなよ」
コーヒーを飲みながらその一言だけ言った。それ以上言うつもりも無かった。目を見ようとしないジェイの顔つきが、華の沈黙に少しずつ和らいでくる。
「俺……」
絞り出すような声。
「無理に気持ちを吐き出せって言いたいわけじゃないんだ。今のお前には出来ないの、分かる。もし喋りたかったら聞く」
「華さん……」
「けどな」
華ははっきり言うべきだと思った。
「会社で当たるな。腫れ物に触るようにお前に接するのは御免だ」
ピシャリと言った言葉にジェイがビクリとした。
「そんな……つもりじゃなかったんだ」
「知ってる」
「ただ連絡を待てって、そんなの……」
「待つしかない時だってあるよ。柏木さんに何度も問い詰めたんだって? でも話せないって言われたんだよな。お前、柏木さんがお前に意地悪してるとでも思っているのか?」
自分には自分の役割があると思う。弟の様に大事にしたいし可愛がっていきたい。甘やかしてやりたい。けれどこれは別だ。ジェイに曲がった感情を持たせたくない。
「俺はちょっとくらいお前が我がままになったり不貞腐れたりするのは構わないって思ってる。けど、今のお前はいつものお前じゃない。今の態度はほとんど八つ当たりだ。だから敢えて言う」
自分しか言わないだろうと思う。そして自分は言うことが出来る。どんなにきつい言葉でも、誰が言えなくても自分には言える。
「甘えんな。自分の辛さに浸るな。それは危険なことだってお前は知ってるはずだ」
ジェイを置いて外に出た。
「俺ってヤなヤツ」
ぽつんと呟く。慰めもしなかった。一人置いてきた。
「ほんっと、ヤなヤツ」
そのままオフィスに戻った。
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