第二十七話 理不尽な優しいお兄さま -3

 笑い終わってジェロームが頬を両手で抑え込んでいる。

「どうした?」

「笑い過ぎてほっぺたが痛い。お腹も痛い」

 そう言えばこんな笑い方をするジェロームを初めて見た。落ち着かせるために華も哲平も大人しくした……と言いたいところだが、哲平は今度は朝食の支度を始めた。コンビニで買ったお握りと冷蔵庫に入っていた残り物。

 温めるといい匂いが広がって華も釣られて手を出した。

「美味い! 総菜屋? 帰りに買っていこうかな」

「あのっ! 今日は日曜だからお店閉まってて……」

「残念! いいや、千枝も料理上手いから」

「ジェローム、落ち着かないんなら薬飲んどけよ」

「はい」


 少しするとチャイムの音。哲平がすぐに立った。

「どなたさまでしょうか?」

「俺様だ」

 哲平はドアを開けて、かなり機嫌が悪そうに見える課長に抱きついた。

「課長っ! 会いたかったです!」

「俺は来週で良かった」

「またぁ。どうしたんすか? もう飲み物は買ってきましたけど」

「バカか、お前は。手ぶらでジェロームのところに来るんじゃない。こいつがお子様なのは知ってるだろ」

「で、どうしたんですか? 寂しくなっちゃいました?」

「俺、帰るわ」

「待って、待って! あの、何の御用でしょうか?」

 帰りかけた課長に哲平が縋りつく。

「お前、車だろ? 俺んとこに邪魔なもんがあるから持って帰れ」

「邪魔なもん?」

「要らなきゃ実家にでも持っていけ。親父さん、飲んべだったよな」

「え、酒っすか!」

「ああ。もらったんだ。帰りに寄っていけ。玄関に用意しとく」

 課長が出て行く後姿をジェロームが目で追っていた。


「で、これからどーすんの? なんかスケジュール、ある?」

「花見!」

「花見……桜、見に行くの? どこに? 上野?」

「井の頭」

「だって混んでるでしょ」

「なんか、今派手なイベント近くでやってるらしくてさ、多分大丈夫だよ」

「哲平さんの大丈夫って怖いなぁ」

 笑いながらも大丈夫なんだろうと思う。どういうわけか、哲平の『大丈夫』には不思議な力が宿っているのだ。

「花見? 桜?」

 ジェロームの顔を見ると不思議そうな表情だ。

「行ったこと、あるか?」

 桜なら大学や外で見たことはあると言う。食いついて来ない様子に無理に誘うのもどうかと思ったが、杞憂だった。

「いく……行く! 行きたい! 連れてって!」

「言っとくけど、ただ桜見るだけだからな。他に何かするわけじゃないんだぞ。いいか?」

 ジェロームはもう目が輝いていた。支度を始めたジェロームに忠告する。

「おい、あったかくしとけよ。川があるから寒いぞ」

「分かった!」

「そうだ、念のために薬を持って行け」

「うん」

 何かを手に取るのをチラッと見てハッとした。

(それ、お母さんの写真か? お母さんにも桜を見せてあげるのか?)

 なんとなく気持ちが温かくなる。

(家でも花見なんてしてないな……桜が咲いてるうちに家族みんなで行ってみようか。茅平の家族もだ)

 ジェロームを見ていると素直にそんな気になってくる。


 車に乗るとジェロームが騒ぎ出した。

(そうだった! こいつとのお出かけは)

「あ、哲平さん! 気をつけて、こいつガキみたいにすっごく騒ぐから」

「騒ぐったって」

「甘く見ない方がいいよ。子ども連れて歩いてる方がマシなくらいだから」

 言われている本人はそんな言葉に気づかないほど外を見るのに夢中になっている。

「ねぇねぇ! あれって教会!?」

「あ! あそこの家、屋根が黄色い!」

「あれは!? でっかい車の上に車がいくつも乗ってる!」

 一つ一つにちゃんと答えながら心の中では呟いていた。

(マリエ連れてくりゃ良かった)

 哲平が呆れたように言う。

「マジかよー、華、ずっとこんなか?」

「そ、ずっと」

 呆れた顔をしつつも哲平は笑っていた。

「俺たちさ、3人兄弟みたいだな」

 窓の外に釘付けだったジェロームがぱっと振り返った。

「哲平さん、華さん」

「今度は何だ?」

「お願いが………」

「どうした、最後まで言えよ」

 言い淀むジェロームに先を促した。さっきとは違って真剣な顔だ。

「お願いがあります。俺を……ジェイって……ジェイって呼んでもらえますか?」

 お願いの内容に驚いた。それは互いの関係がさらに深まるということだ。

「俺……兄弟、欲しいです。課長が言ってくれた、ここを家族だと思わないか? って。そんなの無理だってあの時は思ってたし、本当に無理だった。でもいろんなことがあって……」

