第三十九話 寄り添う

 5月1日の金曜日。明日から連休だ。華はジェイのことが気になって早朝出勤をした。連休の間は旅行だ。何かあっても駆けつけられない。課長は心配は要らないと言ったが、それでも頭から離れない。

 ジェイが出勤するころにはメールは全部処理して資料もあらかたフォルダに分かりやすいように突っ込んだ。

 これは上の者の責任だ。もし何かあった場合、自分が資料を握り込んでいれば業務は止まる。誰もが分かるところに。それが鉄則だ。

「おはよう! 華さん、早いね!」

「休む前にいろいろやることがあるからさ。心置きなく休みたいし」

「すっかりチーフの自覚が身に付いたな」

「課長、褒めないでください。まだまだだって自覚ありますから」

「お前はいいチーフになるよ」

 当たり前のように言ってくれた課長の言葉が嬉しい。それを表に出すのが下手な華はいつもなら黙るか皮肉を言うかしかない。けれど今日は素直に喜んだ。

 出社しているチームメンバーに保存してある資料について説明をした。他のチームにも後々必要となるものについてはメールで知らせてある。もちろん他のチーフたちからも同じようなものが来ていた。

 昼はチームで食べに行った。

(親になるって、変なもんだな)

先週までと自分が変わっている。みんなが子どもに見えてしょうがない。

(俺って単純)

 哲平より単純だったらどうしよう、などと考えて(有り得ない!)と結論を出した。


「どうした?」

 夕方、目の前に立った華を手を止めて課長が見上げた。

「今日はジェイの病院、どうするんですか?」

「先週行ってるからなぁ。それに今日は俺は少し上がるのが遅いんだ。ジェイには言ってある。ここで待ってるって言ってたよ」

「連休になるのに大丈夫なんですか?」

 全部を知ってしまったジェイが気がかりだ。

「俺も念のために連れては行きたいんだが。今日は落ち着いているから」

「落ち着いてるのが心配なんです。俺、連れてってもいいですか?」

「お前が?」

「三途さんと交代で付いてくって言ってたでしょ? 俺、行きたいです」

 課長が考え込んでいるのが分かる。

「だめですか?」

「いや。助かる。頼んでもいいか? 少なくとも全部を知ったことを友中先生に伝えたい」

「分かりました」


 華はジェイに近づいて小声で言った。

「ジェイ、俺とデートだ」

「え、あの、なに?」

「デート」

 七生や桜井がいたら飛びつきそうな言葉。いないからこそ言うのだが。

「華さんには真理恵さんがいるでしょ」

「ばーか、お前の病院に行くの。課長のOKもらってある。終わったらお前んとこに送ってやるから」

「でも今日は行かないって」

「なんだ、俺と行くのがいやか?」

「そうじゃなくて」

 ジェイがチラッと課長席に目をやったのを見逃さなかった。

「そうか、俺じゃ頼りないってんだな?」

「違うよ!」

「じゃ、支度!」

「……はい」


 華がこの病院に来るのは初めてだ。

「ふぅん、ここか。色が優しくていいな」

「うん」

 ベージュに塗られた建物は病院には見えない。入り口まで両脇に華が咲いている。ありふれた華だ。パンジーやポピー。今は特にいい季節だ。

 中に入ると年配の女性が受付をしてくれた。

「今日はどうする? またアニメがいい?」

 メニューを渡されたジェイが一生懸命に見ているのを覗き込んだ。

「なんだ、これ」

「あのね、ここで待ってる間、アニメを見れるんだよ」

「アニメって……」

 どう見てもキッズ向け。

「課長ときたら一緒に見てんのか?」

「そうだよ」

(そうなんだ……そうか、漫画読んでたし、意外とこういうのが趣味なんだ)

思い描いて笑いそうになる。

(やっぱり似合わねぇ!!)

 人間、どこかにギャップがあるもんだと一人納得する。

(まさか、オタクじゃないよな?)

 主題曲は聞いたことがあるが見るのは初めてだった。穏やかな内容。広がる昔の日本の風景。伸びやかな声。ぎゅっとジェイの手が硬くなったのを見た。画面は『お母さん』がベッドにいる。子どもたちが嬉しそうに『お母さん』のそばで話をしている。

「ジェローム、どうぞ」

 名前を呼ばれて華が立った。

「おい、お前だ。呼ばれたぞ」

「うん」

 泣いてはいなかった。華はジェイの後ろを歩いた。


「こんばんは」

「こんばんは」

(優しそうな人だ。これなら安心だな)

「宗田華といいます。今日は付き添いで来ました」

「河野さんからお電話いただきましたよ。ジェロームからもよく華さんのお名前を聞いて」

 あ という顔をする。

「ごめんなさい、つい……宗田さん、でした」

「いいですよ、華で。昔は嫌いだったけど今は気に入っている名前ですから」

 穏やかな笑顔が少し傾いて華をじっと見た。その目を真っ直ぐに見る。

「ジェロームの周りには素敵な人が多いのね」

「華さんは……親友、なんです」

 照れたように言う。こうやって『親友だ』と人に紹介されて華も少しくすぐったい。

「ジェロームから何度もあなたの話を聞いてたんですよ。お洒落で照れ屋な人なんだって」

「は?」

 ジェロームだからだ。他の誰も華のことをこんな風に人に話さないだろう。

「先に華さんとお話してもいい? 華さんのことを知りたいの」

「はい」

 ジェイのちょっと斜め後ろに座っている華に友中の体が向いた。

「お友だち、親友、上司。どれが一番近いんでしょう」

「親友です」

 スパっと答えた華にまた笑顔を浮かべた。

「彼はあなたにとってどんな存在ですか?」

「相棒。そう思っています。俺の足りないところをこいつが補ってくれる。いつも助けられて救われてます」

「救われる?」

「俺も昔レイプされかけました」

 友中の顔が変わった。

「お聞きしてもいいなら。いつ頃ですか? 答えなくてもいいんですよ」

「事実ですから。17の時です。スタンガンで自由が利かなくなったのをマンションに連れ込まれました」

 唾をごくっと飲み込んだ。

「入院して。裁判になる前に自分に負けました」

 ジェイの手が華の手に載るのを見た。友中は小さく何度も頷いた。

「そうでしたか。じゃ、あなたにはジェロームが分かるんですね」

「はい」

 今度はジェロームに向き合う。

「電話で河野さんからあなたに全部話したと聞きました。いろいろ思い出しているって。どう? どこか自分の中でおかしいことがないかな」

「大丈夫……です……」

「華さん、昨日今日のジェロームはどう見えました?」

「ひどく落ち着いています。いつも以上に」

 あれこれ考えているのだろう。友中の言葉が途切れている。

「お休みは? どこかに行くの?」

「お墓参りに行きます」

「そう! いいお天気だといいわね。河野さんと行くの?」

「はい」 

(課長と? 連休なのにそこまで…… 確かにこいつ一人じゃ行かせるわけにはいかないけど)

「思い出して何が辛かった?」

「匂い」

「匂い……なんの匂い?」

「……ウィスキーの。無いのに匂いが周りがその匂いでいっぱい……」

「ジェローム?」

「う……ごめ、」

 ジェイの顔が一瞬で青くなった。

「すみません、トイレどこですか!?」

「廊下を出て左です!」

「俺に掴まれ!」


 吐きたいのに吐けない辛さが背中を撫でる手に伝わってくる。

「吐けないのか?」

 う、う…… と呻き声をあげながらジェイは必死に頷いた。

「口、開けろ!」

 言われるままに開ける口に迷わず指を突っ込む。喉の奥まで入れて、舌を押し下げた。

「うげ……ぇ、う、」

 華の手を吐いたものが伝っていった。

「良かった! もう楽になるぞ」

 指を抜いて反対の手で背中を擦り続けた。

「ごめ、はなさ……」

「気にするな。どうだ? 少しはいいか?」

 頷くのを確認して背中から手を離した。

「待てる? 手を洗ってくるけど」

「まて、る」

「すぐだからな」

 急いで洗面所で手を洗った。そばにあるペーパータオルを何枚も濡らしてジェイの顔を拭いた。涙が伝っている。

「さ、顔洗え。気分悪いだろ、拭いただけじゃ」

 口を漱いで顔を洗うそばにずっと立っていた。もしふらついたらすぐに支えなきゃならない。

「ごめんなさい、手……」

「だいじょぶだって、そんなの。手なんか洗えば済むんだ。先生のところに戻れそうか?」

「うん……」

 振り向くと友中が立っていた。

「すみません、気がつかなくて……」

「大丈夫そう。良かった! 続けられそう?」

「はい」

 友中の表情が柔らかかった。

 診察室に戻ると友中は華に頭を下げた。

「ありがとう。あなたみたいな人がそばにいるのは心強いです。まるで兄弟みたいですね」

「ええ、俺の弟なんです。親友で弟。大事なヤツです」

「これからが大変ですよ」

「知ってます。法律も裁判所も優しくなんかない。誰を守るためにあるんだか。あんなもんにこいつをいいようにされたくないです」

「ジェローム、あのね、無理に受け入れなくていいのよ。思い出したことにすごく抵抗があるんでしょう? 時間を空けてから考えると少し楽よ。そうしましょう。まずお母さんのお墓参りを考えて、それからゆっくり取り組んだらいいと思う」


 ジェロームを先に待合室に行かせて華は残った。

「少しいいですか?」

「ええ、どうぞ」

「ジェイは今の状態で裁判に臨んでも大丈夫なんでしょうか」

「華さん。たとえどういう状態だとしても裁判は待ってはくれません。よほどのことがあれば延期も申請できるでしょうが、限界があります。辛いけれど向き合って戦うしかないんです」

 まるで自分が裁判を受けるような気になってくる。

「ただ、やみくもに戦ってはいけない。呑まれてしまいますからね、方向を見失ってしまう。彼には助けが必要です。あなたなら誰にも分からないところが分かりますね?」

「はい……俺は自分の無様だった頃を思い出すんです。俺は周りの助けを拒みました。どうせ誰にも分からないって。あいつにはこんな思いはさせません」

「あなたがいるだけで充分彼には助けになっていると思いますよ」


 連休中に何かあった時のためにと頓服を渡された。

「いつもポケットに入れとけよ。先生の言った通りだ、無理に受け入れるな。さっきみたいに溢れて出てきちゃうだろ?」

「手……」

「もうきれいになったよ。な、汚れても洗えばいいんだ。すぐに落ちなくてもいつかきれいになる。俺はお前に助けられてきれいになってる最中なんだから」

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