第二十二話 油断

「ジェローム、本格的に合気道教えるぞ。いいな?」

 相田が出てくる、大手を振って。みんなが気遣う中、みるみるジェロームは委縮していった。

 行動範囲が狭まる、誰かが常にそばにいる。本人も怯えて一人を嫌がる。華は会社だけでなく、家にも連れて行き真理恵と一緒に合気道を教えた。時には道場に連れて行く。

「君は華とは違う正しい目をしているね。でも怖がっている、自分よりも相手を傷つけることを。合気道は自分も相手も怪我から守るための武道なんだよ。君が躊躇ってもいいことはないんだ」

 遠野師範がジェロームに説く。だが華にはどこかで感じていた。

(こいつの頭には攻撃なんて言葉は無いんだ)


 仕事をしている時だけ落ち着いているように見えた。けれどそれは本物じゃない。無理やり意識を仕事に向けているのだ。

(きっとあいつは来る。絶対に来る)

 柿本もそうだった。自分の目の前に出て来なくても、実家のそばでずっと自分を狙っていたではないか。あの顔がチラつく、狂気に満ちた目が。

(あいつは無関係のマリエを殴ったんだ)

 女性相手にも手加減せずに殴りつけるような、そんな理不尽さをああいう連中は持っている。


 車を車検に出したから自宅から駅までジェロームと一緒に歩いた。久しぶりにいろんな話をする。

「俺さ、お前にうんと助けられているよ」

「俺に?」

「俺の気がつかないところをカバーしてくれる。軌道修正もしてくれる。どれだけ助かっているか分からない」

 ジェロームの口元に嬉しそうな笑みが浮かぶ。

「俺、華さんと仕事出来て嬉しいんです。ずっと一緒にやっていきたいです」

「ありがとな。俺、気難しいの自覚してんだけどお前は根気よく相手してくれるし。友だちとしても最高だよ」

   


 そして、1月26日。今日、判決が出る。

 ジェロームは痩せた。課長の話では食べないしほとんど眠れずにいると聞いた。

「朝は俺のところに引っ張り込んで食わせてる」

 課長が一生懸命なのが分かる。最初からずっと課長が面倒を見た。誤解から守り、社会人として拙いところを補い、そして事件が起きてからは自分のそばに引き取った。そこまでしても自分の部下の危険から守り切れるかどうか分からずにいる。

 朝からジェロームの中にある恐怖が目に見えるようだった。

「あ! すみません!」

 資料が舞う。メールは誤字だらけだったり。でも誰も文句を言わない。華はほとんどのメールをジェロームが手を出す前に処理した。

「俺……役に立ってなくてごめんなさい……」

「4階、行こうぜ、俺喉が渇いた!」

 他愛のない話をしようと思ったのにジェロームにはそれを聞く余裕がなかった。

「華さん……今日釈放されちゃうのかな……」

「……そうだな、多分」

「変なんだ、覚悟してたのに。これだけいろいろ一人にならないように考えてあるのに怖くて。情けなくて……」

「情けなくなんかないよ。俺さ、襲われたことあるって言ったろ? 未遂に終わったけど。あれ、17の時だったんだよ」

「え!?」

 華は自分の過去を話した。襲われたことがあると前にチラッと言ってはいたが、イかされたことは今日初めて話した。ジェロームは固唾を飲んで聞いていた。

「俺だって怖かったんだ、だから分かるよ。怖いのは当たり前だ。あれだけやられりゃ当然の反応さ。情けないって思うのもな。マリエと一緒になるまでは何度もうなされて飛び起きた。なまじ自分が男だからふがいなく感じる」

「うん……」

 今にも泣き出しそうだった。その肩に手を置いた。


 弁護士の話を聞くために部長のところに行っていたジェロームは真っ青な顔をしてオフィスに戻ってきた。皆、すぐに手を止めてそばに寄って来る。

 課長が短く言った。

「相田は釈放された。もう外に出ている」

 華は心の中で誓っていた。

(お前をあんなヤツにどうこうされて堪るか!)


