第三十四話 怒り -1
月曜の朝はジェイは大きな声で挨拶をして入って来た。すぐに周りから課長の様子を聞かれ、経過を話している。その様子は落ち着いていてひとまず安心だ。課長の穴は池沢が全面的に引き受けた。
新人3人には華が課題を出した。去年のプレゼンの記録を見せ、小さな案件を任せてみる。もちろんそれが通用するとは思っていない。だが実戦を味わうのが育てるのには一番手っ取り早い。提出するものはジェイと二人で作ることにした。
「七生! 仕事しないなら出て行け!」
ジェイが緊張でビクリと震えた時には華は怒鳴っていた。携帯をジェイに向けていたのだ。相田が撮っていた写真がすぐに頭に浮かぶ。慌てて仕事に戻った七生を睨みつけた。
「ジェイ、大丈夫か?」
「うん。いきなりだったから……」
「悪い、もっと早く気づけば良かった」
「華さんは何も悪くないよ! もう平気だから」
「中山さんとチーフにも言っておく」
やっと頑張ろうとしているのにこうやって足元から掬われるのに腹が立つ。
けれど少しは良いことがあった。石尾だ。
(ちょっと変わった?)
ジェイがどうとか、そういうことではなく仕事に真正面から取り組むようになってきた。
(たった数日でこうなるなんて……広岡さん、何を言ったんだ?)
新人の歓迎会で広岡に叱責されてから変わったのだ。何にせよ、これは有難い。
午後にはジェイは普通の勤務に戻りたいと言い出していた。
「俺の許可が出るまでだめ。もうしばらくこのままだ」
気が張っているからきっともう大丈夫だと思い込んでいるだけだ。がっかりした顔に(悪いな、課長が戻るまでお前は俺の責任下だ)と呟いた。
その後の休憩でトラブルが起きた。
オフィスに駆け込んできたジェイ。入った途端にその異様な雰囲気にみんながすぐに気づいた。
慌てて真っ青な顔で倒れそうなジェイを華が抱えた。
「ジェイ! 何があった!?」
「あの、すみません。何か悪いこと言いました?」
その後に続いて入って来たのが桜井だった。
振り返った華の顔は鬼の形相だった。石尾も翔も七生も固まった。従来のメンバーさえ声が出ない。いや、知っているから余計なことを言わない。
「池沢チーフ、中山さん! こいつをどうにかしてくれっ!!」
そこに礼儀も何も無い。二人がしないなら自分でぶん殴る、それほどの思いがあった。
後は振り返らずジェイを支えて医務室に向かう。
「はな、さん、だいじょぶ、ごめ……なさ……」
「何も言うな。俺に掴まってればいいんだ」
細身に見えても華には力がある。ともすれば崩れそうなジェイを抱えてエレベーターで4階に向かった。
休憩所の反対側の廊下の奥に医務室があり、個室が4つ。ちゃんとベッドが据えられている。
「すみません、R&Dの宗田です。部下が体調を崩したので連れてきました」
奥から出てきた保健師がすぐに対応してくれた。ジェイを横にして、渡された紙に部署と名前、責任者として自分の名前を書いた。
「どうします? まだ顔色が悪いから落ち着いたら帰らせますか?」
「いえ、オフィスに連れて行きます。しばらくいいですか?」
「もちろんです」
「俺も一緒にいます」
「じゃ、何かあったら声かけてください」
中に入るとジェイが目を閉じている。時折、びくりと体が動く。
「ジェイ、起きてるか?」
小さな声で聞くとうっすらと目が開いた。
「ごめんね、だらしなくて……」
「いいから。それより何か飲むか? 自販で買ってくるよ。俺もコーヒー欲しいし」
「……じゃ、水……」
「分かった。そう言えば薬は?」
「あ」
ポケットを探っている。
「上着だった」
そばの椅子に置いてある上着を取った。
「どこ?」
「中の胸ポケット」
「あった。じゃ、水持ってくるからな」
なるべく頭を空にしようと思う。ジェイとは穏やかに喋りたい。水とコーヒーを持って中に戻った。
「ほら、薬飲め。俺しばらくここにいる。安心しろ」
ジェイが落ち着くまで求められるままに手を握った。
「ごめんね、もう大丈夫だよ。オフィスに戻って」
「お前を口実にしてちょっとサボる」
力無いが、ジェイは笑った。
「仕事虫の華さんがサボるの?」
「仕事虫に見えんのか?」
「うん。課長みたい」
