第二十三話 覚悟 -3

 課長と交互に病院に行った。最初の日はジェロームが寝ていたのだから会ったとはいえない。課長が2度。華は3度。そして退院は課長が迎えに行く。

 2度の見舞い……

(見舞いって言葉は俺は嫌いだ。いかにも一時的って感じだ)

そう思うから華は単に[会いに行く]という言葉を使う。課長も同じなのだろう、見舞いという言葉を一度も聞かなかった。

 その2度目で華はへし折れた。


 病室に入った時からジェロームの様子はおかしかった。ベッドから立ち上がって、上半身裸だ。そのまま下も脱ごうとしている。

「なに、してるんだ!」

「華さん! 良かった、帰る。車だよね? 乗せてって」

「帰るって……退院だなんて聞いてないぞ」

「これ着てるのイヤなんだ。それに変なこと聞かれたりするし。華さんと帰る!」

「待て、帰っていいのかどうかちょっと聞いてくるから」

 華は焦った。だから病室に入って来たままの姿で出ようとした。

「華さん! やだ!!」

 背中にジェロームが飛びついてくる。そのまま背中で泣き始める。

「ジェローム、どうしたっていうんだよ、大丈夫だ、聞くだけだから」

「嘘だ! 帰る気だ、そのまんま! 華さん帰ったら俺、歩いて帰んなくちゃならないよ……意地悪しないで車に乗せてってよ……」

「意地悪なんかしないって! ちょっと離れろ、これじゃコートも脱げない」

「そんなに……俺といたくないの? 嫌いになった? 迎えに来ない……誰も来てくれない……」

(どうすれば分かってくれるんだよ……)

 華はバッグを病室の奥の方へ放った。後ろからドアの方を向いて抱きつかれているから出来ることが少ない。

(そうだ!)

ポケットを探る。硬いものに指が当たる。

「ジェローム、今バッグを奥に投げたの、見たろ?」

 振り向くのが分かる。

「うん」

「ほら、これ分かるか?」

「……車のキー?」

「そうだ。これ、お前に預けるよ。帰りには返してくれるだろう? 俺はお前を信じてるからさ、お前も俺を信じろ」

 ようやく体が離れた。手の平にキーを落としてその上からぎゅっと握る。

「な? 俺のキーはお前の手の中だ。これなら安心だろ? 俺が戻ってくるまで預かっててくれ。頼むな」

「うん」

「よし! 寒くないか? 取り敢えず俺のコートをを羽織ってろよ、すぐ戻るから」

 大人しく羽織ろうとして、あ! と笑顔が上がった。

「これね! れ……課長にも見せたんだよ。今日包帯が取れたんだ、見て!」

 病衣を置いて肌を見せてくる。

(ジェローム……)

「ね! きれいでしょ? 薄くなってきちゃって見えなくなっちゃうといやだなぁ。華さんにも見てほしかったんだ!」

 哲平の写真で見た時よりもう全体的にぼやけ始めていて、確かに薄くはなっている。それでも元を見ているだけに鮮やかに見えてしまう。

 下を脱ごうとする手を慌てて止めた。

「おい! 俺にそこ見せる気か?」

「でも、すごくきれいだよ? 一番きれいなんだ」

(……それだけ念入りに切られたってことだろ……)

 無理に笑い声を立てた。

「お前さぁ、俺が今ここで下着脱いでアソコ見せたら嬉しいか?」

 手が止まった。

「……それ、いやだ」

「同じことしようとしてるぞ。見てくれって言うんなら見るけどさ、一緒にソレ見ることになる。それでいいなら脱げよ、じっくり見てやるから」

 意味が分かったらしく、今度はジェロームが慌てて病衣のズボンを上げた。

「なんだよ、今さら見せない気か?」

「……華さんのエッチ」

「はぁ? 俺、一言も見たいって言ってないし」

 そこでやっとジェロームの[見て見て]が終わった。

「じゃ待ってろな」

 行きかけて冷蔵庫に戻った。どうせなら外に出るのを一度で済ませたい。その分、不安にさせずにそばにいてやりたい。

「結構入ってるな! 昨日課長が買ってくれたのか?」

「うん!」

「他に何か欲しいか? ついでだから買ってきてやる」

「華さんは? 何か食べる?」

「そうだなぁ……、お前の夕食の時に一緒に何か食べようかな。弁当見てくるよ」

「一緒に食べるの!?」

 嬉しそうな声ににこっと笑った。

「一緒に食べよう」

「じゃ、帰るのやめる!」

「……そ、か……じゃ、ベッドに入ってろよ。俺のキー、失くすなよ」

「分かった!」


 廊下に出てホッとした。けれどいつまた同じ行動に出るか分からない。ナースステーションを覗いてみた。

(この前の看護師さん、いないなぁ)

どうせならジェロームを分かっている人に言いたい。諦めようとした時に横の方から声をかけられた。

「どうしました? この前いらしてた方ですよね?」

「はい!」

(良かった!)