「今さら兄弟増えても俺は一つも困んないぞ」

 こういう時の哲平の対応はいつも完璧だ。陽気で迷いの無い声。

「俺さ、5人兄弟なんだよ」

「5人!?」

「そ! しかもさ、双子の姉と、一つ違いの妹、二つ違いの妹。堪んないよ、どういう産み方してんだよって思わないか?」

「対照的だよなぁ。俺、一人っ子だったし、ここ来た時の哲平さん、うざかったぁ!」

「なんかさ、男兄弟って憧れてたんだよ。お前みたいにひねてるやつでも、ま、いっかって思ってさ」

 そのひねてるままの華を真正面から受け止めてくれるのは真理恵と哲平だけだ。

「『ま、いっか』で腐れ縁?」

「こら! 長男に楯突くな! そうか、ジェイ、そう呼んでいいんだな? かっこいいじゃないか、すっきりしてさ」

 哲平はすっかり気に入ったようだ。

「そうだよ、ジェイ。うん、すごくいい! いいのか? 会社とかでそう呼んでも」

「うん。前はすごく嫌だった。決めた人にしか呼んでほしくなくて。でも……変だな、どうしちゃったんだろ。なんか、みんなにそう呼んでもらいたくなっちゃって」


 自分のことを思い出した。今は懐かしいような気がしている。

「俺、ここで初っ端に課長に『華!』って呼ばれた時イラっときて返事しなかった。そしたら課長がそばに来て耳捩じり上げてさ。しかも本気でだぞ。『耳、あるだろ!』って。俺怒鳴ったんだよ、『華って呼ばれたくない!』って。そしたら『自分の名前だろ! 自分が蔑んでどうするんだ!』ってさ。嫌いだったなぁ、課長が。容赦なくて何やっても敵わない感じで。それがいつの間にか何かあれば『課長ならどうするかな』なんて考えるようになっちゃって」

 哲平は恐ろしき入社体験談を話して聞かせた。

「受付の人が気になったから間違った会社に入社したってこと?」

「安直に言うなよ。縁ってそういうもんさ。そうやってここまで来てお前たちに巡り会った。これも縁だ。いいもんだ、そういうので俺って人間が精神的に太っていくんだ。幾らでも太ってやる! って思ってるよ」


 鬼課長の恐ろしさと、カラオケでのギャップ。繰り返されてきた音痴対決。

一つ一つの話にジェロームの目が輝いている。

(お前、今いい顔してるぞ。またジェローム効果か? 俺まで嬉しい気分だ)

 何度か呟いてみる。

(ジェイ、ジェイ…… いいな、こういうの。でも『華くん』って呼ぶのは真理恵だけでいいからな)

 さすがにそうは呼ばれたくない。

「初めて哲平さんに連れ回されて良かったって思ってるよ」

「いつも奢ってるだろ!」

「最後に『金、足んねぇから貸せよ』って言う時だってあるじゃん!」

 男3人で花見か? そう思っていたが、こんなに意味のある花見になるとは思ってもいなかった。ちょっと自虐的なことも浮かんで来た。それは浮かれているからだ。

(華より団子、って言うよな。俺たち、団子3兄弟か?)


 ジェイは華と一緒にインドに行きたいと言い出した。

「止めろよ! 俺は行きたくなんかないからな!」

 すると今度は三途川と3人で登山をする話も進んでいると言う。

「三途さん、喜んでた。最高の嫌がらせが出来るって」

 まるで楽しいことを知らせているような口振りに冗談じゃないと慌てる。ジェイのことだ、すっかり本気でそう思っているだろう。

「勘弁しろよー。いつの間にお前、変なお膳立てしてんだよ」

ほとんど山なんかに行っていない華には、山は虫の宝庫くらいにしか見えない。三途川のことだ、華の弱みを掴んだときっと喜ぶことだろう。

(確かに最高の嫌がらせだよっ!)

 その合間を縫うように哲平の穏やかな声が入って来た。

「ジェイ……もういいんだよな、そう呼んで。お前のこと、気がかりだったよ。インドに行く前に何とかしてやりたくて。けど時間無いし。でも時間とか距離とか、そんなこと問題じゃない。俺は今、そう思ってる。どこでだっていつだって、俺はお前の兄ちゃんだ。お前もそう思っとけ」

「哲平さん……」

(哲平さん……今の言葉はジェイにはいい置き土産になるよ)


「花見、初めてか」

「うん!」

 マザー牧場の時のように、ジェイの体も目もじっとしていない。哲平が驚いているのが可笑しくて堪らない。小声で耳打ちしてくる。

「ずい分違うな!」

「最近はこうだよ。っていうより、多分これが本当のジェイなんだ」

 そうだ。突然マザー牧場で見た時には自分も驚いたが、本来ジェイはこうなのだろうと思う。素直で少年のようなジェイを覆っていた硬い鎧。その中にはこんな無垢な心が隠れていたのだと思う。

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