「そうかなぁ。この前も誰かに言われた、課長に似てるって」
「華さん、思い切りがいいから。決断早いし」
「俺さ、課長に憧れてんだよ。いつか課長の立場になったら河野課長みたいになりたいんだ。でも無理だな」
「なんで?」
「短気だから。感情的だし」
ジェイが複雑な顔をする。
「課長も……結構そういうとこ、あると思うけど」
「そうか? いつも平常心だよ。何か事が起きれば冷静に判断して突破口を開く。無駄が無いし、焦りも無い」
「なんだか完璧人間だね」
「そうなんだよな! ああはなれない」
ジェイがくすくすっと笑った。
「なんだよ、何がおかしい?」
「いや、えと、ほら同じ階に住んでるでしょ? たまに作り過ぎたっておかずもらったりして。結構短気で感情的だったりするけど」
「あ! お前、考えてみたらずるいよな! 課長の素顔見てんのはお前だけだ」
「それってずるいこと?」
「そうだよ! 俺も見たい、普段の課長。朝起きて寝ぐせがついてるとか、なんか弱点があるとか、不貞腐れたことがあるかとか」
ジェイが吹き出す。
「不貞腐れてる課長が見たいの?」
「見たい! ガキっぽい課長とか。まさか無いだろうけど甘ったれてるとことかさ。見たこと無い顔が見たいな。ま、きっと私生活でも完璧なんだろうけどさ」
ニコニコしているジェイに少しは良くなったかと肝心の話を始めた。
「桜井、お前に何を言った?」
「え?」
「歓迎会の時みたいなことを言われたのか?」
「たいしたこと……ないんだ。俺がだらしなかっただけ」
「親友に隠し事か? 今はチーフとして聞いてない」
「それ……困るよ。華さん、都合のいい時にチーフになったり友だちになったり」
「俺だから許される。口答えすんな。で、あいつ何言った?」
追及を止めない華にジェイはとうとう話してしまった。
「ファンクラブがあって……」
「ふぁんくらぶ? なんの」
「……華さんとか、俺とか……あといろんな部署の人たち。俺が一番……だって。孤独な陰っていうのがいいんだって。いつまでも……似合うからその陰がずっとあった方がいい……俺、どう考えていいか分からなくなった」
冷静な顔でジェイから見えないところで拳が固まっていた。今から殴りに行っても構わないほど怒りが湧いている。
「気にすんなよ。バカのするバカっ話なんて。そんなクラブは下衆が集まってるんだ、勝手にやらせとけ。芸能人のことを本人を知りもしないでわぁきゃぁ言うだろ? あれとおんなじ」
「華さんも、だよ?」
「俺はきれいだからな」
一瞬ぽかんとしたジェイがだんだん笑い出した。
「失礼なヤツだな。誰もが言うんだから間違いないって。俺の親も言うよ」
ジェイの目が見開いた。
「華さんのお父さんとお母さんってどんな感じ? 聞いたこと無い」
「結婚式には来てたぞ」
「……華さんと真理恵さんしか見てなかった」
今度は華が笑う。
「俺の老けたようなのが父さん。俺を女にしたようなのが母さん」
「すごい……! で、どんな人?」
「ぶっ飛んでる。哲平さんとか三途さんとか目じゃないくらい」
「そんなに!?」
「そんなに。仲良くてさ、俺を放っておいて二人でしょっちゅう海外に行ってたよ。互いに『まさなりさん』『ゆめさん』って呼ぶんだ」
ジェイの目がさらに丸くなっている。
「お母さん、『夢さん』っていうの?」
「名前の通り、いっつも夢見てるみたいな人だよ。現実感が無いって言うか。二人がいなくってよく面倒見てくれてたのがお手伝いさんとマリエ」
「そんな時から?」
「マリエが俺を好きだって知らなくってさ、付き合ってる彼女へのプレゼント選んでもらったり」
「華さん、結構悪辣だったんだね」
「何だ? その言い方」
「真理恵さんが可哀そうだよ」
「その分今大事にしてるし、一生幸せにする」
「……すごいよね、華さんも。そうだね、課長と似てるね」
口調が落ち着いてきたと感じた。
「どうする? 上に戻れそうか? 無理しなくていいよ、なんなら帰りは三途さんにここに迎えに来てもらってもいいし」
「行く。一緒に戻るよ。これ以上はみんなに甘えすぎだから」
起き上がるジェイを助けた。なるべく自分で出した結論を生かしてやりたい。
(桜井! お前は生かしておきたくない!)
