第8話

 狭隘きょうあいな待合室には、老若男女のしかばねたちがひしひしと収容されていた。院長の計らいだろうか、西日のだいだいとそれを遮るカーテンの緑が、空虚で混ざり合うことで鼠色の、いかにも精神科らしいオーラを演出している。『愛は勝つ』のオルゴールバージョンが、精神を宥めるようにどこからともなく聴こえてくる。


「お願いします」


 診察券と保険証を渡し終えた京の後に続いて、ちょうど二人分だけ空いていた席に座る。立ち振る舞いから察するに、京はここの常連客のようであった。

 黒目だけを動かして周囲を見回す。“屍界隈しかばねかいわい”の規範に則るように誰もが俯いている。と、不意に受付の女と目が合った。が、すぐに逸らされた。もしや僕を、ここにいる精神異常者などと誤解しているのではないだろうか。

 そのような侮辱的な人間にカテゴライズされてたまるかと、掲示板に貼ってあるセンチメンタルなポスターの数々を、脚を組み、頬杖をつきながら見物することに徹した。



 

「32番でお待ちの方」


「僕だ」


 そう言うと京は静かに立ち上がって、視野も光も及ばない奥の方へと消えていった。数秒後、「コン、コン」というノック音とそれに応じるような扉の唸り声が、静寂の待合室に後を引いた。

 

 



 高校生活最後の夏の終わり、予備校から帰宅してスマホを見ると、京からLINEの通知が2件あった。


『見てほしいものがある』


 というメッセージとともに、一枚の写真が送られていた。

 リストカットだった。色白の手首に、何度も刃物で切りつけたであろう真っ赤な血の線がいくつもあった。交わることなく秩序を保って整列している傷からは、激情の中にある冷静さが感じとれた。


『手首を切ったら写真を送るから、文人くんにはただ見てほしいんだ』


『どうして僕なんだよ』


 見るだけなら僕である必要はないと思った。


『なんとなくだよ』


 その日から京は、“自傷日記”などと称したリストカットの写真を週ごとに送るようになった。ヒトの創傷過程は一週間前後と聞いたことがあるから、瘡蓋かさぶたが剥がれるたびに切っていたのだろう。写真を拡大してよく見ると、瘢痕化はんこんかした茶色の線が何本も上書きされていた。

 僕はその、深かったり多かったりする日記を評したりはせず、ただ生活にあるルーチンのように“既読”をつけた。京から口止めされていたわけではなかったが、僕は誰にもこのことを話さなかった。僕らのあいだに友人らしい会話はひとつもなかった。友人とも他人ともいえない関係だった。

 高校を卒業すると、自傷日記が送られてくることはなくなった。時間の経過とともに思い出は風化して、京のことはすっかり忘れていた。しかし、理科室でのあの特異な体験は、僕と京を制約する儀式のようなものだったのだろう。ゆえに三年経った今もこうして、京は僕に見せているのだ。

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