第三十八話 繋がっていくもの

「マリエ、ありがとう。少し 分かってきたかもしれない」

「ね、まさなりさんとゆめさんに会いに行こ!」

「これから?」

「いいじゃない、別にいつだって」

 華が頷くのを見て真理恵は携帯を出した。

「こんにちは! 今華くんと近くにいるんです。ゆめさんたちの予定、空いてますか?」

『…………!』

「はい。じゃこれから伺います」


「びっくりして、それから喜んでた」

「母さん、転ばなきゃいいけど。きっと今頃廊下を走ってるよ」

「そうだね! まさなりさんはきっとテーブル拭いたりしてる」

「あの二人は……変わんないな。すごいことなんだろうな、それも」

「そうだね。あんなに不思議な人生を送っているのにね。なのに変わらない」


 実家の玄関を開けようとして、中から飛び出してきた父に抱きしめられた。

「父さん! 父さん、ほら、放して」

「マイボーイ! 車の止まる音を聞いてたんだ」

 玄関を見るとそこに椅子があった。

「ここに座ってたの?」

「テーブルとソファを拭いてからね。ゆめさんがじっとしてろって言うから。ここでじっとしてたよ」

 真理恵と目を合わせる。真理恵は吹き出さないように耐えている。

「あれから15分くらいは待ったでしょ」

「時間という概念に囚われてはいけない。とっくに私たちは時間に身を捧げているのだから」


 中に入るとすでに紅茶とコーヒーの匂いがする。奥からぱたぱたとスリッパの音。小さな声を聞いた。

「あっ」

 華は廊下に走った。壁に手を突いている母を抱きかかえる。

「走っちゃダメだってば。前にも言ったでしょ」

「ごめんね。普段走らないから走り慣れていなくて。途中でどっちの足を出すのか分からなくなるのよ」

「相変わらずだね、母さんは」

 ウバを飲みながら家の中を見回した。一際大きな額に白いタキシードの自分と真理恵のウェディングドレスの姿があった。

「父さん。今は分かるよ、父さんの絵が心を打つっていうのが。生きているみたいだ。ううん、生きてるんだね、あの時の俺が」

「そうだよ。いつだって私の中で君は動き回っている。止らないよ、君は」

「母さんのピアノ、聴きたい」

「え?」

「新しく買ったんだね。聴かせてよ」


 ピアノの前に座った母は別人になった。呼吸を整えている。そこに何かがあるかのように空間を見つめていた。うっとりと目を閉じて何かの中に自分を解き放っていくようだ。指が滑り出した。

(ボロディンの「イーゴリ公」……俺の一番好きな曲だ)

 世界的に有名な宗田夢が、今息子のためだけに弾いている『韃靼人の踊り』。あの頃が浮かんだ。部屋に籠っていた頃。力無くベッドに横たわっていた頃。

 夢の奏でる音が教えてくれる、過ぎたものだと。今の自分に過去は解け合っている。

 華は感覚的に生きてきた。それはこの両親から受け継いだものだ。いつでも素直なありのままの自分を出して生きてきたのだ。

(ジェイ。お前に母さんのピアノを聞かせたい。いつかこの家にお前を連れてきたい)

 両親はジェイを受け入れて包むだろう。


 曲が終わっても華は余韻に浸っていた。

「父さんも母さんも……俺は好きだ、そのままで。好きだからいてほしかったんだ。そばにいてほしかった。でも今も変わらないでいてくれる二人が……好きだよ。父さん、さっき時間のことを言ったね。その通りだと思った。一緒にいた時間じゃない。トータルの時間なんてどうだっていい。今は父さんたちを見てて満たされる。それでいいと思う」

 父が微笑む。

「枠は要らないんだ、華。いろんな枠は忘れていい。父さんも母さんも間違った。君に対してね。それでも君は美しく生きていてくれる。私たちには宝なんだ。きらきら輝く宝石なんだよ。忘れないでおくれ。何があったとしても君は美しい。魂が見えるよ、誰とも違う君だけのもの。人を見る時も魂を見るんだ。君にはそれが出来るよ、何もかも取り去った枠の無い魂を見て受け入れることが」