物騒なことを考える。
オフィスに戻ると意外と静かだった。桜井の方を見ると、疲れ切って座っているように見える。
(よっぽど絞られたか)
なら、いい。何もされてなければ自分がやっている。
「華」
三途川だ。
「悪いけどジェイを私の実家に送ってやって。急用が出来たの。ジェイ、電話しておくから誰かに病院に連れてってもらいなさい」
「俺んとこに連れてってもいいけど?」
三途川のいないところに連れて行って大丈夫だろうか。不安が残る。
「頼むわ、この通り! 今度ランチ奢るから」
「……分かったよ。送ってく。あそこ苦手なんだよなぁ」
「俺、一人で帰れる……」
「ばか、送るから心配すんな。けどなんかあって驚くなよ」
地下の駐車場に連れて行きたくない、そう思っていた。相田に襲われた場所だ、あれからジェイはトラウマになっていて駐車場には行けずにいた。1階で下りると思っていたからボタンを押した。
「華さん、駐車場は地下だよ」
「1階で待ってればいい」
「一緒に行く」
「お前、平気になったのか?」
「だって……ただの駐車場だよ」
「そうか」
少しずつだけれど着実に進歩している。それが嬉しい。車の中で静かなジェイにいろいろ話しかけた。
「歓迎会の時さ、お前言ったろ? 『逃げても意味無い』って。あれ、凄いと思った。後戻りする時もあるだろうけどさ、また前に進めばいいんだ、慌てずに」
「繰り返してたら前に進めないよ」
「そう言うけどその前のお前は泥沼で足掻いてたじゃないか……俺、あれ見てるの辛かった。何もやってやれなかった……たまには自分を甘やかしていいんだ。またマリエと一緒にどっか行こうぜ」
三途川家の中に入りたくない。送るだけで帰ろうと思っていた。けれどしっかり三途川から連絡が入っていて引きずられるように入った。
ジェイは「ただいま!」と、すっかりこの家の身内のようになっている。優作が出てきた。
(来た! だからイヤなんだ)
実は三途川の居候、優作とは同い年だ。だからやたら張り合って来るし、華にぶん投げられたことがあるから突っかかってくる。
「今日こそ決着、つけようぜ」
「勘弁してよ、着いた途端」
「庭に出ろよ」
「また背中汚す気?」
「なんだとっ!?」
そこに親父さんの「なにをやってる!」という声がかかり不服そうに優作も引き下がった。
中に入ると今度は親父っさん相手にあれこれ始まる。どうしても夕飯を食って行けと言うのを何度も断った。
「俺結婚したんですよ、三途さんから聞いたんでしょ?」
「え、いつだい!」
「去年」
「あのバカたれ! 言いもせずに!」
(それは俺には関係ないよ)
華の知らない所での話だ、親子げんかに関わる気は無い。
「じゃ、結婚祝いしないとな」
「ヤクザからのもらいもん要らないです」
側でジェイが首を竦めているのが見えた。けれどけたたましく笑い始めた親父さんにホッとした顔に変わる。
「相変わらずだな! だからお前が気に入ってるんだ」
「おーい、千津子! 華にいろいろ持たせてやれ」
「はいよ!」
なんだかんだと言いながら、本当は華だって自分のことのように喜んでくれる親父っさんを有難く思っている。
振り返った場所から優作が睨んでいる。
「ジェイは俺の弟だから。なんかあったらただじゃおかないからね」
「俺もジェロームとは仲がいいんだ!」
この時とばかりに飛び掛かってくる。咄嗟に空間を見つけた華は相手の勢いのままそこに叩きつけた。
(まったくもう。こっちだって条件反射だっつーの)
親父さんは笑っている。
「お前も飽きないな。無理だって言ったろ、華にはお前じゃ勝てない」
「じゃ、帰ります。ジェイ、お休みな」
「はい……あ、車まで送ります!」
後ろから来たテルが車にどんどん物を載せていく。
(げ、すごい量!)
米袋が5つ、日本酒とワインが2本ずつ、後は段ボールで野菜、冷凍の松坂牛。
「こんなに要らないって!」
「いや、言いつけられてるから」
イチのにべもない返事。そうだ、イチが親父さんに背くわけが無い。ニヤッと笑われた。
「お返し、出来ないよ」
「承知してるよ、親父さんも女将さんも」
「……お礼、伝えておいて」
「柔らかくなったじゃないか。気をつけて帰れよ」
「はいはい。ジェイ、また明日な」
そばにいるジェイの髪をくしゃくしゃとしてやると嬉しそうに笑った。
(これなら安心だな)
車を出す。手を振るジェイがバックミラーに映って、窓を開けて手を振った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます