第二十九話 叫び

 マンションは目の前。いきなりだった、それは。

「やだあ! ママ、ママ、ママーー!!!!」

 まるで子どもの悲鳴だ。

「どうしたんだ、ジェイ、ジェイ、起きろ!」

「哲平さん、押さえて! 多分夢だ!」

「押さえるって!?」

「抱きしめてやって! もうマンションだから、俺、課長に電話する!」

「分かった! ジェイ、ほら、ジェイ。哲平だ、分かるか? 俺たちがいる。お前だけじゃないぞ、俺と華がそばにいるから!」

 初めてジェイのそんな姿を見た哲平は必死にジェイを抱きしめていた。華は迷わず課長に電話をかけた。

「課長っ! すみません、すぐそばです! 車の中で眠ってたジェイが叫びだして止まらないです!」

『近いんだな!? 来い! 外で待ってる!』

「すぐ着きます!」


 華はアクセルを踏んだ。

「哲平さん、掴んどいて、ちょっとスピード出す!」

 母を求めるジェイの声が止まらない。哲平にしがみついて「ママ、ママ……」と泣きじゃくっている。

「課長だっ! ジェイ、課長がいるから!」

 急ブレーキをかけるとドアを開けると同時に課長がすぐそばに駆け寄って来た。ジェイの絶叫が続く。

「死んじゃいやだ、そばに置いて! おじいさま!」

 華も飛び降りた。

「哲平、どけっ!」

 場所を交代した課長が叫ぶジェイの口に薬を放り込む。

「水が……」

「向こう向いてろっ!」

『必要だ』と言おうとした華は課長の剣幕に言葉を呑み込んだ。有無を言わさぬその声に華も哲平も咄嗟に従っていた。

 ジェイの声が一瞬止んで啜り泣きに変わっていく。

「いいぞ」

 振り向くとジェイを胸に課長が体を揺らしていた。

「ほら、大丈夫だ。ゆっくり息をするんだ。すぐ楽になるからな、ゆっくりだ」

 課長の胸に縋りつくジェイの声が徐々に収まっていった。

「聞こえるか? 俺の声が。ジェイ、聞こえるか?」

 やっとジェイの目が開いて、華たちはホッとした。課長がもう一度ペットボトルの水を飲ませる。それをジェイはちゃんと飲んでくれた。

「どうですか?」

「眠ってたのか?」

「はい、ずっと静かだったんですけど」

「向こうで変わったこと、無かったか?」

「いえ、何も。すごく楽しんでました、ボートにも乗って」

 今、またジェイは目を閉じている。

「そうか、ありがとうな、お前たちも疲れただろう?」

「んなことないですよ、俺たち3兄弟だなって今日話して、それすごくジェイも喜んで」

「ジェイ?」

「ああ、それ、ジェロームがそう呼んでくれって……そう言えばさっき課長もそう言ってましたね。特別な人だけしか呼ばれたくなかったけど、今はもういいんだって言ってました」

「哲平さん、課長保護者みたいなもんだし」

「そうだな、ジェイにとってホントの特別だよな」

 こんな慈しむような顔でジェイを見下ろす課長を見たことが無い。

「悪いな、上まで手伝ってくれ。俺のところに運ぶから。一人で寝せておくわけにはいかないしな」

「了解!」


 課長の寝室にジェイを運び入れて横にした。薬が効き始めたのか、もう大人しく眠っている。

「夜中もあんな風に叫んだりするんですか?」

「たまにな」

「課長……仕事もきついのに」

「俺はタフだよ、お前らよりも。あ、ちょうどいい。哲平、これ持っていけ」

 出かける前に課長が言っていたものを持たされる。箱には酒もつまみも目一杯入っていた。

「こんなにいいんですか!?」

「三途には言うなよ、あいつの親父さんからもらったんだ」

「しばらく会ってないですからね、インド行く前に寄ってみようかな」

「お前は気に入られてるからな」

 ジェイの声が聞こえる。寝室を覗くとぼんやりと座り込んでいた。お腹の大きな母親を思い出したのだと、言い淀みながらジェイが話す。まだ混乱しているように見えた。

「無理するな、もうちょっと休んでろ」

 課長の言葉にまた横になった。様子が気になったが、今度こそ寝入ったようだった。


 ジェイが眠っているうちに話をしたいと課長に言われ、哲平も華も座った。哲平はインドへの転勤が決まっているからとすでに証言が終わっている。課長はジェイの裁判の争点が『合意か合意ではなかったのか』という点なのだと話した。