「お伝えしておきたいことがあって。さっき来たばかりなんですが、病室に入った時に帰る支度をしようとしてたんです。許可はなさってないですよね?」

「もちろんです! 今帰るなんてとんでもないです、先生もそんなこと言ってません」

「忙しいのにすみません、時々用が無くても覗いてもらえませんか? ここに来れない間が心配で……」

 看護師がゆっくり頷いた。

「分かりました。気をつけておきますね。私がいない時でも、ステーション全体で気をつけるように申し伝えます。早く……良くなるといいんですけど」

「お手数をおかけします」

 華は深々と頭を下げた。

「いえ! 私たちが気をつけなくちゃいけないことですから。とても素直で……時々泣くんですよ、誰も来ないよって。大丈夫って言うんですが、きっと忘れられてるって泣くんです、毛布を被って」

 その様子が見えるようだ……

「そんなにかからずに退院ですよね。それまでアイツをよろしくお願いします」

「はい。……連絡先なんですが、河野さん、上司の方でしたっけ? その方のだけ伺っているんです。良かったら念のため教えていただけますか?」

「はい」

 手帳に名前と番号を書いて破いた。それを渡しながらもう一度頭を下げた。


 お握りとお茶を手に取った。煮物をちらっと見たが、売っている煮物はやたら甘い。サラダの大きいパックを取ってレジに行こうとしてまた戻った。

(病気じゃないから食事制限、出てないもんな)

ジェロームにと黄色いたくあんを取って、片隅に見えたアイスクリームのコーナーに近寄る。

(甘いもん、買い過ぎかな)

けれど、どうせなら喜ばせてやりたい。

(入院してる間だけ)

病室に冷凍庫は無い。だから1つだ。どれが喜ぶだろうと考える。

(乳製品が好きなんだよな)

シンプルなバニラアイスにした。


 病室に入るとジェロームがいない。

(トイレ?)

アイスが溶けるのが心配だから取り敢えず冷蔵庫に入れた。しばらく待ったが戻ってこない。

(検査……か)

聞いてみようと思って廊下に出た。エレベーターの方から騒ぎが聞こえる。

(今の、ジェロームの声……)

急いで行くとさっきの看護師が「いやだ!」と言うジェロームを宥めているところだった。

「どうしたんですか!?」

「ほら、戻ってきたでしょう? あなたを探しに行くってエレベーターに乗ろうとしてたんです」

「おい、待ってろって言ったろ?」

「だって帰ってこなかった!」

「ジェローム!」

 花の声にびくりと震える。そのまま続けた。

「俺は一緒にいるって言っただろ! お前に荷物もキーも預けた。そうだよな?」

 あ という顔になるのを見て、口調を柔らかくした。

「なんだ、忘れちゃったのか」

 つい、髪をくしゃりとしてやる。もう癖みたいなものだ。

「ごめんなさい……ごめんなさい、言われたこと、忘れた……ごめんなさい、だから帰らないで……」

 泣き出す体を抱きしめて背中を撫でる。

「ばか、帰らないよ。怒ってごめんな、忘れちゃったならしょうがないよ。アイス買ってきたんだ。食べるか?」

「うん、食べる!」

「じゃ、戻ろう。ほら、看護師さんに謝って。お前のことを心配してくれてるんだぞ。言うことを聞かなきゃだめだ」

「はい。ごめんなさい。ベッドに行きます」

「良かった! 今度からお部屋から出たら、誰でもいいから最初に看護師さんにどこに行くか言ってね。いなかったらとても心配だから」

「はい……ごめんなさい」

 華に看護師が顔を向けた。

「助かりました。じゃ、お願いしますね。何かあったらいつでも声かけてください」

「はい。お騒がせしました」


 看護師が立ち去るとジェロームがワイシャツの背中を掴んだ。

「そんなことしなくたって逃げないよ」

 笑って言うと急いで手を離す。

「ごめんなさい、うっかり……」

「ジェローム、もう謝らなくていいんだ。さっきは大きな声出しちゃって本当にごめん! だから謝るな、お前はなにも悪くないよ」

 切なかった、その怯えて謝る顔が。なるべく楽しい話をと探したけれど咄嗟に浮かんでこない……

「……昼、なに食べたんだ?」

「えと、ご飯と味噌汁と、コロッケがあってそこに少し野菜があって……」

 途中から聞いていない。喋りながら自然に手を握られたのが悲しかったから。

(本当に不安なんだな……)

「おい、トイレ行かないか? 今のうちに一緒に行こう」

「トイレ?」

「途中で俺がトイレに行ったら心配になるだろう? お前が一緒の時に行くよ」

「そうする!」


 病室に戻ってベッドに入ってからアイスを出してきた。

「ちょっと溶けちゃったかも。食べる?」

「食べる」

 ふたを開けて渡す。ついなんでもやってしまう。

(子ども相手じゃないのに)