 芸術家は生産性のない職業だと思っていた。違う。そこに生まれるものは計り知れないほど大きくて豊かだ。それは職業ではない。

 この父と母は結果もたらされた名声にさえ執着していない。自分のためにあの時になにもかも捨ててくれた。

「もっと考えるよ、父さんの言ったこと。父さんと母さんに生まれて良かった」

 夢はとっくに泣いていた。真理恵が2枚目のハンカチを渡している。


 唐突に真理恵が立った。華は真っ青になって洗面所に駆け込む真理恵を追った。

「どうした!? マリエ、具合が悪いのか!?」

 後ろに息を切らした父が立った。背中を擦る息子の姿に思い出すものがあった。

「真理恵ちゃん。新しい命がいるんだね?」

 その意味が分かるのに時間がかかった。華は息をするのを忘れた。


 夢はまた走っていた。寝室から羽枕をいくつも抱えてくる。超愛も遅れて手伝う。ソファはあっという間に真理恵のための特別席に代わった。

「大丈夫、ゆめさん。ちょっと気分が悪かっただけでもう治ったから」

「この時期は大事なの。華、うんと気をつけてあげて」

「う、うん」

 華は何をしたらいいのか分からない。頭の中が何かでいっぱいなのに何を考えているのかが自分で分からない。

 どうしているのが一番いいのか。後で思い出して赤面することになるのだが、ひたすら真理恵に「大丈夫? してほしいこと、無い?」を繰り返していた。

「華くん、落ち着いて。連休終わってから病院に行ってくる」

「そうだ、救急車!」

「ばか、こんなことで救急車使ったら本当に具合の悪い人に申し訳ないでしょ?」

「連休明けまで待てるの?」

「あのね、病気じゃないの。もっと落ち着いて」

 結局立ったり座ったり。


「そうだ! 茅平の家に電話しないと!」

 父が初めて世間一般の反応らしい言葉を口にした。

「まさなりさん、はっきりしてからでいいから」

「この上なくはっきりしているよ。なんで気づかなかったんだろう、真理恵ちゃんが違って見えていたのに」

 急いで電話をする父を見ていた。そんなことに気が回らない。

「すぐ見えるよ。とにかく今日はお姫様になったつもりで過ごしてほしい」

「ありがとう。華くん、なんて顔してるの? 間違いないって分かったらパパになるんだよ」


 パパ。


(パパ? 誰? 俺? 俺…… 俺!?)

なおのこと舞い上がってしまう。

「マリエ、俺たちに子どもができるってこと?」

 バカな質問をする華に、夢が立ち止まって微笑んだ。

「宝物が増えるわね、華」

 そばの椅子にどさっと座り込んだ。

「俺、どうしてたらいい?」

 父がそのそばに座った。

「包んであげなさい、真理恵ちゃんを。それが赤ちゃんに伝わるよ。そうか、華がダッドになるんだね」

「ダッド、俺、『お父さん』がいい」

 まるで大きな決意を込めたような言い方に真理恵が笑い始める。止まらなくなる。

「マリエ! 興奮しちゃだめだ!」

「笑うのはいいことなのよ、華。マムが笑うと赤ちゃんも笑うの。一番初めに聴覚が育つのよ。音楽を聞かせてあげなさいね。いろんな曲を」

「分かった」

 ひたすら母に頷く華を、真理恵は愛おしく感じる。

「華くん。きっといいお父さんになるよ。『お父さん』でいいのね?」

「『お父さん』がいい、マリエ。それがいい」

 事態に実感のない華が、それだけにはしっかり拘っていた。それも可笑しい。

「真理恵ちゃん、好きなものだけ食べてなさい。食べたくない日は食べなくても大丈夫。時間も気にしないこと。伸びやかに過ごしなさいね。華、食事は無理強いしちゃダメよ。高いところにある物はあなたが取ってあげて。背伸びをするのはすごく体に負担をかけるから」