 退社時間が近づいてきて、華はふと思い立った。今自分が手掛けている案件では新しいタイプのGPSを開発しているところだ。

 すぐに課長のデスクに行った。

「俺、考えたんですけど。今GPSを扱ってるじゃないですか。あれ、試してみてもいいですか?」

「……ジェロームにつけようっていうのか?」

「そうです」

 相変わらず河野課長は察しがいい。

「野瀬のところで試作したGPSの試験が必要だ。中山が実際にどの程度行動を追えるのかを来週行うことになっている。先にやってみるか」

 ジェロームを呼んで靴の底の引っ込んでいる場所に野瀬が取り付けた。不安な目で見るジェロームに、単なるテストだから試験台になってくれと冗談交じりに言った。


『行動が早いだろう』

 確かにみんながそれを聞いていた。特に華は警戒した。だが、誰も予測できなかった。まさかこの、釈放された日に相田が動くだろうということは。


 忙しさもあって、終わったのは9時半。課長とチームの全員が残っていた。

「先に下りてます」

「一緒に出よう」

 華が引き止めた。

「喉渇いて……4階で缶コーヒー買って下ります」

 会社の中だ。それにいくらなんでも釈放されたのは今日の午後だ。今から神経をとがらせていてはこれからの長期戦でジェロームは参ってしまうだろうと思った。

「分かった。すぐ行く」

「俺たちも行くから」

「はい」

 それはみんなの油断だった。ジェロームが飲み物を買って駐車場に向かっている頃に、自分たちはエレベーターを待っていた。ジェロームがオフィスを出てから時間にすればほんの数分。5分も経っていない。

「あれ? ジェロームは?」

「トイレにでも寄ったか?」

 ジェイの車はその先に止まったままだ。後ろから課長の呟きが華の耳に入った。

「ジェ……」

「え!?」

 華はジェロームの車に走り寄った。そして惨状を見て愕然とした。

「そんな……」

 車のドアはボコボコになるほど何かに打ちつけられていた。窓ガラスにひびが入っている。

「そんな……」

 また呟いて慌てて立ち上がって駐車場をぐるっと見回した。離れたところにジェロームのバッグが飛んでいる。

「ジェロームッ!!」

 その時、心を抉るような三途川の叫びを聞いた。

「ここ! これ、血の跡よっ!!」

 華の思考が固まった。だが、先に固まっていた課長は三途川の叫びにすぐに反応した。

「三途、警察っ! 華、野瀬に連絡、いなければ澤田! 千枝は待機! 池沢、俺と警備室に来いっ!」

 動けなかった華は震える手で携帯を開いた。

(野瀬さん! 野瀬さん!)

『華か? どうした』

「野瀬さんっ! やられた、ジェロームが消えた!」

『なんだって!?』

「駐車場に血が……血が流れてるんだ、お願い、来て! すぐに来て!」

『行く、待ってろっ! いいか、きっと助ける。俺たちで助けるんだ!』

「早く……」

 切れた電話にそう呟いた。

 もう一度ジェロームの血を見る。

(くそっ! くそっ! バカだ、俺は! なんで離れた!?)

 華は警備室に向かった課長の後を追った。

 課長と池沢は警備室で防犯カメラに映った画像を食い入るように見ていた。そこに華も加わった。爪が手のひらに食い込むのにも気づかない。ギリっと歯を食いしばって、息が止まった。

 自分を庇うのに必死なジェロームが逃げる。その背中に迫って、相田はおもむろにバットを振り下ろした。そこに躊躇いは全く見えなかった。それでも這って逃げようとする足にバットがまた振り下ろされる。動けなくなったジェロームの脇腹を相田は容赦なく蹴り上げた。完全にジェロームの動きが止まった。

 その足を相田が自分の車に引きずっていく……

「殺されるかも……しれない……」

 囁くような言葉が自分の声には聞こえなかった。


 オフィスに戻ってコートと上着を脱いでデスクに叩きつけた。

(分かってたのに! こんなこと分かっていたはずなのに!!)

『4階で缶コーヒー買って下ります』

 最後の声が頭の中を駆け巡る。

(なんてこたえた? おれ、ジェロームになんていった?)

『分かった。すぐ行く』

「なんで引きとめなかったんだ……すぐ行くって……俺、そう言ったのに。コートのボタンなんか留めてた時にはあいつはあんなもんで殴られてたんだ……俺がのほほんとエレベーター来るの待ってた間にあいつは血を流して車に引きずり込まれたんだ……俺は! ああいうのがどんなヤツか知ってたのにっ!!」