「無理でしょう。悲鳴を聞いたから中に入ったこと、入った時に刃物を突き付けていたことを話しています。相田ともみ合いになった時に、相田は『自分の名前を彫り終わるまで邪魔するな!』って怒鳴ったんだ」

 哲平の中にあの生の声が聞こえてくる。それだけで怒りに震えていくのが華にも伝わってきた。

「名前を?」

 課長の顔が険しくなった。

「ええ。それで俺、ぶん殴ったんですよ。ずっとその間もジェイの『たすけて』って声が続いてました。合意はあり得ないって、俺は聞かれたときにそう言いました」

 その後、思い切ったように哲平が写真のことを打ち明けた。

「課長。俺、証拠の写真ですが1枚消去しました。悪いと思ってません」

「消去?」

「あいつ、ジェイの……下半身、両膝立たせたヤツを撮ってたんです。凄かったです、刻んだ痕が生々しくて…… でも裁判でそんなもの見せられたらあいつ……そう思って、それだけ消しました」

「ありがとう、哲平。聞かなかったことにするよ。そんなもの消滅していい」

「俺もそう思う。吐き気がする、あんなもん」

 華は吐き捨てるように言った。自分の盗撮されたのは遠目からで、普通によくあることだろう。それで自慰をしていたという柿本の話に鳥肌も立ったし吐き気もした。

 けれどジェイのあの写真は『相田』という怪物が舌なめずりして撮ったものだ。立てられた足を閉じる意思すら奪われた状態で撮影された写真。おぞましさを通り越して殺意が湧く。

「華、お前見たのか?」

「ええ。あれだけであいつを殺せる。課長、あいつの仕事の頑張り、半端じゃないです。ホントに出来るヤツだと思ってます。でも」

 華はある一つの可能性を考えていた。組織ならよくあること。

「もし会社で上の方に分からず屋がいたら職場にジェイの居場所、なくなったりしないですか?」

「それなら心配要らない。大滝部長が面倒見てくれている」

「良かった! それが心配だったんです。あいつがいなくなったらホントに俺、困るから」

 課長の引き締まっていた鬼のような顔が華の言葉でちょっと緩んだ。その顔がやつれているようにも見える。

(ああいう叫びを何度も聞いてるんだよな……さっきの一度でもこんなに苦しいのに)

 どれだけジェイが課長に大事にされているのかがよく分かる。

(課長のすごいところは、だからといって公私混同しないところだ。私生活でどうしてるのかは知らないけど会社じゃちゃんとそこをわきまえてる。俺はまだそうはなれないよ)

 いつになったら課長に追いつけるのだろう。まだ手を伸ばしていい場所にも到達していないような気がする。

「哲平、いる間は頼むな」

「任せてください、長男ですからね」

「あんまり頼りになんないけどね」

「なんだと?」

「帰りにケンカするなよ」

 くすっと笑った課長にそんなことを言われながら外に出た。


「良かった、ひとまず落ち着いて」

「うん……」

「どうした?」

『ママ! 死んじゃいやだ、そばにいる! そばに置いて! おじいさま!』

 聞いてはいた、母の葬式にさえ参列できなかったと。けれどさっきの叫びは小さい時のことだ。その時でさえ死にかけた母を目の前にして『そばにいたい』と泣き叫んでいたのだろう。それでも幼いジェイが母のそばにいることを祖父は許さなかったのか。

「哲平さん……あいつさ、お母さんの葬式にさえ出してもらえなかったんだ」

 哲平の足がぴたりと止まった。

「どういう意味だ? 親の葬式だろ? 出ずに済むわけ無いじゃないか」

「あいつの祖父さんがさ、お母さんを殺したのはお前だってジェイに言ったんだよ」

「なんだって?」

「さっきの言葉はどう考えたって小さい時のことなんだと思う。あいつ……どれだけ長いこといろんな思いを抱えてきたんだろうね……」

「あれだけお母さん思いなのに殺したって? 腐ってんのか? その祖父さんの頭」

「去年、初めてあいつはお母さんの墓参りしたんだって聞いた。哲平さん……俺さ、自分の親ほどいい加減な家族はいないってずっと思ってきた。けどね、あいつはさ……」

 涙が落ちる。哲平の手が肩に載った。

「おい、泣く権利があるのはジェイだけだぞ。俺たちは泣くんじゃない、支えるんだ。あいつを笑わせて、あいつに笑顔を見せ続ける。少なくとも俺は自分にできる最上のことはそれだと思っている。お前も自分の在り方を見つけろ。でも泣くな。あいつにそんな顔を見せないでやってくれ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る