第三十話 長男の力 -1

 哲平といると一人で頑張らなくてもいいような気がしてくる。

(だめだ、気が緩んで)

そんなことを帰ってから真理恵に言ってみた。

「弟が出来て嬉しいんでしょ?」

「それはそうだけど。今話してんのは哲平さんがいると俺はちゃんとしないって話で……」

「華くん、それ、甘えてるっていうんだよ」

「甘えてる? 誰にさ。今は俺の問題を話してるんだよ。やっぱりそう見えんのか? 人に甘えてだらしなくなってるって」

「そうじゃないよ。哲平さんに寄りかかることが出来るから華くんはホッとしてるんだってこと」

「俺、ジェイのことで誰かに寄りかかるつもりなんかないよ!」

「そういうことを言ってるんじゃないの。哲平さんが横浜に行ってる間、華くんはジェロームくんのことを一番に考えていたよね、一人で」

 華は頷いた。

「で、今は一人だけで頑張らなくても、哲平さんっていうお兄さんがいるから安心して任せられるでしょう? 例えばもし風邪引いて休むことになっても哲平さんがいてくれるんだから」

 ようやく真理恵の言おうとしていることが素直に頭に入って来た。

「マリエ……そうか、いろんな感じることを俺はマリエとだけ共有してきたんだけど、哲平さんが帰ってきて安心しちゃったんだな」

「だから気が緩んだように感じる。それは華くんには悪いことに思えるんだろうけど、悪いことじゃないと思うよ。どこかで深呼吸しないと窒息しちゃう。哲平さんがいるうちに深呼吸した方がいいんだよ。今度はインドに行っちゃうでしょう? そしたらまた一人で考えて決めて行かなくちゃならない。それから逃げたり嫌がったりする華くんじゃない。張り詰めすぎると見える物も見えなくなっちゃうよ。今は哲平さんに甘えていいんだと思う」

 少しずつ心が軽くなってくる。気が緩むことは悪いことでは無いのだということ。哲平がいてホッとするのは、自分が逃げているからじゃないということ。

 そして。

(俺は哲平さんの存在に救われてるんだな……こういう時に頼りになるのは、哲平さんなんだ。俺は……素直にそれを受け入れていいんだ)

「分かったような気がする、マリエの言おうとしてること。気が緩んでる自分のことを後ろめたく思ってた。そうじゃないんだよな」

 真理恵が華を抱きしめた。

「華くんはいつも真剣にジェロームくんのことを考えてるよ。誰にも分からなくても、関係無く支えようって思ってる。哲平さんも同じだと思うでしょう? 華くんはそれをどこかで分かっているから哲平さんがいるとホッとするんじゃないのかな」

「ホッとするのは悪いことじゃない……」

「うん。哲平さんって、ジェロームくんだけじゃなくって華くんのことも笑って受け止めてくれる人だと思うよ」

 その通りだ。哲平はいつも真正面から自分のことを受け止めてくれる。あの言葉は本物なのだ。

『お前を構ってやるのは俺だけだ』

「哲平さんってさ、ただ態度がデカいんじゃないんだな。懐もデカいんだ。一見適当に見えるけど、意外とそうでもなくってさ。『大丈夫だ、任せろ』って言われると本当に大丈夫だって思えるんだよ。もしかしたら大物なのかもしれないな」

「それ、褒めてるの? けなしてるの?」

 真理恵が笑い転げる。

「どっちだろ……あの存在感は謎だよ」


 

 翌朝の会社。夕べあれだけ哲平のことを思い、その有難みが身に染みたのに、朝からの哲平の姿にあっという間にその気持ちが霧散してしまった。

 いや、消えたわけではない。それはそれで残ってはいるのだが、どうも本人を目の当たりにすると……

 課長がちょっとフロアを留守にした間にオフィスに入って来た哲平が大拍手の中でぶちかましたのだ。

「ええ、皆さん、俺の帰りを待ち詫びてらしたようでありがとうございます!」

「よ! 大道芸人!」

「久しぶりに歌えよー」

「そしたらオフィスにいられなくなっちゃうだろ!」

「何にしても、俺がいないと寂しいってことだね」

 大道芸人とまで言われても体中に溢れる喜びをまとう姿に、(あのオーラ、どこ行っっちゃったんだろ?)と首を捻る。

(きっと前世は大道芸人だったんだ)

 そう思って哲平の後ろが目に入り、にやっと笑ってしまった。入って来た鬼課長が真後ろに立っている

「痛っ! 何すんですか、課長!」

「お前に月曜朝のミーティングを仕切らせるつもりはない。みんな、うるさいのがちょうどいいタイミングで帰ってきた。フロアの整理でどんどん使え。使い惜しみしなくていい。早く終われば早く楽になる。以上だ」

