第二十三話 覚悟 -2
会社には6時には着いていた。エレベーターを待っている時に課長が来た。
「課長! 俺も今日は6時出勤にしました。午後早退します」
「お前……病院に行く気か?」
「昨日急ぐものは片づけたし、野瀬さんたちとも打ち合わせました。何せ優秀な補佐がいないんできついです」
真理恵の後押しがあるから笑うことが出来た。
「……上で話そう」
オフィスで座った課長の表情が硬い。不安が襲う。
「ジェロームは重症だ」
「そんなに傷を負ってるんですか!?」
「いや、精神的にということだ。体は……軽傷だ、あれをそう呼ぶのなら」
「どういう意味……」
「体の一面にカッターで模様が描かれていた。あいつは……裸だった。至るところに薄い傷跡が走っている。医者は一週間もすれば気にならなくなる程度まで治ると言った。処置はただ傷薬を塗るだけだ、転んだ後のように」
華にはまだ想像がつかない。ピンと来ない。
「あいつはその傷を知らない。相田にしこたまウィスキーを飲まされていたからな。暴行はされていなかった。哲平の踏み込んだのが早かったんだ。防犯ビデオで見た通り打撲はひどい。まだ座るのは無理だろうが、一週間ほどで退院する。その頃にはだいぶ動けるようになっているはずだ」
「また……軽傷扱いってことですか?」
「そうだ」
それだけでも怒りが湧くのに課長はさらに厳しい現状を語った。
「多分……合意の部分があったのではないかと警察に疑われている」
そうだ……合意。
『精液が検出されたんです』
『感じた証拠になります』
「覚悟してほしい。あいつは錯乱している。終わったことと現実との区別がついてない。もし部屋を出る時には荷物を全部置いていけ。俺は上着も脱いだよ、そばにいると信じてくれないから」
仕事はいつにも増して真剣に取り組んだ。病院に行くことを知った池沢がフォローを引き受けてくれた。出る時にはもう一度課長に呼ばれた。
「華……あいつは子ども返りしているところもある。何も言わず受け入れてやってくれ」
覚悟はしていたが、自分の時と桁が違う。けれど考え込むのをやめた。
(今日は会うことが目的だ。一人にしないってことが)
病室に向かう廊下でジェイの叫び声が聞こえた。華は走った。けたたましい音を立ててドアを開ける。必死に抵抗するジェイが突き付けられているのは写真だった。
「これは君だろう?」
「確認だけだ、答えてくれ!」
その写真が見えた……素裸に血の模様が描かれている写真……ゾッとした、下半身の赤い模様……
「違う! 俺じゃない、俺じゃない、俺じゃない……俺じゃ……」
刑事と一緒に看護婦に外に出される。掴みかかる前に刑事は帰って行った。
(ちくしょう……警察ってなんだよ……法律って……人の味方じゃないじゃないか)
看護婦に頭を下げた。医師にも頼んだ。何が何でも会いたい。
「彼の神経は限界です」
「俺は親友です。あいつがどうなろうとも付き合いをやめる気は無いんです」
病室でジェロームの目覚めを待った。座ることなんか出来なかった。身じろぎが見えて傍に立つ。
「ジェローム、華だよ、ジェローム」
「花さん! わ、来てくれたの!? 昨日華さんが来るって聞いてた、ホントに来てくれたんだ!」
さっきまで錯乱していたジェイじゃない。
部屋の隅にある椅子を持ってこようと振り向いた途端、ジェロームの様子が一変した。
「どこ行くの!? 華さん、どこ行くの!? いやだ、どこにも行っちゃいやだ!!」
「ジェローム、あの椅子を取ってくるだけだよ」
「また俺を置いてくの? もう帰ってこない? 誰も来てくれなかった、誰も助けてくれなかった!」
喉元を押さえつけられたような気がした。
「ジェローム、俺は……」
「そばにいるって言ったのに……みんな嘘つきだっ!!」
悲しみと苦しみの叫びが突き刺さる。
「……お前は俺の相棒だ。だからお前を離さない。ここに荷物を置く、上着も脱ぐ。椅子を持ってくる間だけ待ってくれよ」
「帰って……来る……」
「そうだ、当たり前だろ?」
涙を堪えて笑顔を見せた。
落ち着いたジェロームとテトリスや苺狩りに行こうかなんて軽い話をする。ジェロームが声を上げて笑う。だから……辛い。
ふと目つきが変わった。
「さっきの写真、俺じゃなかったよね?」
「ごめん、俺よく見えなかったんだ。お前が違うって言うんなら違うんじゃないか?」
「そうだよね、あの写真の人、何も着てなかったよ。あんなカッコで写真撮られるなんて可哀そうだ」
胸が抉られる。いつかそれが自分だと知る時が来る。
「俺、ジョーグル飲みたい!」
「冷蔵庫か?」
「うん!」
(課長……ここには子どもがいるだけだ……子どもが……)
ジョーグルが無い。買いに行くと言うと縋りつくような目を向けられた。
「ネクタイ外して」
「ネクタイ?」
「うん。華さんお洒落だからネクタイ外したら外に行かないよね」
笑ってネクタイを外しジェロームに渡した。
「これでいいか?」
「ゼリーが欲しい!」
「適当にいろいろ買ってきてやるよ。お前デザート好きだもんな」
(壊れてるじゃないか……こいつ、壊れてるじゃないか!!!!)