「華……」

 震える肩を三途川が抱きしめた。

「あんただけじゃない……私たち、みんなが油断した…」

「でも、でも三途さん! 誰が分かんなくても俺は分かってなきゃいけなかったんだ……」

 しがみついて三途川の胸で声を上げて泣いた。


 警察はすぐに来た。いろいろ状況を聞かれるのを課長がしっかり答えようとしている。華は落ち着くどころではなかった。

「マリエ……どうしよう……ジェロームが連れてかれた……俺の時みたいに車に引きずり込まれて……ジェロームが……」

『しっかりして! 華くん、今落ち着かなくちゃダメ! もう後悔したくないでしょ!?』

 自分と重なる。あまりにも状況は似ていた。

 そう間を置かず、野瀬が来た。

「野瀬さんっ!」

「おぅ! 見つけるぞ!」

 こんなに野瀬が頼もしく見えたことはなかった。警察の質問もそっちのけで機器を作動させる。やがて横浜方面に向かっていることが分かった。

「見つかるといいんだが……あのビデオの様子だと状況が厳しいですからね」

刑事の言葉が胸に刺さる。

「俺が……俺が一緒に下りるべきだったんだ……」

「俺もだ、華……なんで考えなかったんだろう……離れちゃいけなかったのにあいつを一人で行かせてしまった……」

 課長の悲痛な言葉は自分と同じものだった。


 俯いていた課長の頭が急に上がった。

「柏木……」

「柏木さん?」

 課長が携帯を取りだす。

「俺だ、河野だ! 相田のことを知りたいんだ、横浜であいつが行きそうなところはどこだ!?」

 華はやり取りを必死に聞き取ろうとした。けれど柏木の声が伝わってこない。そばに刑事が来た。

「部下です。犯人の相田と以前同じ職場にいた者です。柏木、今警察の人と変わる。分かる範囲を伝えてくれ」

 携帯は刑事の手に渡った。話を聞いて動きが慌ただしくなる。だが当時、横浜支店で相田の部下だった男性は答えるのを拒否した。


 柏木もオフィスに来た。横浜では噂にはなったが、誰も訴え出なかったらしい。相田に同じような目に遭わされた者はみな精神を病んで仕事を辞めてしまったと言う。

 その時柏木の携帯の着信音が鳴った。

「塚田!?」

 さっき警察の質問に答えなかったという男性の名前だ。

「聞いてるか? 俺、そいつを助けたいんだ。まだ22なんだ、そいつ。親も誰もいない、たった独りぼっちで生きてきたヤツなんだ。もう幸せになってほしいって思ってたヤツなんだ」

「そうだ、22だ。こんな目に遭っていいわけ無いんだ、分かるだろ? お前も辛かったと思う。けどそいつもお前と同じになってしまう。頼む、助けてくれ、頼む!」

 柏木の目がパッと輝いた。

「場所は!?」

 柏木が繰り返す場所を聞いて課長がオフィスを飛び出した。その後をコートも持たず華も飛び出す。

 駐車場で課長がアクセルを踏む前に助手席に華が滑り込んだ。

「分かったんですか!?」

 課長は頷いた。

「そこにいてほしい。予感がするんだ、そこだって」

「俺も行きます!」

 祈るような気持だった。

(そこにいてくれっ! 俺たちが着くまで無事にいてくれ!)


 携帯が鳴り、課長がチラッと見た。

「華、柏木だ、出てくれ」

 華はスピーカーオンにした。

「どうした」

 課長は努めて冷静になろうとした。

『あいつのやることが分かりました』

「相田の?」

『あいつ、捕まえた相手の体をずっとカッターで刻むんです』

 一瞬、柏木が何を言っているのか分からなかった。

「な……刻むって、どういう意味だよっ!』

『あいつが相手を……犯す前にやる儀式みたいなもんらしい。俺の同期のやつが言っていた、いまだにその感触が夢に出るって』

「切るって……どれくらいだ?」

 課長の質問に返ってきたのは恐ろしい内容だった。

『無数にって。延々続くって…』


 電話を切って沈黙が訪れた。それが続いている限りジェイロームは犯されない。けれど終わりが見えないほどそれが続いたら……

「あいつの神経じゃもたない……あいつは……」

「俺は信じるよ。あいつは確かに弱い。けどその芯は強いはずだ。だからうちの会社に入るまであれだけのことに耐えてきた」

「あれだけのこと?」

「ああ……そうだな、お前は知らないからな。……お前には話しておくよ。あいつはお前が大事だと言っていた。大事な初めての友人だと。だから知ってやってほしい」

 そして、入社するまでのジェロームの過去を聞かされた。祖父母に虐待を受けていたこと。同級生の虐めに耐えていたこと。入院した母親の看病でどれほど必死だったか。母が亡くなった時「お前が殺した!」と、祖父母に罵倒され、葬式の参列も許されなかったこと。

「そんな……それ、人として扱われなかったってことじゃないですか! まともな学生時代さえ送ってない……去年、やっと親の写真を見た? 自分の子どもの頃も……あいつ……だから何も知らないのか……」

「本当に知らないんだよ。前にデザートを食ったことないって言ったろ? 本当なんだ。初給料が入るまで昼飯は食わないつもりだった。給料をもらったらプリンとゼリーを買おうと思っていたそうだ。そういうヤツなんだよ」

(幸せになったっていいじゃないか……なんでお前ばっかり……)

 また携帯が鳴る。すぐにスピーカーにした。

『課長! 俺です、哲平! 千枝から全部聞きました、今俺も向かってます。近いから俺の方が早く着く。誰も間に合わなかったら俺が飛び込みますから!』

「哲平さん!」

 その声に涙が落ちた。長男が末っ子のために動いた。そう思った。

『華か?』

「お願い、ジェロームを助けて! 間に合って、頼むから……」

『……華……任せろ! 俺が一番手なら殴り込んでやる!』

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