「え、課長、俺の挨拶は?」

「なんの?」

「横浜からやっと帰ってきたし」

「みんな気がついてるよ」

「えええ、そんなぁ……」

「仕事だ、哲平」

 さすが課長! とみんなも笑っている。早速こき使われる哲平。けれど嬉しそうだ。千枝にあれこれ指図されて「これじゃ家と変わらないじゃないか!」と叫ぶから、やはり目指す亭主関白からは程遠そうだ。

 それでもフットワークの軽さはフロア随一だと思う。どんな作業もこなすのは哲平ならではだ。

 ジェイがそばに来て哲平の動きを感嘆するのを聞いて少し悔しくなる。

「中身はどうか分かんないけど、あのバイタリティは見習わなくちゃな」

「相変わらずね、哲平は。トラックがいきなり突っ込んできたみたいな勢いだわ」

 三途川もかなり嬉しそうだ。

「トラックっていうよりブルドーザーだな」

 茶化す華にすかさずキラキラした目のジェイが答える。

「戦車だよ、絶対!」

「確かに!」


 4月は目の前。新入社員のことも含めて慌ただしく3月が終わろうとしている。ジェイは調子のいい日が多くなっていた。けれど公判前の事件当時の精神的状況の検査が近づき始め、また様子が変わりつつある。

「チーフ」

「なんだ?」

 顔が青い。苦しそうにも見える。慌てて立ち上がろうとするのをジェイが首を横に振った。

「すみません、この後上がりたいんです」

 時計を見れば3時半。4時まではあと30分。こういう上がり方をするジェイじゃない。にこっと笑ってジェイの手をぽんぽんと叩いた。

「お疲れっ! 資料、そのままでいいぞ。俺も見たいから」

「はい」

 チラッと見ると書類を持っている。

「なんだ、それ」

「あの、新入社員のリスト……」

「お前さぁ、それ抱いて寝んの? 寄こせ、俺に」

「でも、まだちょっと」

「砂原さんに渡しとく。そんなとこ見たら気にすんのは砂原さんだ」

「……はい」

 ソファに行く姿をそれとなくみんなも追っているのが分かる。ジェイが横になったのを確認してからジェイのデスクの上の資料を片付けた。本当は見る必要なんてない。

  


 ジェロームの検査の前日。課長は検査にはついて行かないと言った。華はそれには反対だ。

「課長、ちょっと話あるんですけど」

「なんだ?」

「明日の検査、一人で行かせるってホントですか?」

「そうだ」

「課長が忙しいんなら俺がついて行きます」

「だめだ」

 厳しい顔をしている。

「なぜ!? 一番苦しい時じゃないですか!」

「本人が決めることだ。今は時期も悪い。俺たちはやるべきことをやっていこう。求められたら支えてやろう」

「なに、それ!」

(急に手の平返したみたいに……あんなに心配してたくせに!)

納得が行かない。

(休んじゃえ、体調悪いって。年休取るのに文句言われる筋合い無いし)

「おい、付き合え」

 いつの間にか哲平がそばにいた。

「今忙しいです」

「ぼんやり突っ立ってるじゃないか。いいから来い」


 4階に連れて行かれた。

「奢らないぞ、なんか飲め」

「なんだよ、それ。誘っておいて」

「課長と喋ってるのが聞こえた。お前な、明日休むなよ」

「なんで? 哲平さんだって心配じゃないんですか! ジェイを一人にするなんて出来ないよ!」

「お前さ、一人で行けって課長が言ったわけじゃないんだぞ、ジェイが自分で言ったんだ。それって凄いことだよ。あの事件からあんなに憶病になったヤツが、このキツいのを自分で乗り越えようとしてるんだ。見守ってやるのが兄貴だろ」

 確かにそれは進歩だ。でも自分は見ている、最初から今までずっと。

「一番行きたいのは課長だと思うけどね。その権利があるのも。俺はだらしない兄貴になるつもりはないよ。そんなのお前が嫌ってる馴れ合いってヤツだよ。アイツが苦しむのを見たくないって言うお前の我がままってヤツだ」

「我がまま? 言っていいことと悪いことが……」

「ああ。お前の今言おうとしてるのは、言って悪いことなんだよ。そんなんで俺がインドに行ってる間、アイツを守っていけるのか? お前の言う守るってのはどんなんだ? 相手はガキじゃないんだぞ」

 哲平の言うことが分からないわけじゃない。でもそんなに簡単に割り切れることじゃない。

「三途さんもついて行きたいって言ったらしいけど課長の話を聞いて納得したって」

「どうしてみんなそんなに冷たいんだよ……」

「冷たいって思うのはお前がガキだからだ。これじゃジェイよりガキだな、ジェイは頑張ろうとしてるんだから。ちっとは頭冷やせ。先に行ってる」

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