「私はゆめさんにそんなことをさせなかったよ」

 どんなアドバイスにもひたすら頷く。


 チャイムが鳴って華は玄関に走った。

「こんにちは! 本当なの、華くん!」

「はい! 俺、お父さんです!」

 後ろから真理恵の爆笑が聞こえる。

「あ! マリエ、興奮しちゃダメだ! そんなに笑っちゃダメだ、そっと笑って!」

 益々笑いが止まらない。茅平の母が微笑ましいという顔で華を見る。

「こんな華くん、初めて見るわね。笑うのはいいことよ。新鮮な空気が赤ちゃんに届くから」

「そうだった、さっき言われたのに!」

 時恵は華の背中を撫でながら真理恵のそばに向かう。

「なんで分かったの?」

「時恵さん、つわりがあったの」

「そう! 夢さん、分かってる? 私たち、お祖母ちゃんになっちゃうのよ?」

「……そうだわ! 私、グランマになる、まさなりさんはグランパだわ!」

 とたんに今度は超愛が固まった。

「お祖父ちゃん、お祖母ちゃんって呼ばせるからね!」

「おお、華、それは美しくないよ」

「だめ」

 本当にそうなのか。無事に生まれるのか。それさえ分かっていないのにこんなに大切にされているのだと真理恵は大きな幸福感に包まれていた。

(本当に? 本当にこの中にいるの? 私はお母さんになるの?)

そっとお腹を触ってみる。真理恵自身にも本当はまだ実感は湧いていなかった。

   


 翌日の朝は真理恵に追い出された。

「行ってらっしゃい。心配要らないから」

「高い物は取っちゃダメだぞ。背伸びしちゃだめだ。洗濯ものは俺が全部引き受けるから」

 朝、あれこれ言うのは良くないと思う。『お父さん』をいつもの通り送り出したい。

「いい? 外に出たら家のことは忘れて。約束してほしいの、変わらないって。いつもの華くんが好き。変わらないで」

 深呼吸をした。真理恵の願いだ。

「行ってくる。マリエ、愛してるよ」

 いつもと変わらない。難しいことだ。でも真理恵の望み通りにしたいと思う。

「さ! 仕事だ。俺は俺のすべきことをやらないと」

 呟いて一度家を振り返り、華は会社に向かった。


「華、気合入ってるな!」

「いつもですよ、チーフ。三途さん、どう?」

「変わらない、口は達者だ」

「さすが三途さん! チーフ、顎でこき使われてるってこと?」

「バカ言え、今は怪我人だから仕方なくそうしてるだけだ」

 周りにいる仲間が池沢の背中を叩く。

「そういうのを、『尻に敷かれてる』って言うんですよ」

「和田! お前もその口か?」

「俺は典型的な亭主関白です」

「我儘なだけなんじゃないの?」

「柏木、ゴールデン前の掃除、お前が残れよ!」

 いつの間にか池沢は抜けて和田と柏木の掛け合い漫才が始まっていた。


 がやがやと賑やかな中を見回す。

(ジェイは?)

いつの間にか姿が……と思っていたらコピー室から出てきた。

(なんだ、いたのか)

けれどその真剣な顔つきに違和感を感じる。時々気をつけては様子を見た。

「ジェイ、4時」

「まだできる。自分たちが仕事してるのに先輩がいい加減だっていうのは良くないから」

「誰もそんなこと思わないぞ」

「もう普通に仕事したい。お願い」

 いつもよりも必死な言い方に、ジェイには分かったと答えて、課長に時間を取ってもらった。

「え!? 事件のこと、全部教えたんですか? それ、無謀じゃないんですか!?」

「あいつは突然蘇る記憶に苦しんでいた。全部話してほしいと言った時の様子は真剣で落ち着いていたんだ。でもなんであんなに落ち着いているのかが分からないんだ」

「連休の間、どうするんですか? 俺、旅行に行っちゃうし」

「大丈夫だ、こっちで考える」

「課長、自分の生活ってしてますか? ずっとジェイのことで追われてるように見えるけど」

「そうか? どうせ彼女いないしな。あいつの世話してるのも結構楽しいんだ」

「ならいいんです。すみません、余計なこと」


 そう言えば課長の趣味など聞いたことが無い。

(あの人、仕事が趣味っていうか生きがいっていうか……それじゃ益々彼女できないじゃん)

 子どものことを言おうかとも思った。

(まだ……早いよな。それに言うならジェイに最初に言いたいし)

もっと落ち着いてから。ジェイだけでは無くて自分もだ。

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