それでも狂ったなんて思いたくない。そんなことにはさせない。
買ってきたジョーグルを飲むと安心した顔になった。
「俺、少し眠い……」
「いいよ、眠っても」
「目、覚めたらもういない?」
ジェイの手を掴んだ。
「ほら、いるよ、こうやって。俺たちは親友だからな、目を覚ましてもここにちゃんといる。だから眠っても平気だよ」
頷いたジェイはぎゅっと手を握ってすんなり眠った。
起きて落ち着いているジェロームにホッとした。それも時間と共に不安に変わっていく。
(言えない、帰るなんて)
けれど面会時間終了のアナウンスが流れる。
「来るから。絶対にお前に会いに来るから。またお喋りいっぱいしような」
「帰っちゃいやだ! ここにいて!」
泣き続けるジェイを抱きしめて、何度も『また来るから』を繰り返す。
「本当に? いつ? 俺を迎えに来る? 俺を助けてくれる?」
(連れて帰りたい……)
そうすれば、真理恵の料理を食べさせれば、パフェを食べさせれば、会社に連れて行けばきっとジェロームは元気になる。
『華さん、ここ抜けてますよー』
『これ、さっきのメールから転記しておきました』
あの声が戻るはずだ。そのジェロームを胸に抱いて、華は自分が泣いていた。
身を切られるような思いで部屋を出た。エレベーターの前で立ち止まって病室を振り返る。
「華さん!! いやだ!!!!」
その言葉が華を掴んで、いつまでも聞こえ続けた。
車に乗るのがやっとだった。携帯を取る。
「課長……今病院を出たところです……」
『辛い思いを……しただろう』
「俺はいいです。俺は…… 退院してからどうするつもりですか?」
『俺が引き取るよ』
「治る見込みなんか……」
『諦めない、お前が教えてくれたことだ。仕事も少しずつさせるよ。社会復帰させるんだ、古巣の中で』
「上手くいくと……課長! 上手く行きっこないよ! あいつ、まるで子どもだ。どうしていいか分からない……」
初めて味わった敗北感……自分ならどうにか出来ると思っていた……
『それでも俺たちは進むんだろう? 俺は進むよ、華。もう立ち止まらない。あいつの人生を終わらせる気は無いんだ。あいつに生きてて良かったと思わせたい。それくらい味わったって罰は当たらないだろう? そう思わないか?』
「俺……苺狩りに行こうって……一緒に行こうって約束しました……連れてってやりたい、腹いっぱい食わせてやりたい」
「じゃ、みんなで行こう。ジェロームを連れて行こう」
電話を切ってからもハンドルにつっぷしていた。大人になって、こんなに泣いたことはない。着信音が鳴る携帯の名前を見て、出るなり叫んでいた。
「哲平さんっ!」
『ああ、びっくりした! なんだよ、いきなり叫んで。昨日家に戻ってたんだ。けどバタバタしちゃってさ、連絡が遅れた。課長には連絡したんだけど聞いてなかったか?』
哲平の声が嬉しかった。苦しくて声が出ない。
『どうした、華?』
「今……ジェロームの病院の駐車場です」
『そうか……ってことは横浜だろ? 会わないか?』
「哲平さん、勉強は?」
『俺がそんなにトンマに見えんのか?』
泣きながら笑った。
「だって、哲平さんだもん」
『なんだ、それ。じゃ、待ち合わせよう。お前車だから酒は無しな』
唐突に甘えたいと思った。入社したころのように哲平に構ってほしかった。
待ち合せたカフェでジェロームの状況を話した。哲平が沈痛な顔をする。
「……見てらんないです、あいつ、子どもになっちゃって……帰らないでって泣くんです」
「そうか……」
「哲平さん、あそこに踏み込んだでしょ? どんなだったんですか?」
「お前、聞きたいのか?」
「写真見ました、あいつの体の。模様が……性器んとこまで……」
哲平がポケットから出した携帯を置いた。
「俺、それ引っ掴んできちまったんだ、ヤバいかもしれないけど。写真、見てみろ」
「これ……」
「相田のだ」
息を呑んでそこに映る生々しいジェロームの姿を見た。いろんな角度から撮ってある……苦しむジェロームと笑う相田。これは自撮りだ。写真を開くたびにジェロームの体に赤い線が増えていく。
最後の一枚。正面から撮られた線だらけで立たされた開いた膝。そこには……
(うっ……)
飲んだコーヒーが逆流しそうだ。
「哲平……さん……これ、どうする気? 警察は合意じゃないかって疑っている。でもこれがあれば」
「合意だ? 笑わせる、俺が入ったときあの野郎は笑ったよ。綺麗だろう? ってさ。芸術なんだってほざいてた。その時に後先考えずに掴んじまったんだ」
「でも哲平さん、マズいことになる……」
「そうだな」
「どうすんだよっ! こんなこと、ただで済むわけ無いだろっ!!」
「息巻くな、華。警察に届けるよ。そしたらジェロームが少しでも助かるんだろ? なら迷うことなんかない」
「哲平さん……クビになる……」
「おい! 物騒なこと言うな。そんなヘマ、誰がするか」
いつだって哲平の笑顔は不可能を可能にするような気にさせてくれる。
「あいつ、まるでうわ言みたいにずっと呟いてたよ、誰か助けてって。俺があいつぶん殴ってた間も警察が入ってきた時もずっとだ。助けてくれって」
涙が止まらない華の手を哲平が掴んだ。真剣な顔だ。
「華、お前は笑ってなきゃだめだ。笑える相手をあいつに残してやりたいんだよ、俺は」
哲平の心が堪らない。
「今度は俺が哲平さんになるの?」
「お前はお前だ。俺のような上等なジョークだって言えないしな。けどきっとお前はあいつを救える。課長とお前のタッグなら出来ないことなんか無いさ」
次の日、聞かされた。
『警察の捜査不足で、現場から相田の携帯が見つかった。これでジェロームが有利になるだろう』
華はすぐに4階に行って電話をかけた。
「哲平さん、会いたいんだけど」
『なんだよ、俺、もう忙しいよ』
「じゃ、電話でもいいです」
『なんか怒ってないか?』
「哲平さん、携帯の指紋は?」
『なんだ、その話か』
「なんだじゃないです。俺も触りましたから」
『ああ、気が付かなかったか? お前に渡したときフィルムが貼ってあったの』
気が動転していた華は覚えてはいない。
「じゃ俺の指紋は?」
『剥がしたから無いよ』
「でも哲平さんの指紋は?」
『消したら相田のも消えちまう。だからそのままにした』
「それじゃ!」
『だからさ、揉み合っているうちに掴んだら飛んでったって話したんだよ。 俺の指紋べったりなのは当たり前』
だんだん腹が立ってくる、真剣に心配してるのに哲平にとってはたいしたことじゃなさそうで。
『どうした?』
「哲平さん、腹黒になった。俺、見損なった」
『無茶言うやつだな、お前も。頭脳戦だと言ってくれ』
「なんか納得いかない。清らかな哲平さんが穢れた感じ」
笑い声が聞こえて携帯を投げたくなった。
『そうか! 俺ってお前の中じゃ清らかだったんだ……苦しい! お前さ、たまにはテレビの刑事もの見ろよ。勉強になるぜ』
「そんなもん見てるヒマあったら勉強してください!」
そのまま携帯を切って息を継ぐ。その内可笑しくなってきてクスクスと笑い出した。哲平が空き家に忍び込む姿。どこに置こうかと悩む様子が浮かぶ。
「損した、心配して」
コーヒーを買って、そばの椅子に座った。久しぶりに華の心は軽くなった。
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