「まだ溶けてないよ」

「そうか、良かった」

 午前中のことを思い出した。

「今日な、野瀬さんが池沢チーフに怒られちゃってさ」

「え、なんで?」

「澤田さんと喋りながら歩いて三途さんにぶつかったんだよ。それだけなら怒らなかったんだけど、タイミング悪くてさ、野瀬さん、引っ繰り返りそうになったんだ。それで三途さんに思わずしがみついちゃったの」

「えええ! それ、だめだよ!」

「その後余計なこと言ってさ、『良かった三途さんがいて。相変わらず逞しいな』って」

「三途さんのこと、逞しいって言ったの!?」

「そ! その後、チーフが『女性に失礼だ! さっさと手を離してください!』って怒鳴ったんだ。あの人声デカいからみんなが注目しちゃって、誰かがセクハラだって騒ぎだしちゃってさ。面白かった!」

「掴んだままだったの?」

「そうなんだよー。三途さん、チーフが怒鳴ったもんだから怒り損ねちゃってさ、そっちで機嫌悪くって今度はチーフが三途さんに謝ってんの。その後のチームミーティングは時間短かった」

 しばらく笑っていたけれど、その笑う顔にツーっと涙が流れた。

「どうした!」

「なにが?」

「お前、泣いてる」

 自分で頬を触って濡れた指先を見た。

「ほんとだ……みんなの笑う顔思い出しただけなのに」

 そばにあるタオルで頬と指先を拭いてやる。

「お前を待ってるからな、出社したらうんとこき使ってやる。だから今の内に休んでおけよ。あれもこれもってお前がうんざりするくらい面倒な仕事残しといてやる」

「ホントにさせられそう……」

「ビシビシいくからな、今は寝とけ」

 言葉通り取ったらしい。我慢した顔で頷くと目を閉じた。手が毛布の上に載って、両手の間に華のキーがある。

(こら。帰るまでには返せよな)

 完全に寝入るまで座っていた。寝息が穏やかになってからお茶を取ってくる。

 目を閉じると傷を見せる無邪気な顔が浮かんだ。その分、相田が憎い。

(軽傷? ふざけるなよ……これで微罪になったらただじゃおかないからな!)

 柿本でさえ、ここまで憎まなかったと思う。ハッとした。

(今はこれで済んでる……でもこいつがまともに戻ったらどうなるんだ? きっとこんなもんじゃ済まない……)

 元に戻ってほしいのか、このままの方がいいのか。それが分からなくなってしまう。どれだけ自分があのことを忘れたかったか…… それを思うと。

(どっちにしろ……苦しむってことなのか)


 一緒に夕食を食べた。たくあんをすごく喜んでパリパリと噛む。テレビを眺めて笑った。ゲームの話で盛り上がった。いる間に少しずつ会話が元のジェロームに近づいていく。多分、日常に帰れば回復していくのだろうと思う。それが怖かった。


[ご面会の方は……]

 面会時間終了のアナウンスが流れる。ジェロームの体が一瞬で強張った。花も何を言っていいか分からない。何度か帰るということは会話の中に織り込んでいて、別に過剰反応もしなかったことに安心していた。けれど今の反応は……

「華さん、これ」

 ジェロームがキーをそっと差し出してきた。

「すぐに返さないでごめんなさい」

「電車で……帰ってもいいんだ、それ持ってると安心するって言うんなら」

「はい」

 手を引っ込めないから受け取った。立ち上がって髪をくしゃりとする。

 上着とコートとバッグを掴んだ。帰る格好は待合室ですればいい。帰る用意を見せつけたくない。

「トイレ」

「行きたいのか? 一緒に行くか?」

「華さん、今トイレ行くんだよね?」

「あの、ジェローム……」

「今度のトイレ、長いんだよね? そうでしょ? 朝になっちゃうかもしれないけど、また夜になっちゃうかもしれないけど、華さん、長いトイレから戻ってくるんだよね? 俺、待ってる。トイレ終わったら来てね」

(諦めて……課長が言ってた、我慢と諦めで生きてきたって……)

それでも帰るしかない。

「ジェローム。ごめん、俺、今下痢で便秘なんだ。だからトイレ長いと思う。でも戻ってきて『臭いっ!』って言うなよな。マスクしてもいいから」

 辛そうな顔にふっと笑いが走る。

「お前はいいヤツだよ。俺にとって大事な大事な相棒なんだ。これからも頼むな」

 出口で振り返った。

「……行ってらっしゃい」

「うん。行って来ます!」

(『おやすみ』も『また来るよ』も言わずに済んだのはジェロームのお蔭だ……)

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